依頼
翌朝、私が髭をそっていると、襖越しに女中の声がした。「サイトウさん、お客様が見えています。女のかたです」
「誰だろう。とりあえず通してくれないか」
部屋に入ってきたのはアサヒであった。黒目がちの大きな瞳が私を見つめていた。彼女は白色の着物を着ていて、部屋の隅にちょこっと座った。外の冷気のせいか顔はすこし青ざめていたが、とても夫から暴力を受けている人間とは思えなかった。
「すみません、こんな朝早くにお邪魔してしまって。でも、家によんでも来ていただけるかわからないし、手紙を出しても返事が遅くなると思いまして」
「かまいません。どうです、お茶でも飲みますか」
「いただきます」
私は部屋を出て、若い女中にお茶を出してくれるように頼んだ。女中は快く引き受けてくれた。そうして、私は部屋に戻った。
お茶が運ばれてくると、女中はそそくさと部屋から出ていった。
アサヒはお茶をすすった。「美味しい」
「それはよかった。この前俺がお茶を飲んだのは、新撰組に連行される前でした。俺が連行されたのはご存知ですか」
彼女はうなずいた。「ええ、知っています。お友達を逃がすために捕まったのでしょう」
「まあそんなとこです。彼らには言いませんでしたが。彼らのやり方が気に入らなかったのです。こんな話、退屈でしょう」
彼女は湯呑みを畳において、少し背筋を伸ばして私に微笑んだ。
「そんなことはありません。夫が小松さんととても仲がよかったですから。とても、あんなことをする人には思えなかったのですけど、きっと気が変になってしまったのですね」
「きっとそうでしょうね。しかし、もう死んでしまったし、全て終わったことです。それに、あなたはこんな話しをするためにここにきたわけではないでしょう」
彼女はゆっくりと頭をふった。「あなたはあの事件に関してなにか違う意見をお持ちなのでしょう?」
私は煙草をとりだして火をつけた。長いあいだ煙草を吹かして彼女を見た。
「アサヒさん」と私は言った。「俺の考えなんてなんの役にもたちませんよ。こんな事件いつも起こっていることです。そこらの新聞の読者が持っている意見となんら変わりありません。優しそうな人間が人を殺したりする。優秀だった若者が女に狂って落ちぶれていく。大人しい幼なじみが絶世の美女と結婚して、家庭で暴力をふるっている、どれだけ人を知ろうとしても、その人の全てを知りうることはできないのです」
私が言ったことに彼女は怒りもしなかった。ただ、眉をすこしあげた程度であった。
「村田さんがあんなことを話したからいけなかったのですね。私が悪かったのです。人が酔っぱらっているときは、きっとそっとしておくべきなのです」
「そんな言い方をしても駄目ですよ」
彼女は置いてあった湯呑みをそっと掴んだ。細く綺麗な指をしていた。爪の形は長細く、それらが生気をおびているようであった。
「村田さんは、夫に会えないわけを言っていましたか」
「ええ」
彼女は茶を一口飲むと、膝の上で抱えた。
「村田さんはいい人間ですが、独断的でなんでも自分のいいように解釈をするところがあります。それが正しいと思っていらっしゃる」
私はなにも言わなかった。沈黙が続いた。彼女は私から目をそらせた。
「夫が三日前から家に帰ってこないのです。私がここにきたのは、あなたに夫を捜してほしいからです。こんなことが幾度かありました。キョウトの郊外にある田舎の町で酔っぱらっていたこともありました。どうして、あんなところへ行ったのか見当もつきません。また別の日は、ある神社にいたり、誰かの別邸にいたりしました。夫は突然ふらっとどこかへ出ていってしまうのです。一度、酔っぱらった夫を連れてきた男を見たことがあります。その男はシ国訛りの言葉で、縮れた髪の毛をしていました。私が門へ出ていきますと、男は慌てて逃げていきました」
「旅の仲間かもしれませんね。男というのは寂しくなると仲間を作ったりしますから」
彼女は胸から封筒をとりだし畳の上にそっと置いた。
「これは少ないですが、前金として受け取ってください」
床の上に置かれたお金を、私は手をつけなかった。
「また前みたいに、友達がおくってくれるかもしれない。それともなにか心配ごとでもあるのですか」
「夫の顔が日ごとにやつれていっていきます。なにかの事件に巻き込まれているかもしれないのです。私たちは結婚してしばらくたちますが、あんなやつれた夫を見たことがありません。おねがいです。どうか捜してはいただけないでしょうか」
彼女はどこか落ち着きのない様子であったが、心底驚いているわけではなかった。彼女は病的に笑った。「私のせいかもしれません」と彼女は小声で言った。「他の女性が好きになることくらいあるでしょう」
「アサヒさん。俺は人の心を読むのが苦手な質ですが、我々のような職業の人間は、長生きをしたければ人の心を読まなければならない時がある。ご主人の場合は、仕事が嫌になってとびたしたという可能性もあるのではないですか」
「もちろん、そういうこともあると思います。男の人は多かれ少なかれそんなことを思ったりするのでしょう。でも夫は逃げ出すような人じゃないような気もします」
「彼はどんな人間ですか」
彼女は微笑みをみせた。「わかっていると思いますが、とてもいい人です」
「酔うとどんな風になります」
「頭が冴えて、攻撃的になり、声が大きくなります」
「あなたはあえて暴力をふるわれたことを言わなかったのですか」
彼女は驚いたように目を開けた。「たった一度だけですの。私が村田さんに言った訳じゃなくて、ヒサタケが彼に言ったのです」
私は立ち上がって窓を開けた。冷たい風が部屋のなかへはいってきた。
「昨日、あなたの夫について少し調べてみました。士官学校を卒業したあと外務省に勤務。いまは中佐で、キョウトにずいんぶんといる。ついたばかりの時、キョウトで起こった政変に参加している。何度かおこった戦争にも従軍している。外交の仕事は主にカントウ国とイズモ国のパイプ役で、いまのクマソ国がカントウ国と昵懇なのも、ヒサタケの功績は大きい。親はシマヅ卿の遠戚で金に困ることもない。もし外に妾でもいたら、彼は外にもう一つ家をつくって妻の前に姿を表さないのかもしれない。そんなことを気にして酒を飲んでいるような人間にも思えない。結婚してしばらくたつなら、妻について大抵のことは知っているはずです。たいていとわざわざ言ったのは、女にたいして全てを知っている人はこの世にいないからです」
私は話すのをやめて、彼女の顔を見た。彼女は微笑んでみせた。その表情には余裕があった。私は口を開いた。
「どんな根拠があるのかわからないけど、村田はこう言った。ヒサタケさんは、外交で大きな仕事をしているので、脅迫や身の危険を感じる出来事が多々あったのではないかと。心当たりありませんか」
彼女はゆっくり頭をふった。「誰かに脅されているのかはわかりません。仕事について夫はなにも言いませんから。私は夫がどんな人間とつきあっているのかわからないのです」
「そうですか。あなたは夫を捜してほしいと言っているが、クマソ国に頼めば捜してくれるのにどうしてわざわざこんなところは来たんですか」
「おおごとにしたくないのです」そう言うと彼女は胸からくしゃくしゃの紙と、普通の紙を取り出した。
「どちらも、夫の机から見つけてきたのです」
私はまずくしゃくしゃになっていない紙を見た。「至誠にして動かざる者は未だ之あらざるなり」 カツラ・松陰・ヒサタケ 追記 私があの仕事ができないのはこの思想のためだ。
「なにかわかったことがありますか」
「かっこつけているだけだと思います。夫は吉田先生を大変尊敬しているようでしたから。吉田先生のような思想家はどこの国にもいないと常々聞かされました」
私はくしゃくしゃの方の紙を見た。これには次のような文句がかかれていた。「私は吉田先生を尊敬できても、君のことは軽蔑しているのだK君。しかし、仕事で仕方なしに付き合ってあげなくてはならない」
彼女は私に顔を近づけて言った。「K君というのがどなたなのかわかりません。Kから始まる名前の人が多すぎて特定できないのです」
「癖毛の男が連れて帰ったとき、ヒサタケはなにか言っていなかったのですか」
彼女は頭をふった。「なにも言いませんでした」
「正式な仕事の相手でないのかもしれない。そうだとするとお金が必要ですよ。彼らは女相手でも資金を集めようと必死なのです。しかもこう言う相手は安くありませんし、なにをしでかすかわかったものじゃない」
「なにをしでかすのです」彼女は子供のようにたずねた。
「彼らは手段を選びません。まず命をとると脅します。それでも交渉がうまくいかないと、引っ込みがつかなくなって本当に人を殺したりする。ヒサタケが大人しく言うことを聞けばいいが、彼らの要求は大体が無理難題なので簡単に承諾はできないでしょう」
「そういえば、ヒサタケの机に大量のお金が置かれてあったことがあります」
「わかりました。Kという人物を捜してみましょう。どうやって捜すかはいまのところ見当がつきませんが。そのお金は持って帰ってください」
「どうして。持っていってください」
「あとからでも間に合いますから。それに俺はヒサタケから貰いたい」
彼女はお金をしまって立ち上がった。どことなく表情が暗かった。
「しかし、どうしてクマソ国に頼まなかったのです」そう言いながら、私は立ち上がって襖を開けようとした。
彼女は私と向かい合った。眼がかすかに光っていた。暗い表情でも美しさは色褪せなかった。
「あの人に嫌われたくないからです。私は夫を救うためならなんでもするつもりです。でもおおごとにしたくないのです。家に帰ってこないだけで、毎度クマソ国に頼んでいたら夫は私から離れていきます。一人前の男をそんな風に扱うことなどできません」
「そうですか」
私は襖を開けた。彼女と私はかなり近い距離で向かい合っていた。麝香の甘い匂いがした。匂ったと思っただけかもしれなかった。窓から入る冷気が非常に寒かった。
彼女はゆっくり微笑みを浮かべて、部屋から出ていった。




