辻斬り現る
昔のことを思い出していると、もう日が暮れかけていた。
私はベンチから腰を起こし、門を閉める作業に取り掛かった。すると私の背後に軍服を着た青年が立っていた。
目の横に刀傷がある青年は奇妙な目つきで私を眺めていた。私も同じような目つきで彼を見返した。青年はいきなり敬礼の格好をして「サイトウ大尉でありますか」と言った。
「うんそうだよ」
「少将がお呼びです」
「どこの少将?」
「私も少将とだけ聞かされております。とりあえず本部に連れて来いと」
「本部へ!……どうしてだろう……」
「それは私にはわかりません。すぐに連れてくるようにと言われております」
「わかった。ちょっと待ってくれ」
私は門の閉める作業を急いだ。そして、呼び出しの原因について考えていた。軍のお偉方が私なぞに用事があるはずはないのだが。もしかしたら、この間の桐野大佐の件についてだろうか。
「では、行こうか」と私は言った。
通りは夜になろうというのにやりきれない暑さだった。このところ一滴の雨も降らない。埃とレンガと漆喰、屋台屋と居酒屋の悪臭、酔っ払いの群れ、客引きの娼婦、仕事終わりの看護婦が歩いている。それらのゴタゴタした匂いが生暖かい風に運ばれ、頭がクラクラしてくる。
大通りの角までくると私はある不安に駆られ、共に歩いている青年をチラッと見て、すぐ目をそらした。もしこの男がサクラ会のものなら 私に斬りかかってくるに違いない。私は本部の建物に近づきながら思った。
軍本部の建物まではもう二、三百メートルのとこだった。つい最近、建物の補修作業を終えたばかりでもあった。以前なら私もこの建物の中で仕事していた。門をくぐってすぐ右手を見ると軍服を着た若者たちが階段を降りて行くところであった。「では五階の応接室へ入ってください。私はこれで」 そう言って刀の傷のある青年は建物の中へと入っていった。
階段は狭く、険しく、汚れていた。この階段は一階から七階までの非常階段になっていて、ほとんど掃除されていなかった。 熱気がこもっていた。階段は誰も通っておらず、私の足音だけが響いていた。私は五階にたどり着くと、長い廊下を歩いた。ここもひどく蒸し蒸しするように思えて、新しく塗り替えたペンキの匂いが吐き気を催しそうであった。
四番目の部屋に応接室と書かれた表札があった。私はノックをした。「おおう、入ってくれ」 と中から声がした。
私は部屋に入った。部屋は広く、テーブルが一つ、その両サイドに黒革のソファーが二つ、そしてデスクが一つあったが、まだゆとりのあるように思えるほどであった。
デスクにはハンバーグを二つつけたような髭を生やした、背の高い大久保少将が座っていた。
片方のソファーには袴姿で痩せた、目のギョロギョロした、これもまた背の高い男が座っている。「おおう、よく来た。まあそこにかけてくれ」
私は誰も座っていない方のソファーに腰掛けた。袴の男は私の顔をじっと見た。私はその大きな目に吸い込まれそうになった。
「君に出世の話がきているんだ」ハンバーグの付いた大久保少将は言った。
「じつは今度 、シマヅ卿が上洛なさる。私もその上洛の共をすることになった。ぜひ剣の達人である君に護衛の役を頼みたいんだ 」
「おそれながら、私程度の腕なら他に何人でもおりましょう」
大久保少将は唸った。「私は君を見込んで言っているのだよ。キョウトに行くのはたとえ護衛でも少佐が約束されている。少佐以下だとキョウトでの公的機関への出入りが許されていないからね」
「しかし、少尉から急に少佐になれば周りの反感を買います」
「言わせておけばいいじゃないか。現にこのソファーに座っている西郷さんは、三日前まで島に流されていたのだが、明日から中将になられる。我が国ではたまにこういった訳のわからない人事が行われるのだよ」
「この方が、あの西郷さんですか。お言葉ですが少将、西郷中将と私では全然話が違います。英雄と一介の警備員を一緒に考えてもらっては困ります」
「困りますじゃと……何が困るんじゃ」そう言って少将はデスクを両手で叩いた。
「どうしてお前はいちいち、わしに逆らうんじゃ。わしがそんなに嫌いなのか、ええ、それともまだ出世から外されたことを根に持っておるんかいや」
「大久保やめや」西郷中将は諭すように言った。
「お前の言っていた通り、サイトウ君はなかなかのへそ曲がりらしい。でもお前も昔からへそ曲がりで有名じゃったからお相子や。そんな二人が話おうたってなんも決まらん。あきらめや大久保」
「わかったわい」大久保少将は二、三度咳払いをして「ではサイトウ君、この話はなかったことで。もう帰ってよろしい」
「はい少将失礼します」
「ああ、そうじゃ。気をつけて帰るんだぞ。最近はなにかと物騒だからな」
「お心遣いありがとうございます。では失礼します」私は部屋を後にした。
大久保少将は信用ならない男である。護衛とかこつけて何をさせられるかわかったものではない。
私は人気のない通りを歩いていた。もうすっかり暗くなって月が出てきた。私の行く手に一人の男が立っていた。その男は見せつけるように刀を抜いた。「何者だ」私は叫んだ。
男は走って私に斬りかかってきた。私は右腕を切られた。血がかなり出ているが、気にしている場合ではない。私も刀を抜いた。男は上段に、私は中段で構えた。そのままの姿勢で私たちは睨み合っていた。
相手の顔は黒い頭巾をかぶってわからなかった。「サクラ会のものか」と私は言った瞬間、男の懐へ飛び込んだ。そうして、男の振り落とす刀を避け、右の胴を斬りつけた。男は血一つ出さなかった。
「鎖帷子か」
男はまた上段の構えをした。右腕がひどく痛かった。死ぬかもしれない。死ぬことは怖くなかった。しかしこんな顔を隠した卑怯者にくれてやる命などない。私はもう一度、中段の構えを取った。すると背後から声がした。
「誰か来て。辻斬りです」その声で、二人の軍人が走ってきた。
「貴様ら、こんなところで何をしている」
頭巾の男は一目散に逃げ出した。私はその場で腕を押さえて座り込んだ。
「見せてください」そう言って女性が近づいてきた。女性は私の怪我を見ると、自分の白いスカートの端を切って、その布で私の上腕を縛りつけた。
「痛い」私は思わず言った。
「近くに私の勤めている病院があります。歩けますか」
「ええ」と私はいった。そうして、彼女に支えられながら病院へ行った。




