疑惑
二人が出てきたとき、坂本は門のまえに立っていた。彼は口笛を吹いていた。そして、家のなかへもどっていった。
ヒサタケはふらふらと歩きながら、私の隣に立った。久坂もついてきた。顎を砕かれそうになった人間とは思えないほど、毅然としっかり歩いていた。我々は歩き出した。しばらくして、久坂が話し始めた。
「お金のことなんだが、ヒサタケさん」
ヒサタケは軽くうなずきながら「考えておくよ」と言った。
「あなたは私に借りがある」
「脅しはやめておいた方がいい。いまは護衛がついている」
「私はあなたを匿って、面倒をみた。窮地に陥ったときも助けてあげた。怪我をして夜中に駆け込んだときも、医者を手配した」
「それならこれ以上、金を払う必要はない。もう充分まきあげただろう」
久坂はあきらめなかった。「イズモの頭の固い連中を動かすには金がいるのです。あなたは金持ちだ。私を救える人間です。私は浪人たちの面倒を見なくてはならない。このまま国へ帰っても、牢に入れられておしまいだ。その前にひとつ大きな花火をあげたい。きっとお返しはします」
私は胸元をさぐってみた。煙草の箱が手に触れた。私は箱を取り出さなかった。煙草を吸える雰囲気ではなかった。
「もちろん、君なら返してくれるだろうよ」とヒサタケは面倒くさそうに言った。「果たして、その時まで生きていられるのか。君は坂本に裏切られでもしたらおしまいなんだぜ。人を信用しすぎるのはいけない」
久坂は立ち止まった。表情は見えなかったが、声が少し大きくなっていた。「信用して死ぬのならそれはそれでいい。きっと君はこんな死にかたしないだろうけどね」
彼は振り返ってもときた道を歩いていった。やがて見えなくなった。
「バカなやつだ」とヒサタケは呟いた。
我々はまた歩き出した。しばらくして、ヒサタケが話し始めた。
「どうして、金があるやつが金をあげなくてはならないのだろう」
「あげたくなければあげなくていい」
「では、どうして僕はあいつに金をあげたくないのだろう」
「理由なんてないさ」
彼は私の顔を少しみながら言った。「あいつは僕をバカだと見下しているんだ。坂本も同じだ。金を全部まきあげたらもう用なしなんだ」
「本当はそうして欲しいんじゃないのか」
「君は彼らの肩を持つのか」
「どうでもいいよ、そんなこと。俺にとってはただの仕事だからね」
また沈黙が続いた。道の両端には大きな屋敷がいくつも並んでいた。ヒサタケはまた喋りだした。
「金はやってもいいんだ。彼は政治に僕のあげた金を使うだろう。しかし、その指示をだしているのは坂本なんだ。僕とあいつは、キョウトに来たときから付き合いだが、あいつはなんだか信用できない男だ。でも、皆あいつに騙されていることに気づかないんだ」
「俺にはそんな風には見えなかったぜ」
「僕は政治家だ、ああいう舞台の男たちの気持ちは手に取るようにわかるつもりだ。だけど、坂本だけはなにを考えているのかわからない。そこが彼の恐いところだ」とヒサタケは言った。「あの角を曲がってくれ」
「知ってるよ」
「君は小松と仲が良かったね」彼の声が急に鋭くなった。
「そうだ」
彼は暗闇のなかで私を見つめた。「僕は小松の女を知っている」とヒサタケは言った。「彼と飲んだときに一緒になった。妙な事件だ。新撰組に連行されたそうじゃないか」
私はなにも言わなかった。
「話さなくても、言いたいことはわかるよ」
「君にはわからないよ」
「いいね、聞かせてもらおう」
「いまはよしておこう。君の死にかけの体には少々刺激が強すぎるからね」
「そんな言い方はないだろう。わかったぞ、俺が嫌いなんだな」
我々は曲がり角を曲がった。
「どちらでもないさ」と私は言った。「正直いうと俺は、君という人間を知らない。幼馴染みでもね。奥さんに君を捜してくれと頼まれたんだ。君をおくりとどければ、俺の仕事は終わりだ。これは俺にとってただの仕事なんだ」
私は彼の家をすでに知っていた。いまにも死にそうな顔をしているのに、よくしゃべる男であった。
「いくら貰った」
「まだなにも」
「君にならいくらでもだしていい。それほど立派な仕事ぶりだったよ」
「明日になれば気が変わるさ」
彼は笑った。「僕は君が好きだよ、サイトウ。君はあんなことがありながら、まだ大人になりきれていない。僕と同じだ」
私たちは家についた。大きな門があって、広い庭がついていた。たしかに、食うには困らなさそうな家であった。
「ひとりで歩けるか」
「ああ、大丈夫だ」彼は門をくぐった。「どうだ、久しぶりに飲まないか」
「せっかくだが、今夜はやめておくよ。君がちゃんと家に帰るかここで見張っておくよ」
彼は荒い息をしながら、入り口へ歩いていった。なかにはいると、開かれた戸口からかすかな明かりが漏れ、話し声が聞こえてきた。私は振り向いて帰ろうとした。誰かが私を呼んだ。
アサヒが入り口に立っていた。私は軽く会釈をした。それをみて彼女は小走りでこちらにやってきた。
「人をやって手紙をだすべきでしたが、夜遅かったもので」
「わかっています。なにがあったのですか」
「どこかに寝ていたわけではありませんでした」
「なかで詳しく聞かせてくれませんか」
「ヒサタケはずいぶん疲れている。とにかく寝かせなければいけない。明日になればすべてが元通りです」
「平野さんが寝かせます。今夜は飲まないですよ。それを心配していらっしゃる」
「思いつきもしなかった。おやすみなさい。奥さん」
「疲れていらっしゃる?お飲みにならないの?」
私は煙草に火をつけて、煙を呑み込んだ。
「一口いただけませんか」彼女は私のそばへ寄った。私は彼女に煙草を渡した。彼女は口にくわえた瞬間に咳をした。そして笑いながら「慣れないことをするものじゃありませんね」と言った。
「あなたは、コトさんを知っていたのですね」と私は言った。「だから、俺に夫を捜させたのですか」
「誰ですって」彼女は聞こえていない風に聞き返した。
「コトさんですよ」彼女の手から、煙草をとった。続けて煙を吸い込んだ。
「ああ、あの人ですね」と、彼女は閃いたように言った。「殺された人ですね。でも直接あったことはないのです。ヒサタケから小松さんの話を聞かされたものですから。話していなかったかしら」
「さあ、あなたとの話をほとんど覚えていません」
彼女はまだ私のそばに立っていた。すらりと背の高い女性で、身長は私とそれほど変わらなかった。戸口から漏れている光で黒い髪が輝いているように見えた。
「その事が私の依頼と関係があるとどうしておききになったの」
「俺が新撰組に連行されたと言ったとき、あなたは友達のために捕まったと言った。すくなからず、あの時までに小松についてヒサタケからなにか聞いていたのではないですか。あとのことはこれっぽっちも覚えていません」
「意地悪な人ね。サイトウさん、少ししゃがんでください」
私は言われたとおりにした。彼女は私を引き寄せて、唇に強く接吻をした。彼女の唇は固かった。彼女は私を見つめた。
「こんなことはいけないことかしら」
「もちろんそうです」と私は言った。「しかし、今日みたいな劇的な日には、芝居のようでいいかもしれませんね。まるで誰かが書いた話のようだ。あなたはヒサタケがどこに行ったのか知っていた。それで、彼と俺の関係につけこんで、彼の面倒をみさせようとした。どうです、俺の筋書きは。頭がおかしいですか」
「ええ、まったく。まるで、三文小説ですね」と彼女は冷ややかに言った。彼女は戻りかけようとした。
「待つんだ」と私は言った。「あなたの接吻は俺になんの効果ももたらさない。あなたがそう思っているだけです。それから、俺をいい人間だと思わないでください。むしろ俺は、卑劣な悪者になりたいんだ」
彼女は振り返った。「なぜ?」
「いい人間なんてものは、誰も守れやしない。俺はそんなことも気がつかずに、かけがえのない大切な人たちを死なせてしまった。小松だってその一人かもしれない」
「本当にそうかしら」彼女は落ち着いていった。「誰にそんなことがわかるのでしょうか。おやすみなさい、サイトウさん」
彼女は屋敷へ戻っていった。戸口が閉まった。私は暗い屋敷をしばらく眺めていた。




