月夜
満月の夜は嫌なことばかり思い出してしまう。戦争、殺戮、飢饉。くだらない。これが無能な外交官のできることさ。僕にはなんの力もない。一介の軍人にすぎないのだ。また、仕事の話だ。こんなことを思い浮かべる日は、布団をしいて眠ってしまうのがいい。僕はいったい何に恐れているのか。わからない。布団のなかでいたとしても、黒い獣はいつ襲ってくるのかわからないのだ。もうずいぶんとセックスをしていない。
心も身体も汚れてしまった。どんなに洗っても落ちない汚れはある。この汚れからの匂いが、また僕を苦しめる。それは汗をかいたときにも漂うし、忘れることができないもので、僕の身体と心にしっかりと刻まれているのだ。酒がもうなくなった。もう一本持ってこよう。こんな気分に飲む酒は、いつも決まって深酒で、飲めば飲むほど眠りから遠ざかっていくような気がする。
こんなものは始めの数回はいいが、癖になってはいけない。苦しいから飲むと、酒が手放せなくなるし、その効力は次第になくなっていく。ついには、どれだけ飲んでも苦しさがとれなくなってしまう。すると、久坂を呼んだりする。さあ、君の目指す世界にいこうじゃないか。もう久坂はいない。故郷に帰ったのさ。それともどこかで殺されたのかな。あるいは女とどこかにひっそり暮らしているのかもしれない。あんな狂犬でも、そんな夢をみるのだろうか。しかも、あんな人と。さあ、ヒサタケそろそろ起き上がらないといけない。
なんということだ。僕はとうとう起き上がったのた。僕は長椅子に座り、両手で顔を覆ってみた。ああ、涙が出てくる。僕は祈った。そして、そんなことをしている自分を軽蔑した。いったい何を祈っているのだ。僕の身体はまだ動くし、祈るには早すぎるのではないだろうか。祈りなどくだらない。この世界は君ひとりの世界なのだ。君だけの世界。祈ることなどやめるんだ。さあ、顔をあげなさい。さあ、もう一度酒を飲みなさい。他のことなど考える必要はないのだよ。
僕はグラスに手を伸ばした。手は震えていた。ほとんど一気に飲み干した。口の端から少し酒がこぼれた。暖かくなってくる。グラスは空になった。もう用はすんだ。さあ、寝室へいこう。僕の心に悩みはなくなった。それはもう過去のことだ。
僕は暗い廊下を渡って寝室へ行く。心臓がやけに騒がしくなる。しかし、僕は手紙をかき続けている。酒というのは、なんという魔法をかけるのであろうか。いつもこのように働いてくれれば問題はない。
彼女の寝室は開いていて、横を向いて眠っていた。もしかしたら死んでいるかもしれない。それほど、音というものが世界になかった。近くに行って確かめるべきだったのかもしれない。彼女はうっすらと目を開けた。本当に目を開けたのだろうか。僕を見ただろうか。そうすれば、彼女は僕に「どうしたの?」と問うはずだ。なんでもないんだ。きにしなくていい。どうかしているのは僕の方で君じゃないんだ。君は美しい顔をして静かに眠っていればいいのだ。
この変態め、ヒサタケ、お前はむっつりなんだ。僕は暗い廊下を歩いて、また書斎に戻ってきた。ひどく疲れた。僕は長椅子に寝そべって、疲れがとれるのを待った。ヒサタケの生涯で唯一いいとこは酒に困らないところだ。うるさく言う人もいないし、買う金には困らない。
僕は平野に知恵を与えすぎたのかもしれない。間違いだった。はじめは孔子からはじめるべきだったのかもしれない。それから少しずつ、僕の考えを伝えるべきだったのかもしれない。僕の考えが何になるかわからないが、あの平野という男なら、冗談のような発言からでもなにか生み出してしまうかもしれない。その為に血が流れるかもしれない。それもよかろう。立派な人間が僕のために死んだことがある。
誰かを呼ぼう、気が狂いそうだ。顔中に虫がはりついているように痒くなってくる。手紙をだそう。久坂に来てもらおう。あんな男に金をあげなくちゃならんのは癪に触るが、まあ仕方ないではないか。あの男はまだこの世界を変えられると思っているのか。あんな稚拙な方法で。世界を変えるのは僕の方だ。君のような青二才ではないし、我々の計画は、君のようなぱっとでの思い付きではないのだ。
ところでどうしてこんなつまらないことを書いたのだろう。さあ、手紙を送ろう。なんだかひどく憂鬱になってきたな。
これだけだった。私は手紙を読んで、胸元にしまった。小さな窓から外を見た。月に雲がかかっていた。私はしばらく月を眺めいた。それから、女の悲鳴が聞こえてきた。
私は急いで悲鳴のもとへ駆けつけた。アサヒの部屋の襖が開いていて彼女の姿はなかった。ヒサタケの寝ている部屋から声が聞こえてきた。アサヒがヒサタケに寄りかかって争っていた。黒く光る小太刀の柄が見え、それを男の手と、女の綺麗な手が取り合っていた。ヒサタケは布団の上で座っていた。彼女は白い寝巻き姿で、髪も乱れていた。彼女は両手に力をいれると、彼の手から小太刀を奪い取った。たとえ彼の体調が万全ではなかったとしても、私は彼女にそんな力があったことに驚いた。
彼女は小太刀を両手に強く握って、胸元に押し当てていた。そしてすすり泣く声が聞こえた。私は彼女のそばに行き小太刀を掴んだ。
彼女は私がいることにやっと気がついたように私の顔を見た。彼女は両目を見開いて、私に寄りかかった。彼女は小太刀を放した。重くて扱いににくい刀であった。私は彼女を片腕で支え、反対の手で小太刀を持った。彼女の頭越しにヒサタケを見た。誰もなにも言わなかった。
ヒサタケは無理に笑って言った。「刀の手入れをしていただけさ」と彼は言った。
「ヒサタケ」と彼女はほとんど囁くような声で言った。「下手な嘘はやめて」
彼は放心したように彼女を眺め、なにも言わなかった。彼女は私からはなれて部屋の隅へ行った。そして機械的に髪を整えた。「可哀想な人、ほんとに可哀想なひと」
「変な夢を見たんだ」と彼はゆっくり言った。「刀を持った人間が僕の寝込みを襲った。平野かもしれない」
「そんなはずないわ。平野はとっくに寝たのよ」
「わからないよ。ああいう人間はなにをするのかわからない。それに平野は僕を嫌っている」
「君が好きな人間なぞ一人もいないさ」と私はすかさずいった。
アサヒは私を睨み付けた。「どうしてそんな言い方をするのです。ヒサタケは知らなかったのです。夢を見ただけです」
「刀はどこにあった」私は彼女から目をはなさず言った。
「薬のひきだし」
もちろんひきだしに小太刀など入っていなかった。薬のなかにあんなものが入っていたら私が忘れるはずがない。私は険しい顔で彼を見た。
「いい加減なことを言うな。キミは自殺するつもりだったんだ。夢なんか見ていない。なにもかも嫌になって、自分が情けなくなっんだ。ひきだしに小太刀は入っていなかった。起き上がって小太刀をとってきて腹を切ろうとした。しかし、勇気がでなかった。そうこうしているうちに奥さんが君の部屋の前を通った。それが目的だった。君は腹を切るつもりなんてなかった。奥さんも争ったのも芝居だろう。君がその気になれば奥さんから小太刀を奪われることなんてないさ」
「そうかもしれない、でもどうだっていいだろう」
アサヒがいきなり立ちあがった。「もうたくさん」と彼女は鋭く言った。
「部屋に戻りなさい」と私は彼女に言った。
彼女は輝いた眼で私を睨んだ。
「部屋に帰りなさい。こういうことは軍に知らせなければならない」
ヒサタケは急に笑い声をあげた。「おいおい、小松の時とえらく扱いが違うじゃないか」
私は彼の言葉を無視した。じっと彼女を見ていた。彼女は疲れた顔をしていたが、月明かりが照らすその顔は美しかった。私は手を伸ばして彼女の手首を掴んだ。
「もう心配しなくていい。二度とこんなことはさせません。おやすみなさい」と私は言った。
アサヒはヒサタケを見つめて部屋を出ていった。彼女が出ていくと、私は言った。
「薬を飲むか」
「いや、いらないよ」
「芝居にしては少し大人気ない」
「返す言葉がみつからないよ」と彼は顔をそむけた。
「ほんとうに自殺しようと思えば誰も止められない。君もわかっているだろう」
「もちろんわかっている」彼はまた顔をそむけていた。
「平野のことは気にしなくていい」と私は言った。「君を嫌っているというのは嘘だ。君のことを好きな人はいないと言ったこともね。アサヒを怒らせようとしたんだ」
「どうして」
「もうまいっているだろうからさ」
彼は微かに頭をふった。「アサヒはそんなやわな女じゃない。あれは武家の女だ」
「じゃあ、演技だったんだ」
彼は私の言葉にも頭をふった。それからなにも言わなかった。
「立派な人間が僕のために死んだことがあるというのは」と私は訊いた。
彼は恥ずかしそうに笑った。「特に意味はないよ。いったろ夢を見たって」
「聞きたいことがある、平野になにを教えたんだ」
「もうよせよ」と彼は目を閉じた。
私は立ち上がって襖を閉めた。「いつまでも隠しておくわけにいかないだろう。女か」
「坂本のアホが言ったのを信じているのか」と彼は目をつぶったまま言った。
「信じているわけでもない。でも、シズはどうなんだ」
「君はなにか勘違いしているようだ。そのためにここに来たのか」
「俺は呼ばれたんだ。君が呼んだんだよ」
「妻を愛しているように見えながら、他に女を作っている亭主は僕だけじゃない」
私は意地の悪い笑みを浮かべた。私にある考えが浮かんだのた。相手が出した微かな弱みを、痛ぶろうとしているのだから。彼がどんなに苦しもうと痛くも痒くもないのかもしれない。
「まあ、いつか話してもらうよ」
「僕に話すことはないよ」
「そう思っているだけさ」
「僕は君と違う世界で生きているのだ」
「もちろん。そして、それは誰でも同じなんだ。さあ、飲むんだ」私はひきだしから薬を取り出して、グラスに水を注いだ。私は彼の手にグラスを握らせた。彼は薬を飲むと、そのまま布団の上に転んだ。まるで子供のように従順だった。今夜は人を殴ったりしないだろう。そんなことがあったとは到底おもえないのだが。
彼が目をつむったのを見て、私は部屋を出た。私は小太刀を中庭に投げ捨てた。廊下を歩いてると、アサヒの部屋の襖が微かに開いていた。部屋は暗かったが、その隅で座っている彼女の姿が目にうつった。彼女は誰かを呼んだようであったが、私の名前ではなかった。私は部屋にはいった。
「きっと戻ってきてくれるとおもっていたの」と彼女は囁いた。「たとえ死んだとしても」
彼女はどうかしていた、しかし、それと同じくらい私もどうかしていた。
「ねえ、襖を閉めて」と彼女は私に甘えるように言った。「ずっとあなただけをおもっていたの」
私は後ろの襖を閉めた。私は彼女の言葉に逆らえなかった。私が向き直ると、彼女が私の胸に飛び込んできた。私は彼女を抱きしめた。そうしなければならなかった。彼女は私に身体を押しつけた。接吻をするために我々は見つめあった。彼女が微かに口を開けた。私は接吻をした。舌が伸びた。彼女の身体は震えていた。帯をひっぱると、寝間着の前がはだけた。私はその姿をいつまでも見ていたかった。
「ねえ、寝かせて」と彼女は呼吸を荒くしながら小声で言った。
私は言われた通り、彼女を布団へ運んだ。裸の皮膚は不思議なほど暖かかった。彼女は両腕を私にまわした。荒い呼吸が続いた。身体をくねらせて、声を殺して喘いでいた。私は自制心を失っていた。
そのとき、平野が私を救った。微かに背後から物音が聞こえた。振り向くと襖の微かな隙間から覗いているものがいた。外に飛び出すと、平野は廊下を駆けていった。彼は途中で振り向いて、私にいやらしい笑みを浮かべた。そして、暗闇に消えていった。
私は彼女の部屋の前まで戻って、外から襖を閉めた。布団の女はなにか言ったが聞こえなかった。
それから私は書斎へ行って、長椅子に寝そべった。




