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風薫る  作者: しょーた
第三部 キョウト
34/61

シズ

 


 三日後アサヒから手紙がきた。次の日の夜、家でパーティーを開くので一緒に飲まないかという誘いであった。ヒサタケも私に会って、あらためてお礼が言いたいようだ。そして、あのキスのことも書いてあった。もっとも「近頃、キスなんてものは挨拶にすぎないのです」と書かれてあった。


 私は手紙を読み終えて、しばらく考え事をしていた。それから、なにかおかしいことを思い浮かべようとした。どちらもうまくはいかなかった。そこで、小松の手紙を読み返してみた。頼まれた酒を飲んでいないことに気がついた。ちょうど、二人でいった居酒屋が静かな時間であった。私は小松を思い出すと悲しくなった。私は居酒屋にいかないでおこうと思った。しかし、そういうわけにもいかなかった。彼との思い出を多く持ちすぎていたのだ。小松は私に迷惑をかけたが、それ以上の迷惑を私はかけていた。


 居酒屋に入ると客はほとんどいなかった。店の隅に紺色の着物をきた女性が一人座っているだけであった。彼女は私に背を向けて座っていた。テーブルには、お猪口が置いてあり、煙草でも吸っているのか彼女のまわりには煙があった。


 私は女から離れて座った。店員がすぐ私のところへきた。彼は私の顔をみた。「おひさしぶりです。今日はお一人なのですね」


「友達が旅に出たんだ」と私は言った。「酒をひとつ、お猪口をふたつくれないか」


 店員はうなずいて去っていった。私は女の方をちらとみた。女は私に気がつくと、私のテーブルへ近づいてきた。「サイトウさんでしたの」


 女は旅籠屋の若い女中であった。大きな黒い目がして、うっすらと化粧をしていた。


「ひとりですか」と私は言った。


「ええ、友達を待っているのです」


「よければ、それまで一緒に飲みませんか」


「ええ、よろこんで」彼女は微笑んだ。


 店員がきて、私のまえに酒を置いた。口をつけてみると、喉の奥がすぐに熱くなった。若い女中が自分のお猪口をもって私に差し出した。我々は一緒に飲んだ。


 私は彼女を口説くこともなく、ただ座ったままでいた。「じつは友達は、もう来るかわからないんです」と彼女は言った。「もし来るとするなら、彼は私のことがまだ好きなのかもしれません。いつも、この居酒屋で待ち合わせをしています」


「静かな時間です」と私は言った。「酒場でおちつけるのはこれからです」と私は酒をのみ干した。


「サイトウさんは、よくおひとりで飲まれているのですか?」


「友達が来る予定でした」と私は言った。


「おともだちの名前は、なんていうのです」


 私は言うか一瞬戸惑った。彼女は煙草に火をつけて、煙を飲んでいた。「小松」と私は言った。


 彼女はいちど大きくうなずいた。「知っています。その人について、坂本からよく聞いています」


「坂本をご存じなのですか」


「ええ、同郷の人ですから。それに私の待っている人は坂本ですの」


 店員が私に近づいてきて酒をみた。「もうひとつ持ってきてくれ」と私は言った。


「では、あなたもシ国出身なのですか」


「ええ、あなたはとっくにご存じかと思っていました」


 私は戸惑った。そして、彼女の顔をじっと見つめた。


「イゾウの妹です。オカダシズともうします」と彼女は落ち着いていった。「あなたのこともよくご存じです、サイトウさん」


「いい風ではないでしょうね」


「すべては信じていないのです。噂というのは尾ひれや背びれがつきものですから」


「俺が憎いですか」


 彼女は微笑んだ「いえ、べつに。言ったでしょう、あなた方のことをよく知っていますから」


 店員が飲み物を運んできた。彼が去ってから私は言った。


「俺と小松はよくこの店で飲んでいました。彼との付き合いは長いが、仲がいいと思っていたのは俺だけなのかもしれない。彼に妾がいたことをずいぶん知らされなかったし、彼が俺に心のそこを見せたことなどほとんどなかった。こんなことも知っていましたか」


「それは、あなたの思い過ごしじゃないのかしら」


 彼女はお猪口に手を伸ばした。白く細い手首が目についた。その手はまだまだ瑞々しかった。


「そうかもしれない」と私は言った。「俺はいつも彼のことを考えていたのかもしれない。あなたはどうです」


 彼女は酒を一口のみ、なんでもなさそうに私をみた。「じつは女の人の方も知っていたのです。だから、あんな事件になって残念だと思います。せっかく、あの人は贅沢をさせてくれるいい人を手にいれたのに、その人によって殺されなければならないなんて」


「いい女だったのでしょう」


「皮肉はよしてください。サイトウさん、世間にはそんな人を手にいれるために色々知恵を絞る女性が一定数いるものです。小松さんだってそれを知っていたに違いない。夫らしく扱ってもらいたければできないこともなかったはずなのです。殺す必要などありはしなかった」


 彼女は身体を前のめりにして私をみた。そして、「あの人は逃げたのでしょう。私が聞いた話が本当だとすると、あなたが逃がしたのでしょう。さぞ鼻が高いことでしょうね」


「ただ仕事をしただけです」


「そんな都合のいい言葉を使わないでください。不誠実です。私は真剣にあなたと話しているのです」


「もう、終わりにしましょう」私は彼女からお猪口を取り上げ、残りをのみ干した。「俺も話しすぎました。小松について新しいことが聞けると思ったのです。コトという女性の顔がミンチにされようと知ったことじゃない」


「ひどい言いぐさですね」彼女は怒気を含めていった。


「もちろんです。俺もひどいと思いますよ。彼があんなことをしたと思っているのなら、ここの居酒屋には来ませんがね」


 彼女は私を見つめた。やがて、ゆっくり言った。「あの人は殺されていますが、手紙を残したそうですね」そう言って彼女は突然、笑みを浮かべた。「すみません、あなたが真剣なのがわかりました。あなたが自分の仕事を正しく見せようと思ったものですから」


「俺は馬鹿なことをして新撰組に連行された。彼の手紙のお陰で、もっとひどい馬鹿なことをしないですんだ。彼が生きて帰ってきても、俺は巻き添えを食らったでしょう」


 彼女はゆっくりと言った。「色々考えてみると、これが一番よかったのかもしれませんね。近ごろの警察組織なんてのは、事実をねじ曲げるのは日常茶飯事ですしね。罪のないものが罰せられても平気な顔をしているのですから」


「よくご存じだ」


 彼女は椅子の背に寄りかかった。「誰にとっても、犯罪が解決することが一番いいことなのでしょうけど」


「もう一杯だけ飲みましょう」と私は言って、店員を呼び出した。「あなたはなにもかもご存じだ。気味が悪いくらいに。そんなことを誰から聞いたのです」


「コトは私の友達でした」と彼女はこともなげに言った。「それから坂本を通して、西郷大将ともなんどかお話を聞かせてもらいました」


「西郷オヤジが……西郷大将ともあろう人が、そんな秘密をベラベラ話してはいけませんね」


「あなたにひとつ警告しておきたいことがあります」と彼女はゆっくり言った。「簡単な警告です。もしあなたが西郷大将のことを言いふらして街を歩いたなら、あるいはまだあの事件を探っているのならやめておいた方がいい。小松さんと同じ道をたどることになります」


「そうかもしれませんね、シズさん。同じようなことをイズモ国とシ国の人間に言われたことがあります。言葉は違いますが」


 彼女は立ち上がって軽くうなずいた。「もうずいぶん酔っていらっしゃる。おやすみなさい。お目にかかれてよかったです」そう言って彼女は出ていった。酒を飲んだとは思えない、しっかりとした足どりであった。




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