迷い
平野は髪を結っており、勾玉のついた首飾りをつけていた。相変わらず髭を無造作に伸ばしている。
「これはこれは」と平野は馬鹿に丁寧なお辞儀をした。
「サイトウさんを手伝ってあげてください。部屋に運んでください。申し訳ありませんけど」
「いいえ、おやすいごようです」と平野は微笑みを浮かべた。
「すっかり疲れてしまいました。私はお先に休ませてもらいます」
彼女は暗い廊下を歩いていった。平野と私は彼女の背中が見えなくなるまで眺めていた。
「素晴らしい女性です」と彼は声をひそめて言った。「今夜は泊まりですか」
「いや」
「それは残念です。昔、おもてなしのひとつで自分の妻を差し出す風習があったとか、なかったとか」
「妙なことを言うんじゃない。さあ、部屋に運ぼう」
彼は縁側で涎を垂らしているヒサタケを哀れむように見ていた。「かわいそうに」彼は静かに言った。「こんなに酔っぱらっている」
「君の言うことは確かだが、いまは言葉より動くときだ。さあ運ぼう」
我々はヒサタケを抱えた。ひどく重く、瓦礫のようであった。廊下を通って運んでいると、ある部屋を平野が顎で示した。
「奥さんの部屋ですよ」と彼は囁いた。「声をかければいれてくれるかもしれませんね」
私は彼が必要だったのでなにも言わなかった。我々は部屋にはいって、ヒサタケを寝かせた。それから私は平野の腕を力強く掴んだ。彼は目を丸くして私の顔を見ていた。
「名前はなんという、この変態野郎」
「放せ」と彼は言い返した。「俺を馬鹿にするな。お前らの方がよっぽど変なくせに」
「わかったよ、この色男。世話になっている人に無礼なことを言うもんじゃない」
彼は私の手を振り払って、後ろにさがった。目は怒りに燃えていた。彼は片方の腕を刀の柄に手をかけた。
「気をつけた方がいい。俺に気安く触るな。馬鹿にもするんじゃない」
「なんだ、脅しか」と私は言った。「所詮、君の刀など見世物だ」
彼は薄ら笑いを浮かべながら私に近づいてきた。
「こんなに近づくと、肘を折られてしまうぞ」と私は言った。「こんな風に」
私は彼の右腕を捉えて、態勢をくずさせ、腕を背後にねじ曲げると、私の前腕を当てて力を加えた。
「もう少しで、三ヶ月は刀を使えなくなる。もっと力をいれると、もう刀を振れなくなるかもしれない。さあ、ヒサタケを寝かせるんだ」
私は手を放した。彼は苦笑いを浮かべていた。ヒサタケのそばにいって布団をかけた。枕には血がついていた。
「誰が彼を斬った」
「俺じゃない、転んだといっていた」
「転んだところを見たのか」
「俺が来る前のことだ。君は彼が好きなんだな」
「誰かがついていなきゃならない」
「俺が見ているよ。用があったら呼ぶよ」と私は言った。
「間違いがあったら承知しないぞ、わかったな」彼は落ち着いて言った。
彼は部屋から出ていった。私は濡れた手拭いで彼の額を拭いた。二センチほどの長さの傷があらわれた。たいした傷ではなかった。それから、彼の顔を拭いた。これが間違いであった。
彼はゆっくり瞼を開けた。はじめはぼんやりとした顔をしていたが、次第に焦点があってきたのか布団のそばで座っている私を見つけた。片手が動いて、傷口に触れた。なにかを呟き、次第に声がはっきりしてきた。
「君が僕を殴ったのか」
「誰も殴ってはない。転んだんだ」
「いつ、どこで?」
「どこだかわからないが、おおかた俺に手紙を送った後に転んだのだろう」
「君に手紙を出したって?」彼は薄笑いを浮かべた。「いつでも来てくれるんだな。アサヒは?」
「寝たよ、ひどく疲れているようだった」
彼は黙ってなにかを考えていた。「もしかして僕は……」その後を言わず目を閉じようとしていた。
「俺が知る限り、奥さんを殴ったりしていないようだ。ただ中庭で転んだだけだ。さあ、眠らないといけない」
「そこの薬をとってくれないか、ひきだしに睡眠薬が入っている」
私はひきだしを開けて紙に包まれている薬を渡した。それから、私はグラスに水を注いだ。彼は薬を流し込むと、仰向けになって天井を見た。時間が過ぎていった。眠りそうな気配はなかった。やがて彼がゆっくり言った。
「思い出したことがある。つまらないことを書いた紙が、書斎のデスクの上にある。破いて捨てておいてくれないか」
「いいぜ、それだけか」
「アサヒは本当に大丈夫なのか」
「心配することはない。疲れているだけだ」
「ありがとう。君がいてくれて助かるよ」
沈黙が続いた。ヒサタケは瞼を重そうに開けていた。
「人を殺したことがあるか、サイトウ」
「たくさん殺した」
「嫌な気持ちだろう」
「殺すのが好きな人間もいる」
「君も好きなのか」
私はなにも言わなかった。彼は瞼を閉じた。やがて微かな寝息が聞こえてきた。私はしばらく待ってから部屋を出ていった。
私はアサヒの部屋の前で足を止めて、耳を澄ました。なにも聞こえなかった。声はかけなかった。私は書斎にはいると椅子に座って、辺りを確認した。ここで頭をきった可能性があるからである。デスクの角を手拭いにでこすると微かに血がついた。屑籠が部屋のすみに転がっていた。ヒサタケはおそらく屑籠につまずいて、デスクの角に頭をうって、癪にさわって屑籠を蹴飛ばしたのだ。
おそらく彼はそれから酒を飲んだのだろう。酒が入っていたであろうグラスが、デスクの近くに転がっていた。
この辺はまあ予想通りである。この部屋に転がっている夫を見てアサヒはどうしたのだろう。どうにもてに終えなかったし、なにを言っても無駄であったため、手を出すのが恐かったのかもしれない。それならば、誰か呼ばなければならない。平野も留守であった。彼女は坂本に手紙を送った。ともかく、私が来てから呼んだに違いない。私が来たとき坂本を呼んだことは言わなかった。
この辺からわからなくなってくる。ふつう、彼を探して怪我の状態を確かめたりするはずなのだ。この寒い夜のことだ。外で倒れていたらなにがあるかわからない。動かすことができないのならなおさらである。だから、彼女が入り口の前で立っていたのは誰だって想像できなかったろう。こんな状態のなかでも、彼のそばによることをどれほど恐れていたのか知らなかった。「私はもう嫌になったのです」と彼女は言った。それから家に入っていった。
私は何となくその言葉が気になっていた。今日がはじめてでなく、そんなことが何度もあってなにもできなかったであろうと考えるしかできなかった。ほんとうにそれだけかもしれない。
しかし、腑に落ちなかった。また平野が来ると、自分の部屋に引きさがっのも気になった。彼女は夫を愛していると言ったが、酒によって、情緒の不安定な彼を愛しているのかわからなかった。誰だってそんな人間を好きになりやしない。よし、忘れよう。しかし、それほど恐怖を感じているのなら、部屋などに引っ込まずに、入り口の近くで煙草を吸ったままでいるべきではないだろうか。
なにか他にあるかもしれない。女かもしれない。それを知ったからかもしれない。シズだろうか。だから坂本はわざわざ皆の前で怒ったのかもしれない。
私は考えるのをやめてデスクの上を見た。アサヒに見せないように私が破かなければいけないものがあった。私は手紙を長椅子に持っていき、腰を下ろして読み始めた。私の読んだ手紙は、まったく予想もつかないものであった。




