親
週末の朝、セイタは私の家で勉強することになっている。その日も、いつも通り彼は目の下にクマを作りながらやってきた。しばらくして、休憩の時間にはいろうかというところで、庭先で声がした。
「すみません」野太い声であった。
コズエでていたので、私は急いで立ち上がって玄関のドアを開けた。そこには髭面の赤い顔をしたいかにも頑固者そうな感じの男が、野良仕事の格好をして立っていた。
男は私の顔をじろじろ見てから、「息子を返してもらいにきた」と独り言のように言うと、あつかましく家にあがりこもうとした。私はその男に立ちはだかるように立った。
「ちょっと待ってください。急にどうしたのですか?」
「俺はセイタの父です。あんたのことは、息子からよく聞いております」
男は私の手をふりほどいてから、ずかずか家に入っていった。そして、勉強をしていたセイタの前に立ち止まって、脅すように低い声で言った。
「おい、帰るぞ」
セイタは明らかに怯えていて、目を大きく開けたまま石のように固まっている。
「まあお父さん落ちついて。お茶でもどうですか」と私は宥めるように言った。
「そんなものいらね。俺はな息子をこんなところに行かせるのも嫌なんだ。それなのに、あんたが息子をそそのかすからいけない。仕方なく、ここへ来ることを許したんだ」
そうして男は、セイタの腕を掴んで立たせようとしたが、セイタは駄々をこねる子供のように反抗して、立ち上がらなかった。
「帰りたくないよ父さん。昨日だって、今日の分を終わらすために夜までみっちり働いたじゃないか」セイタは哀願して言った。
すると、男の顔はみるみる赤くなって、座っているセイタの頬を殴り付けた。セイタは勢いよく倒れた。
「お前みたいなガキが一人前の口をきくな。農家の倅は勉強しても野良仕事しかできないんだ」
「なんてことするんだ」私は叫んでいた。
「先生、あんたもあんただ。こんなせけんなんて知らないガキをそそのかせて。ええ、こいつが軍隊に入ったからってなんになると言うんです。せいぜい肉の盾でしょう。それなのに、あんたはそんなことを一つも教えないで、嘘ばかり並べるんですから」
「それはあなたの考えでしょう。セイタにはセイタの考えがある」
「子供になにがわかります。あんたみたいな嘘つきがいるから、子供が分をわきまえない夢を見るんだ。確かに、あんたは軍人では一端の人間だったかもしれないが、皆が皆あんたのようになれるわけじゃない。それにな、俺は知ってるんだよ。あんたがどれだけ汚いことをしてきたかってことを。あんたは自分のことを聖人ぶっているようだが、所詮あんたなんてのは汚い人殺しじゃないか。岡田にもそうやって、いい顔して近づいたんだろ」
私は一瞬、言葉を失った。この一介の農夫があの事件について知っていることがあるのか。セイタは不思議そうに、私の青くなった顔を眺めていた。
「おい帰るぞ。帰って仕事しろ」
セイタは男に腕を引っ張られながらも、必死に抵抗していた。
「やめなさい、子供はあなたの道具じゃない」
「それはあんたの考えだ。俺の考えじゃないし、他人の家のことをとやかく言うものじゃないよ先生」男はせせら笑っていた。
私は男の腕を強く握った。男は低く唸った。
「なんだ、暴力か。それともお前がこいつの面倒をみるってのか」
私は黙ってしまった。そうして、セイタの顔をみた。その顔にははっきりと不安の色がでていた。すると、セイタは震えた声でポツポツと話し始めた。
「帰るよ。先生、ごめんなさい。俺が帰らないと、代わりに弟が駆り出される。妹まで働かされるかもしれない」
「早く支度しろ。馬鹿が」そう言いながら、男は家からでていった。
私は俯いたセイタの頭を撫でた。この小さな頭にどれ程の苦しみが詰まっているのか、私は考えずにはいられなかった。
「諦めてはいけないよ。きっと、夢はかないますから」
セイタは力なくうなずいて、ゆっくり家を出ていった。
私は情弱かもしれない。クマソ国には様々な問題がある。貧困で苦しむもの、子供ながらに働かなければならないもの、飢えで死んでいくもの、終わらない戦争。こういう問題は、クマソ国だけではないのかもしれない。国と言うのは、実に様々な問題を抱えているものだ。そのなかでも、セイタは恵まれている方なのかもしれない。少なくとも働き口がある点に関してだけであるが、飢えることはない。しかし、更にいい環境になろうとすることが悪いことなのだろうか。分をわきまえるということはそういうことなのだろうか。
結局、私がどう思おうと世界はなんら変わらず、今日も虐げられている人々が、必死に一日を生きるために虐げられるのである。それをわかっていながら、私は自分の幸せの為だけに、この世界を変えられるかもしれなかった地位を捨て、無力な教師となり馬鹿な親に無理矢理つれていかれる健気な生徒の後ろ姿をぼんやりと見ていることしか出来なかった。
私はどうしようもない馬鹿である。私はコズエの顔を思い浮かべてみた。誰かに慰めてほしかった。しかし彼女の顔を思い浮かべても、この気持ちが消えることはなかった。この一瞬だけ、私は自分の選んだ道がどれ程愚かであったか思い知らされた。




