お別れ
満月の夜であった。私とコズエは寄り添いながら縁側に座って月を眺めていた。彼女はお腹を撫でながら、ふと呟いた。
「この子の名前、ヒヨリってのはどうかな」
「いいね。どうしてその名前なの」
「私と猫神社に行ったときのこと覚えてる?」
「忘れる筈がないよ」と私は笑って答えた。
「神社の裏道を走っているときにね、雲の間から陽射しがさしたの。なんだか、私は色々と疲れていてね、もう生きていても仕方がないなとか思っていたの。でも陽射しのなかを、あなたと手を繋いで走っていると、なんだか生きてもいいような気がしたの。だから、この子はそんな人たちに寄り添って、勇気を与えてくれる人になってほしいなと思って。変かな?」
「全然変じゃないよ」
「よかった」そう言って彼女は私の手を大事そうに握って笑った。私はそんな彼女の子供のように無邪気な安堵の笑顔を見ていた。
「あなたは、私によく助けられたなんて言うけど、本当はね、私の方があなたに助けられているのよ。だから、これからは私があなたを守ってあげるからね」
「頼もしいね君は」
我々はしばらく手を握ったまま、ぼんやりと庭を眺めていた。すると、門から一人の軍服の男が息をきらしながら入ってきた。それは、有馬であった。
「おい有馬、どうしたんだ。こんな時間に」私は縁側から声をかけた。
「君の学校の生徒が行方不明らしいぞ。いま地元の人と警察で捜索している。早く一緒にきてくれ」
「わかった」私は立ち上がった。
「あなた」コズエは心配そうに私を見上げていた。
「大丈夫だよコズエ。ヒヨリと一緒に待っていてくれ。戸締まりをしっかりしておくんだよ」
そうして私はコズエの頭を軽く撫でた。
「いってらっしゃい」彼女は、私に言った。
山道を歩いていたが、月明かりのお陰で遠くまで見とおせた。
「誰が行方不明なんだ?」私は歩きながら言った。有馬は少し戸惑いながら「セイタだ」と言った。
時々、有馬は私の家に来て、コズエと話をしていた。だから、彼は私の家でセイタを何度も見かけているし、なぜそこにいるのかも知っていた。
「どうして、セイタが……」
「数日前にセイタの家に桜の枝の入った封筒がおくられていたんだ」
背筋が凍るような感覚がした。サクラ会には、それなりの打撃を与えたつもりであったが、どうやら彼らはもう動き出せるらしい。完全に私の読み違いであった。
「セイタは仕事帰りに、帰ってこなくなったらしい」
「それじゃ大通りの近くにある橋から、墓地までの道を探そう。あそこで一度、仕事帰りのセイタに会ったことがある」
「わかった、そうしよう。それとこれ持っとけ」
有馬は腰に二本の刀を差していた。そのうちの一本を私に渡した。
「だけど、これを貰ったらお前はどうするんだ」
「俺にはこの短いのがあるさ。これ一本で俺は事足りるからな」
有馬は小太刀の達人である。建物の中のような狭い場所で彼に勝てるものはいなかった。
有馬はポケットから煙草を取り出して、一本吸った。そうして、煙を空に吐いた。
「悪いがサイトウ、セイタはもう……」
その先を彼は言わなかった。私はなにも聞こえないふりをしながら、無心に歩いた。
墓地は静寂に包まれていた。慰霊碑が不気味な影を纏って建っていた。セイタはどこにもいなかった。私はその不気味な慰霊碑を見ながら、呟くように有馬に言った。
「もし俺が死んだら、この慰霊碑の近くに墓を作ってほしい」
「おい、いまは冗談を言っている場合じゃないぜ」
「冗談じゃないんだ。サクラ会の奴らが動いている。いずれ、俺も狙われる」
「しっかりしろサイトウ、お前には、守るべき人がいるだろうが」有馬は私の肩を掴んだ。
「すまない弱気なことばかり言って」
結局セイタは見つからなかった。月は相変わらず輝いている。
私と有馬は、学校に続く道を歩いていた。すると、学校の近くに小さな人だかりができていた。「なんだろうか」と有馬は言った。私は嫌な気がした。そして、これは夢の中ではないのだろうかという思いがした。夢であってほしかったのだ。
校門を囲むように人だかりはできていた。暗闇を見上げたまま動かないもの、決して上を向くまいとうつむいているもの、地面に手をつき嗚咽をしているものと様々であった。
校門の上には、いまにも泣き出しそうな顔をしたセイタの首が飾られていた。どうしてだか、私にはそれが飾られているとしか思えなかった。
「なんてことだ」隣の有馬は、驚きのあまり声を失った。人だかりのなかにはセイタの父もいた。彼は必死に息子の首を見ないように下を向いて怯えているようであった。
私はセイタの首に近づいて、石ころのように冷たい首を両手で抱え、上着を被せた。
「かわいそうに、痛かったろう。許しておくれ」
私は首を抱えたまま、セイタの父のもとへ行った。人だかりは自然と私から距離をとるように逃げていく。彼は私を見て、なにか汚いものでも見ているかのように顔をしかめていた。
私は彼に首を渡して、人だかりを後にした。
「あんたのせいだ。全部あんたのせいなんだ」父親は叫んでいた。
私は振り返りもしないで、ただ目の前の暗闇に向かって歩いていた。背後から、私の肩をつかむものがいた。それは有馬であった。
「おい、大丈夫か」彼は心配そうな顔をしていた。
「ああ、大丈夫だ。すまないがこれから家に来てくれないか。話したいことがある」
「わかった、とりあえず仲間に連絡してから、急いで行くよ」
「すまない」
そうして、私は家の方へ歩いていった。
確かに、父親の言うことは正しかったのかもしれない。私がセイタを殺したのだ。私と関わらなければセイタは狙われなかったのだから。
無気力な足取りで、私は山道を登っていた。ふと前から人がきた。見かけない男である。男は急に立ち止まると口を開いた。
「久しぶりだな、サイトウ」
私は男の顔をまじまじと見た。ボサボサの髪に髭面男である。目は大きく丸く、ゴリラのような顔つきの男であった。それは桐野であった。
「どうして貴様がこんなところにいるんだ」私は怒気を含めて叫んだ。その瞬間、なにもかもが頭のなかで繋がった。
「夜に声をあらげるもんじゃないぜ。ガキの首はどうだった。綺麗な飾りだったろ」
「貴様はなぜ、セイタに手をかけたんだ」私は刀を抜いた。
「なぜ?」そう呟くと、桐野は突然大声で笑いだした。その笑いがあまりにも長いので、気でも狂ったのかと思うほどであった。
「なぜって、決まってるじゃないか。復讐のためだぜ。あのガキは、お前の家に出入りしていることは調べかついてたんだ。とうぜん、お前の生徒だってこともな。つまりな、あのガキを殺して、遺体をどこかに埋めておいたらな、お前も探さざる得ないだろう。そうするとな、長時間、家が留守になるじゃないか」
「なにを言っているんだ……」私は悪寒がした。そうして、自分の顔からみるみる血の気が失せていくような気がした。
「言ったろ、復讐だって。俺から全てを奪った罰は受けてもらうよ」
桐野はポケットから煙草を一本取り出すと、それに火をつけた。そうして、ゆっくりと煙を吐き出した。
「キョウトに来れば、あの女だけは助けてやろうと思ったんだがな、断りやがった。バカな女だ。俺の女になれば長生きできたのにな。母子ともに」そう言うと、桐野は忍び笑いをした。
「だからな、サイトウ。俺はなあの女を犯して殺すことに決めたんだよ」桐野は刀を抜いた。その刀身は血がべっとり付いていた。
「もちろん、あの女は抵抗したさ。でもそのたんびに、拳で顔を殴ってやったよ。そうすると、終いには大人しくなったけな。ようやくこれからだって時に、あの女、急に飛び起きてゲーゲー言い出すんだよ。初めは、ムードってものがないなとか思ってたっけ。でも、俺は悟ったよ。サイトウ。お前には腹が立ったね。お前はさ、俺から奪えるものだけ奪っておいて、取り上げたものには、ちゃあんと自分の名前を書いているんだから。質が悪いよ。だからな、俺はそのゲーゲー言っているバカな女の肩甲骨からお腹にかけて、刀を突き刺したんだ。あの感触といったら……」
気がつけば、私は桐野に斬りかかっていた。しかし、桐野は私の刀を軽くあしらって、私の右の鎖骨に刀を突き刺した。私は急いで後ろへ避けた。痛みはなかった。ただ傷口がひどく熱かった。
「生きてこの世の地獄を味わってもらおうと思ったが、気が変わったよ。お前も殺してやる」
すると、桐野はものすごい勢いで私に斬りかかってきた。つばぜり合いのような形になったが、吹き飛ばされて尻餅を付いた。急いで立ち上がろうとしたが、彼は私の太股に刀を突き刺した。今度は激痛が走った。私は自分の股を抱えながら、地べたに転げまわっていた。
「呆気ないな。弱いくせにしゃしゃり出るお前が悪いんだぞ。俺を恨むんじゃないぜ」そうして、桐野は突きの構えをした。どうやら私の首を狙っているらしかった。
「すまない、コズエ。君の敵をうてそうにないや」私は彼の刀から目が離せず、こんなことを考えていた。
すると、横からものすごい早さで誰かが飛んできて、桐野の太股を斬りつけた。桐野はよろけるように私から離れていき、近くの木によりかかった。
「油断したな。まさかお前がこんなところにいるなんてな有馬」
「それはこっちの台詞だ」有馬は低い声で言った。
「まあいいや、お前ら二人ともここで殺してやるよ」
「あいにく、あんたみたいなゴリラと遊んでる暇はないんだ」有馬は胸ポケットから笛を取り出すとそれをおもいっきり吹いた。
ピーっと言う音が暗闇の山に響き渡った。彼は何度も力強く笛を吹いた。やがて、麓の方から何人かの軍人が走ってきた。
「あそこに、指名手配中の桐野がいる。首をとってもいい、手柄にしろ」有馬は、その軍人に叫んだ。桐野は舌打ちをして、草むらに姿を消した。
「大丈夫かサイトウ」有馬はしゃがんで、私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だ。それより、急いで医者を呼んできてくれないか。コズエが危ない」
「コズエさんが。まさか」有馬の顔はみるみる青くなっていった。「わかった、お前はここで安静にしていろ。俺がなんとかしてやるから」そう言って、有馬は街の方へ走っていった。
私はなんとか立ち上がって、足を引きずりながら家へ歩いていった。
家のドアは蹴破られた形跡があった。明かりもついておらず真っ暗で、人の気配を感じさせないくらい静かであった。
月光が縁側から入ってきて、畳の上で仰向けに倒れているコズエの身体を妖しく照らしていた。
右足と右手の感覚がほとんどなかった。靴のなかは血で濡れて嫌な音をたてた。私は彼女のそばに座ると、その身体を抱き起こした。
コズエの髪は乱れていた。着物もはだけていた。顔には何度も殴られた後があり、鼻にはべっとり血がついて、右目は大きく腫れて開けられないだろうと思った。
「どうしてこんなことに……」私は彼女の顔をまばたきひとつせずに凝視していた。すると、大粒の涙がこぼれてくる。私の視界は涙でにじんで、だんだん彼女の顔が見えなくなってくる。
すると、私の頬に冷たいものが当たる感覚があった。それはコズエの手であった。
「あなた」とコズエは言った。彼女はもう眠くてどうしようもない、というような顔で私を見つめていた。
「コズエ、しっかりして。もうすぐ医者が来る」
「いまは、もうどこも痛くないの。でも、とっても眠いのよ」コズエは呟くように言った。
「寝ちゃダメだ」
「約束……守れなくてごめんなさい」
「そんなことないさ、君はまだ生きているじゃないか。しっかりしないといけないよ。僕はね、まだ君と行ってみたい場所もあるし、いろいろ美味しいものも食べてみたいんだ。だからね、僕を一人にしないでくれよ。お願いだよ」私は笑って見せたが、目から涙が止まらなかった。コズエの顔に数滴の涙が落ちていった。
「ごめんなさい。私は、ヒヨリのそばにいなくちゃいけない」そうして、彼女は力無げに微笑んだ。「あなたの腕のなかにいる。ねえ、あなた愛してる」
「ああ、僕も愛してるよ」私は頬に触れていたコズエの手を握った。
「ずっとあなたを見守っていますよ」そうして、彼女はゆっくりと目をつむった。それから彼女が目覚めることはなかった。私はいつまでも彼女を抱きしめていた。




