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風薫る  作者: しょーた
第三部 キョウト
28/61

アサヒ

 



 花街の座敷にいた。私は一人であった。どこからか三味線の音が聞こえてきた。


 私は窓の外を見た。中庭があり、小さな池と一本の松の木が見えた。その風景を廊下が囲むようにして造られていた。待ち合わせの人間はすでに遅れていた。もう少ししたら出ていくことにする。からかわれたのかもしれないし、あまり人の言うことをききすぎると、そういう人間だと思われてしまう。そんな人間に大事な仕事など頼むはずがない。


 中庭の廊下では、着物を着たすらりとした女性が歩いていた。紺色の着物は暗闇のなかで怪しく輝いていた。その女性は下男の後ろをそそくさとついていった。顔は涼しげで、どこか冷たい雰囲気を醸し出していた。急に下男の肩をたたいて彼女は笑顔でなにかを言った。その笑顔があまりにも美しかったので、無愛想な下男は顔をほころばせた。


 私はじっと彼女を見つめていた。彼女と私は一瞬めがあった。私は急いで視線をそらした。私の顔は熱くなっていた。


 まるで画のなかからとびだしてきたような女だ。


 襖が開いた。村田が入ってきた。


「遅くなって申し訳ありません」


 私は彼女の残像を消すのに苦労しながらも、彼の顔を見た。相変わらずの童顔で、この店にいることが不自然に思えた。


「仕事が長引いてしまって。まったく最近の忙しさといったらもう」彼は持っていたハンカチで額をぬぐっていた。「さあなにか飲みましょう」そういって彼は手をたたいた。


「どうして最近忙しいんだ」


「小松大佐がいなくなったこともあるのですが、それとは別に外交で大きなことをやるみたいです」


「おおきなこととは?」


「それは言えませんよ。秘密です。働き甲斐があるのですが、ほんと自分の無力さを、痛感しますね」


 着物を着た女性が飲み物を持ってきた。村田は「酒は我々でつぐからここはいい」と告げて、私の盃に酒をついだ。


「仕事が忙しいなら今日は早めに切り上げようじゃないか」


「いいえ、お気遣いなく。いまも仕事みたいなものですから。サイトウ少佐はヒサタケさんと幼馴染みだそうですね」


「彼の妹と結婚もしていた」


「わかっています、わかっています。奥さんのことはお気の毒でした」


「気を使わないでくれ。もうすぎたことだから。確かに、彼女が殺されたときは悲しかったが、俺も色々なことをしていくともうそんな純粋な気持ちが薄れてしまったんだ」


「そんなことはないでしょう。その気持ちがなくなるのはあり得ませんから。我々は生きている限り前に進まなければならない。歩くことに必死になって、少し忘れているだけですよ」


 私は窓の外を眺めた。画から出てきた女は現れなかった。私は村田に目線を戻した。


「仕事というのはヒサタケに関係することか」


 彼はうなずき私の顔をじっと見た。「サイトウ少佐、あなたのことを教えてください」


「どんなことだ?もうずいぶん長い間キョウトにいる。いちど軍をやめた。人を斬ったことがある。それも一度や二度ではないし、襲われたことも襲ったこともある。好きだった女は殺された。軍人たちには嫌われているが、それでも仲のいい仲間が、キョウトに一人とクマソ国に一人いる。両親は俺が幼いときにキョウトで死んだ。俺はクマソ国にある親戚のもとへあずけられた。この人も、俺が士官学校にはいっているときに死んだ。もう俺が死んでも悲しんでくれる人は一人もいない」


「よくわかりました。しかし、僕の知りたいことはもっと別のことです」


 私は盃の酒をのみほした。うまい酒とはいえなかった。私は苦笑いを浮かべた。


 村田は私の盃に酒をつぎながら話し始めた。

「こういうことなのです」彼は慎重にゆっくり話し始めた。「我々はヒサタケさんのことで非常に困っています。彼はある外交の仕事に携わっているのですが、それがなかなかうまくいかない。そのせいか、最近ではよくイライラしていました。腹をたてて怒鳴ったり、泥酔して出勤してこない日もあります。また家では奥さんに手を出して怪我をさせたことだってあります。べつに仲の悪い夫婦というわけではないのです。ただ、最近の彼は普通じゃありません」村田は暗い顔をして私を見た。


「我々はどうしても今度の仕事を無事に終わらせなければなりません。これができないとクマソ国は遅かれ早かれ、カントウ国の食い物にされることでしょう。まあ、そんなことにはならないように努めますがね。そんなことより、彼は我々にとっても大切な人材です。とにかく、彼は私が面倒を見ようとしてもうるさがって会ってくれないのです。無理矢理会おうとしても、奥さんが承知しません。ようするに奥さんはたとえクマソ国の人間であっても夫に危害を加える可能性のある人間を近づけたくないのですよ。ヒサタケさんも仕事柄、身の危険を感じる出来事が多々あったのでしょう。奥さんとは結婚してわずかですが、そのわずかな期間でも心配するくらいだから。サイトウ少佐はヒサタケさんとは幼なじみですから、もしかしたら彼らも承諾するかもしれない。それに彼から奥さんを守らなければならない。ヒサタケさんを殺人者にさせてはいけない」


 私は酒に口をつけず村田が飲んでいる姿を眺めていた。


「軍人の仕事ではないな」と私は言った。「ただの幼なじみにいったい何ができると言うのか。彼が俺の手に負える人間なら、個室で手を縛って椅子の上に置いておくよ。だけど、その間俺はずっと彼といなきゃいけない。そんなことはしたくない」


「あなたなら問題ありません」と村田は笑顔で言った。「それに彼は四六時中酔っぱらっていますよ」


「そんなことはなんの問題でもない。俺は友達に嫌われるのは嫌なんだ」


「そんな、あなたしか頼る人がいないのですよ。我々は大変な仕事を抱えているのです。小松大佐が抱えていたこの計画はヒサタケさんが引き継いでいます。もう彼のほかに代わりはいません。どうか、我々と国を救うと思って引き受けてはくれませんか」


「わかっているよ。君たちが大変なのもわかった。ヒサタケが非常に優秀で、妻に手をあげることもね。でもこれは俺の仕事ではないんだよ」


「そうですか」彼は顔を曇らせた。「とにかく、あなたにいちどあたってみたかったんです」


「失礼します」そう聞こえると、襖がゆっくりと開いた。


 私は襖が開ききらずに村田に視線を戻した。彼は苦いものを食べさせられたような顔をして、畳の一部を見つめていた。


「ではこうしよう」と私は言った。「いちど様子を見に行こう。そして、奥さんと話してみよう。たぶん追い出されるだろうがね」


「そんなことはありませんよ。あなたなら結構です」村田ではない声が聞こえた。


 私は声の方を見た。画から出てきたような女が襖の前にちょこんと座っている。彼女は私を見ていた。私は馬鹿みたいに半分口を開けて、その瞳を見ていた。


 

「すみません、話の途中に割って入ってしまって」と彼女は柔らかな声で言った。「申し訳ないですけど、あなたがどんなかたか見ておきたかったのです。私はヒサカタの妻のアサヒともうします」


 村田は拗ねたように言った。「話に乗ってくれません、アサヒさん」


「きっと大丈夫ですよ」彼女は優しく微笑んで言った。

 久しぶりに私は女と話すときに緊張した。もうとっくの昔に男を棄てたつもりでいたのにこんな感情が呼び覚まれるのは思ってもみなかった。


「まだ、はっきりと断った訳じゃないのです。でも、俺にはなにかできるわけでもなさそうですし、かえって事態をややこしくさせるのが心配なのです」


 彼女は笑顔ではなく真面目な顔で聞いていた。「そう決めるのは、まだ早計ではないでしょうか。人は頭で考えている通りには事はすすみませんので。こういったことは、いちど事に当たってみないことにはわかりません」


 私は微かにうなずいた。


 私が小松について考えていたこととほぼ同じだったからである。士官学校で品行方正だった彼がキョウトに来るなり落ちぶれてしまったことを考えさせられた。私に彼女の意見を否定する根拠がない。誰がキョウト時代の彼を想像できただろうか。


「じっさい事に当たってみないことにはね」彼女はふたたび言った。「今日は来ていただいてありがとうございました」


 彼女は私と村田に会釈をして部屋から出ていった。私は窓の外を見て、彼女が中庭の廊下を歩いて店を出ていくのを見届けた。


「うまく仕組んだな」と私は言った。「あんな美人を送り込むなんて人が悪い」


「気に入りました」彼は笑ったが笑いたくて笑っているわけではなかった。「一筋縄では行かないと思いまして。それにあんな美人がいる家に、見ず知らずの輩をいれるわけにはいきませんからね」


「俺を家にいれる想像はしないでくれよ」と私は言った。「とにかく、俺はこの仕事を引き受けるわけにはいかない。それに、あんな美人に手をあげたってことは、もう俺の知っているヒサタケはいないのだろう」


「それは残念です」彼は窓の外を見ながら言った。


「あの女に気があるのだろう。隠さなくてもいいぜ」


 彼はいきなり立ち上がった。「あまり勝手な想像をしてもらっては困ります。もう少しましな考えができる人かと思っていましたが、どうやら勘違いだったらしい。わざわざ御足労していただきましたが、これでお開きにしましょう」


 彼は襖を開けて部屋から出ていこうとした。「私には許嫁がいる」


「それはいいことだ、ぜひ大切にしなさい」


 彼は舌打ちをして、薄暗い廊下へ消えていった。




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