脱出
その眼は私を見ていたのではなく、ただうつろに空を眺めているようであった。腰に指してある刀の柄には血が付着していなかった。なんとなく、彼の姿は浮浪者を思い出させた。
「僕をキョウトから連れだしてくれ」と彼は言った。「理由があって、一人ではいけない。海からがいい。金ならいくらでも払う」
「金と刀で受け合おう」
彼はうろな眼で、刀を見下ろした。そして、それを両手で抱え込んだ。
「これは駄目だ。自衛のために必要だ」と彼は言った。「君のためでもあるんだ」
「わかったよ。まあ一度、部屋に上がれよ」
部屋は薄暗かった。私は彼と向かい合うように座った。彼は身体を動かさず、隅っこで体育座りをしていた。そのうち、顔を伏せて泣き出した。
私は彼の腰に手を伸ばして、刀を取り上げた。彼は見向きもしなかった。私は刀を抜いて、刀身を調べてみた。血は付着しておらず、拭った跡もなかった。
彼は顔をあげて言った。「誰も斬ってはいない」
「確かに、この刀では斬っていない。まあ、お前が刀を使うとも思えないしな」
「話をしよう」
「ちょっと待ってくれ」私は近くにあった、水を飲み干した。「注意して話してくれ。本当に、キョウトから出たいのなら話されては困ることがある。おい、聞いているのか」
彼は微かに頷いた。
「もし厄介ごとに巻き込まれているなら、俺が言うのは、最悪の厄介事だが、話されては困る。もうひとつ、なにか重大な事件について知っているのなら、それも話してもらっては困る。本当にキョウトから出たいのなら、話さないでくれ。わかったか」
彼は弱々しい眼で私を見た。「面倒なことになった」
「それも、聞きたくないんだ。恐らく君を逃がしたあと、僕は尋問されるだろうからね」
「刀で脅してもよかったんだ」
私は苦笑して、手に持っていた刀を彼の胸に押し付けた。彼は刀を掴もうとはしなかった。
「べつに構わない。そんなことをしても、キョウトから出られない、捕まるだけだ。俺だってたまには刀を使って仕事をするんだぜ。もう刀の話しはなしにしよう。脅されて逃亡の手伝いをしたなんて言ったら、とんだ笑い者だ」
「お願いだ聞いてくれ」と彼は言った。「夜に僕が帰ると彼女がいなかったとする」
私は盃に水をいれた。
「布団も出ていなかったので、女は用事に出掛けたのかと思っていた。そうして、いつまでも帰ってこないので、僕は庭をブラブラしているときに、僕は彼女を発見した」
私は水を一口飲んだ。
「僕は庭で」私はすかさず「彼女が酔いつぶれているのを見つけた」と吐き捨てるように言った。
小松はしばらくなにかを考えていた。「そうだ、コトはそんなに酒が強くない。酔いつぶれるのはよくあることだ」
「話しはわかった」と私は言った。「あとは言わなくてもいい。最後に飲んだとき、俺は腹を立てて先に帰った。それはお前の態度が気に入らなかったからだ。よく考えてみると、俺はそんなことするべきでなかったのかもしれない。お前はキョウトから出たいと言った。しかし、ここから出たからといって、捕まらないわけじゃないし、もしかしたら、キョウト国内で潜んでいる方が安全なのかもしれない。お前はいろいろなものから逃げ出そうとしているに違いないが、ここから離れたってどうなるかわかりっこないぜ」
「確かに、どうなるかはわからない。僕はある場所に手紙を出した」
「誰かは言わなくてもいい。もう、小松には興味がないんだ」
彼はふと窓から外の景色を見た。街はまだ静かであった。
「ひとつ訊きたいことがある。家で彼女が他の男といるのを見たことがあるのか」
彼は頭をふった。「少なくとも、僕が家に帰った時には見たことがないよ」
「そうか。顔を拭けよ、ひどい顔だぞ」と私は手拭いを渡した。
「ありがとう」
「大勢の男がいた。それなのにお前とよりを戻した。そういう女なのだろう」
「僕がいけなかった。そんなことはとっくの前からわかっていたんだ。でも、彼女と会うたび嫌な気持ちになった。なぜ僕は四六時中彼女と共にいないで、家を飛び出したりしたのだろう。僕は彼女に僕以外の男がいたのを知っていた。その誰もが金をもっている。彼らは彼女が呼べば尻尾を振って戻ってくるような連中ばかりだ」
「それだけいい女なのだろう」
私は立ち上がって腕を組んだ。「こういうことだ。俺が言うから口を出さないでくれ。朝、お前は僕を訪ねた。顔に血がついていたが、俺は見なかった。お前は今まで我慢していたが、もう我慢ができなくなったと言った。お前は彼女が酔いつぶれているのを見つけた。そして、ある男に手紙を出し、国外へ行く決心をした。国外に行くのにどんな経路でいこうが俺の知ったことじゃない。俺はなにも知らずに、君の頼みを引き受けた。引き受けても不思議じゃないさ、我々は友達だから」
「どんな風に聞こえるだろうか」
「まあ、良くはきこえないな。でも、言わせたいやつには言わせておけばいい。そんなことなど気にせず、早くこの国から出ていかなくちゃいけない。顔を洗って、服を着替えるんだ」
私は部屋の隅っこにいる彼を残して厠へ行った。
彼は私の安物の袴を着て、顔を洗って帰ってきた。「なんだか不安になってきた。他の誰かに手伝ってもらった方がよくないか」
「他の人に頼みたいならそうすればいい。俺はおりるよ」
「やっぱり君は僕がやっかいなんだ」
私は彼を睨み付けた。「なにを言っているんだ」と大きな声で言った。「どうして大人しくできない」
「すまない」
「しっかりしろ。謝ることになんの意味がある。お前のような男はいつも丁寧に謝るが、こういう緊急事態の時に謝ってもなんにもなりゃしない」
彼はなにも言わなかった。
私は部屋に彼の私物がないのを確認して出発した。
我々は関所を無事に越えて、ヨドガワの近くにいた。私は一人の男を捕まえて、船を手配してもらった。麻のボロの服を着た船頭が四人の仲間と話していた。私は冷静を装って待っていた。
私は川に浮かぶお粗末な船を眺めていた。これで本当に境まで無事たどりつけるのだろうかと不安になるほどであった。
小松がやって来た。「ここでお別れだ」
彼は手を差し出した。私はその手を握った。最初の方より顔色は良くなっていた。彼は笑顔を見せた。
「よく覚えておいてくれ。もし面倒なことになっても、僕をかばったりしなくていい。僕たちは友達だろ。時には、自分の事を喋りすぎることもある」
「元気でな。小松」
一人の船頭が船に乗っていた。近くの男が船を指さしていた。
「さあ、いけよ」と私は言った。「彼女を殺したのは君じゃない。友達だからわかるんだ」
小松は驚いた顔をした「すまない」と彼は静かに言った。「だが君は間違っている。止めるなら今のうちだ」
小松は歩き始めた。私は彼の背を眺めていた。船頭はずっと彼を待っていたがべつにイライラしている様子でもなかった。彼は船に片足をかけると、私をふり返った。私はなにもしなかった、手すら挙げなかった。彼も同じであった。やがて彼は船に乗り、桟橋から船が離れていった。
船はゆっくりと進みだした。私は少しずつ小さくなっていく船を見つめていた。
それから私は、キョウトへ帰った。関所では、私のことなど冴えない軍人くらいにしか思っておらず、誰も話しかけるものなどいなかった。




