笑顔
もう秋であった。周囲の木々の色が変化していた。
私とコズエは、71部隊の石碑の前に立って手を合わせていた。コズエさんを幸せにします。そんなことを考えながら、手を合わせていたと思う。私はコズエの方をチラと見た。彼女は目をつぶりながら、口先を動かしながら、声にならない声を発していた。
「なにを言ったていたの?」と私が問うと、彼女はビックリしたように目を開けたあと、すぐ優しそうな目付きになり、顔を横に振りながら「なんでもないの」と私の目を見つめていった。それ以上は私も深くは聞かなかった。そこに触れてはいけないと思った。本当に触れられたくない問題は、優しさで誤魔化すものである。
我々は墓地の長い階段を下っていた。もう日が暮れかけていた。コズエは私にひっつくようにゆっくりと歩いていた。私も彼女のスピードに合わせて歩いた。ふと顔をあげると、赤く染まった街が見えた。家々の屋根はまるで血を浴びたように輝いていた。
「そういえば、丁度このくらいの時間にあなたと会ったことがありましたね」とコズエは私の手を握って言った。
「ああ、橋の上でだろう?」
「ええ。あなたは橋の上でなにを考えていたの?」
「なんでもないんだよ。今となっては」
私は彼女の肩を軽く抱き寄せた。
「急にどうなさったの」
私は彼女の問いには答えず、そのまま階段をゆっくり降りていった。
階段を降りると舗装された道が大通りの前にある橋まで続いている。我々がその道を歩いていると、前から一人の子供の姿が見えた。
「こんにちわ。先生」
私は子供の顔をじっと見た。それはセイタであった。彼は、私の受け持つクラスの生徒であった。
「おや、顔が汚れているね。お父さんの手伝いでもしていたのかい?」
「そうだよ、働くのも楽じゃないね」セイタは笑って答えた。
彼の家は貧乏である。いや、彼の家だけではない。私の受け持つクラスのほとんどの子供が貧乏であり、小学校をでるとほとんどのものが働いて家計を助けるのだ。それがクマソ国では普通である。生きていくために、使えるものは使う。これは軍だけの話ではない。一つの家庭でも、同様におきているのである。
「ご苦労様、そうだ」私はポケットを探ってみた。するとソーダ味の飴玉が四つでてきた。「こんなものしかないけど、君にあげるよ」と私は彼の手を握りながら「皆には内緒だよ」と言った。
「ありがとう、先生」セイタは顔を綻ばせた。そう言って彼は飴玉を一つ食べると、あとの三つは手に握りしめて「妹と弟にもあげるんだ」と言って帰っていった。私は彼の幸せそうな顔をじっとみていた。そうして、彼の困窮ぶりを想像していた。
「セイタ君は、いい子ですね。あなた」
「どうしてこの国はこんなに貧乏なのだろう」と私はポツリと呟いた。
私が軍を辞めても、クマソ国はなにも変わらなかった。変わったことと言えば、小松が大佐になり、有馬が大尉になったことくらいである。先の事件で、我がクマソ国はかなりの将官が粛清された。そのせいで人員不足は深刻な問題となっている。つまり、生活を省みる余裕など今の軍隊にはないし、軍隊と為政者が昵懇の我が国では、予算の大半は軍事費に行く。こんなことばかり繰り返していては、いずれ国民が飢えで死んでいくのは目に見えているのである。しかし、今では私も一人の国民。なんの力も持たない学校の先生にすぎない。考えをめぐらすだけ無駄なのである。
大通りを歩いていると、緑の軍服が何人も通りすぎていった。シマヅ卿がサクラ会のものを検挙していると聞いている。しかし桐野大佐が捕まったという情報はなかった。彼はある人物の手引きで国外へ逃亡したといわれている。そんなことができるのは、かなりの大物に限られているのだが、軍はいまだにその人物を特定できないでいた。まあいずれ、小松が彼らを捕まえるだろう。
私は通りを振り返った。視線を感じたのだ。
「どうかしました」とコズエは言った。
「いや、なんでもないよ。有馬に似ていると思ったら違ったよ」つい嘘をついた。
「最近、お友達と会ってないから恋しくなっているんじゃありません?」と彼女は笑った。
たしかに軍をやめた私は彼らと会う機会が減った。それを悲しむことはない。仕方のないことだ。今の軍は物騒だし、軍人にはなにかと機密情報というものがあって、民間の家に出入りしているだけであらぬ疑いをかけられることもままある。恐らく彼らが私に会わないのは、私に迷惑がかからないようにするためではないだろうか。
我々が家についた頃、すっかり暗くなっていた。家はあの別荘を借りていた。私は庭にある小さな畑の様子をうかがっていると、玄関の方から大きな声がした。
「おーい、サイトウ皆で飲もう」有馬の声であった。私は急いで玄関の方へ走っていった。そこには、有馬、小松、天草の三人が酒や魚や肉やらを持って立っていた。
「どうしたんだ急に」私はわざと迷惑そうに言った。
「おっ、先生のおでましだ。久しぶりだろ、たまには一緒に飲もうぜ」
「サイトウ先生、お久しぶりです」天草は頭を下げる。
小松はなにも言わず、私の顔をみてにやにや笑っている。
「先生はやめてくれよ。さあ、あがってくれ」
そう言って、皆はぞろぞろあがってきた。
「まあお久しぶりです。どうぞゆっくりしていってください」とコズエは私の方へ近づくと「よかったですね」と耳打ちをした。私は、少しだけ頷いた。
「僕はもうすぐキョウトに行く」と小松は、私に向かって言った。
「このサクラ会の件が落ち着いたら、シマヅ卿が上洛する予定だ。それに僕と天草君はシマヅ卿に従って行くんだ」
「天草もか?」
「ああ、剣も抜群に上手いし、頭も切れる。潜入捜査だってできるからな」
「あまり、弟に無茶させないでくれよ」と私は小松の椀に酒をついた。
「兄さん、過保護はやめてください。僕は与えられた任務はこなすつもりです。それで、春になったら小松さんの別荘の梅屋敷で酒を飲むつもりです。ぐへへ」
天草は顔を赤くして笑い、その場に転んだ。そしてそのまま眠ってしまった。
「あら大変」コズエは掛け布団を持ってきて、天草にかけた。
「じゃあ天草は少佐になるってわけか。有馬抜かれちまったな」と私は笑った。
有馬は日本酒をちびちび飲むと、私の方をチラとみて言った。
「俺は出世なんかしたくないよ。上になればなるほど、自分が自分じゃないような気がしてくる。小松もサイトウもなにも言わないが、俺はお前たちがどんなことをやったか知っている。出世するってのはそういうことだよ」
我々は黙っていた。有馬はすねた子供のように酒を飲んでいる。
「でもそのお陰で、叔父の敵をとれたんだな。ありがとう」独り言のように言った。
我々は誰かの犠牲の上に立っている。おそらく、有馬はそういう事実を感じていたのかもしれない。しかし、その犠牲の上で、我々は幸福になってもいいものだろうか。犠牲なったものにも、大切なものや家族などがいる。あたりまえである。だからといって、私は今の幸せを手放す気にはなれなかった。それどころか、前よりも一層この幸せにしがみつく気持ちが強くなったように思える。結局、私の思っていることは、ただの偽善なのかもしれなかった。
三人が帰ったあとの家のなかは、嵐が過ぎ去ったように散らかっていた。私とコズエはその散らかった椀や箸を片付けていた。それらを片付けて、縁側に立って外を見た。月が輝いていた。
「まあ、綺麗な月。初めてここへ来たときもこんな月でしたね」
コズエは笑いながら私の手を握った。それは、幸せの記憶がもたらす笑顔なのかもしれない。私はこの笑顔が守りたいのだ。我々は手を繋いだまま月を眺めていた。




