酒
私はなにも考えずに横になっていた。酔っぱらいについて考えようとしても、それは無駄なことであった。もっとも、自分の家の部屋にいるのだから、なにか大事が起こるとは思ってもいなかった。部屋で躓くぐらいが関の山だ。酔っぱらって、怪我をするのもそう多くあるものではない。あるいは、またなにか思い出して自殺するかもしれない。しかし部屋から出てこなければ、脇差しはないのだからその心配もない。今日はこのまま眠ってしまう可能性が高かった。
このまま邸を出て、もうヒサタケには関わらないようにしようと思ったが、そんなことは出きるはずもなかった。そんなことができるなら、私は町外れの田舎で、寺子屋でも開き、新しい女性と結婚して、子供を作って、休みの日にはその子供の手をひきながら川沿いを散歩したりするのだ。贅沢はできないかもしれない。食べる物は、庭でとれた野菜や、寺子屋に通っている生徒が、ときどき持ってくるお裾分けくらいなものだろう。私はそういうのを貰いながら、なんとかしてい生きてはいるが、心はずっと平穏が広がっている。そういう生活は誰かに任せよう。私にはもう縁のない世界なのだから。
私は立ち上がって、書斎に戻った。彼は長椅子に座ったままだった。テーブルの徳利はひっくり返っていて空であった。眼がどんよりとして、ギラついていた。そして、なにか物珍しそうに私の顔を見た。
「どうした、なにか用かい」
「なんでもないよ、大丈夫か」
「構わないでくれ」
私はテーブルのサンドウィッチをつまみ、立ったまま一口食べた。
「知っているか」と彼は突然言った。酔っている割に、はっきりと話していた。「僕は嘘つきなんだ。僕は、クマソ国や、キョウトがどうなろうとどうでもいい。難しいことは考えないようにしてる。しかし、僕の回りにいる奴らは、僕のような人間ではない。それが、あさましく、なんだか羨ましくもあるのだ」
「そんなことは、誰だって思うさ」
彼は悲しそうに笑った。「そうだね。僕の悩みは、ごく一般的なものだ」彼は手を伸ばして、転がっていた徳利を起こした。「君も寂しいだろう、友達が欲しいんだ」
彼は立ち上がって、部屋から出ていった。私は立ったまま、彼を待った。中庭には、雪がまた降ってきた。私はその落ちる雪を、なにも考えずに眺めいた。
ヒサタケは新しい徳利をもって戻ってきた。そして、長椅子に腰を下ろした。
「全部飲むわけじゃないだろうな」
彼は私を睨んだ。「出てけよ。人の家にいつまで居座るつもりだ。邪魔だ」
「俺に用があれば、大声で怒鳴ってくれ」
「お前になんて用はない」
そのつぎに私が彼の様子を見に行ったとき、彼は眠っていた。口の端しからだらしなくよだれを流し、長椅子に寝そべっていた。
二本目の徳利は、ほとんど飲まれていた。私は二つの徳利を部屋の外へ運び、もどってきて、襖を閉めた。あまりにも冷えていたからだ。
私は二つの徳利をもって台所へ行った。
そこは誰もおらずがらんとしていた。私はそこに徳利を二本おいて、縁側に戻った。だいぶ時間がたってから、雪が強く降ってきた。風も強くなって、風景は白色に染められていった。私は眼をつむった。
「あら、サイトウさん。来ていたのですね」
アサヒが雪をかぶりながら、廊下に立っていた。無理に落ち着こうとしているようすであった。
「何かあったのですか」
「ヒサタケは酒を飲んでいたが、心配はない。いまは長椅子のうえで寝ている」
「あなたを呼んだのですか」
「ええ、そうです。昼飯を食べようと誘われました。だが、彼は一口も食べていない」
「ああ」彼女はうなずきながら言った。「今日は料理人が休みなのです。うっかりしていました」
「平野が軽いものを作ってくれました。僕はもうお暇します」
彼女は笑った。「この雪ですし、どうですか、お茶でも飲みませんか」
「いただきます」どうしてそう言ったのかはわからかった。おそらく、この雪のなか帰るのが億劫になったのかもしれない。
彼女は肩の雪を払った。「ヒサタケの様子を見てきます」
私は彼女が書斎の襖を開けるのを眺めていた。彼女は少し襖を開けて、部屋を覗いて襖を閉めた。「よく眠っています。私は少し着替えてきますから、部屋でまっていてください」
私は彼女が廊下を歩いていく後ろ姿を眺めていた。彼女は見えなくなった。私は書斎に残ってある杯を片付けようと思い襖を開けた。眠っているものに盃など必要ないのだ。




