3.気になる留学(前編)
学院からの留学許可書と承諾書を手にしながら、アイリーンは何度もため息をついた。絶対、留学したい。その気持ちに変わりはない。
「お嬢様、旦那様がお戻りになりました。お嬢様が相談したいことがある、ということを伝えましたところ、今ならお時間がとれる、とのことです」
侍女のモイラにそう告げられ、アイリーンは重い腰を上げた。
父親の部屋のドアをノックし「アイリーンです」と名前を告げると、入るように言われた。
「お帰りなさい、お父様」
「リーンか。帰ってくるなり話があるとは、何かあったのかな?」
娘の顔を見るや否や、ボイド公爵は顔中に笑みを浮かべた。
この父親、こう見えてアイリーンを溺愛している。だから留学を口にするのが怖い、のだが。
「お疲れのところ、申し訳ないのですが。お父様に少しご相談したいことがありまして」
「そうか、そこにかけなさい」
父親は執事に声をかけ、お茶を淹れるように指示をする。アイリーンは『そこ』と差されたソファに座る。父親は向かい側に座り、彼女が手にしていた紙きれに気付いた。
「相談、というのはそれのことかな?」
「はい」と頷く。
執事が淹れたお茶が並べられるのを黙って待つ。
「せっかくだから、いただこうか」
「はい」としか言えない。
「ロナルドのお茶は、今日も美味しいね」
執事のロナルドは礼をする。
「それで、リーン。それを見せてもらえるのかな?」
カップを置き、アイリーンのほうに手を伸ばす。彼女もカップを置き、その紙を手渡した。
「例の、留学の件だね」
「はい」
先ほどから、はいとしか言っていない。むしろ、はい以外の言葉は言えない。どんな言い訳をしようかということを必死で考えている。
「本気、だったんだね。本気と書いて、マジの方だね」
「はい、マジです」
「そうか」
ボイド公爵は右手で顎を撫でた。残念ながら髭は生えていない。ただでさえ年より若く見える顔つきで、宰相という立場でありながらも学生に間違えられることもある。髭を伸ばそうかな、と本気で悩んでいたことをアイリーンは見たことがあるが、残念ながら生えてこなかった、らしい。
「リーンが隣国で勉学に励み、その結果をこの国に持ち帰ってくれれば、隣国との交流もスムーズにいくだろうね。でもそれは、別にリーンでなくても他の人でもいいのではないかな?」
「いいえ、私でなければなりません」
だって、隣国ではビーエルが認められているから。と思っても、口にしない。
「私が、お父様の娘だからです。宰相という立場であるお父様の娘だからです。大事なことだから、二回言いました」
そこでボイド公爵は腕を組んだ。何か考えているようだ。アイリーンは両手を膝の上で重ねて揃え、父親が何か言うことを黙って待つ。
父親はソーサーを左手に持ちながら、ゆっくりとカップを口元にまで運び、一口含むとそれらをテーブルの上に戻した。
その様子を見て、アイリーンは口を開く。
「このプーランジェと隣国のアスカリッドは、元々は敵対していた国です。今では協定も結ばれていますが、大昔のことにも関わらず、このプーランジェには隣国のアスカリッドをよく思わない人がまだいます。アスカリッドにも同じような人がいると思います。私が留学することで、そのわだかまりを薄めることができるのであれば、お互いの国にとって利益になるのではないか、と思いました」
ここでアイリーンのいう利益はもちろんビーエルのこと。でも、それはけして口にしない。
「そうだね。隣国のアスカリッドとは表面上はうまくいっているように見えるけど、どちらも水面下では腹の探り合いをしている」
「はい。今、この二つがうまくいっているように見えるのも、プーランジェには豊富な地下資源があり、それをアスカリッドに提供していて。アスカリッドは豊富な農作物をプーランジェに提供しているからです。ですが、プーランジェがアスカリッドの技術を用いて農作物を育てることが可能になれば、地下資源が豊富なプーランジェの方が有利になります」
「では、リーンはその農作物の技術を盗みとってくるのかな?」
「いいえ、そのようなことは致しません。二つの国にとってお互いがお互いに依存しあっている今の関係が、争いを生まない関係だからです。争いからは何も生まれません。私は、今の二国間の関係を維持するため、場合によってはもっとよくするために、隣国へと赴き、言葉と文化を学びたいと思っています」
そして隣国の甘美小説の一つであるビーエルを取り入れることで、この二つの国をもっと有効的な関係にするのだ。でも、それはけして口にしない。
「リーンは、そこまで考えていたんだな」
ビーエルのことしか考えていませんが。
「てっきり、殿下との婚約が嫌なのかと思っていた」
それも否定しませんが。
「王太子殿下との婚約については、私はまだ候補者の一人にすぎません。それに、婚約者としてはコーシュ公爵家のナディソンさんが最有力と言われています」
「そうだ、ほぼ内定だ」
「でしたら、特に留学しても問題は無いですよね」
王太子殿下の婚約者候補からも外れ、隣国へと留学が叶えば、ビーエルの活動の支障になるものは無い。
これで堂々と活動ができる。
「学院から、リーンの留学許可の話を聞いたときは驚いた」
突然、父親がそんなことを呟いた。
「ご存知だったのですか?」
「もちろん。リーンが留学して隣国の言葉を習得してこの国へ戻って来たなら、私の秘書として取り立てたい、と陛下にも伝えてあるよ」
ここでも親ばかを発揮してきた父親。留学先での卒業後の就職先までゲットしてしまった。
「陛下も、リーンが婚約者候補であることはご存知だ。しかし、その件に関しては先ほども言った通り、ナディソン嬢でほぼ内定している。だから、リーンが留学することで、その婚約者選定に影響が出ることはない。」
「でしたら、何も問題はありませんよね」
「ただ陛下は、心配をされている」
「心配?」
アイリーンは聞き返す。「なぜ?」
「リーンが私の娘だからだ」
宰相の娘という立場は、時にプラスに働き、時にマイナスにも働く。
「陛下が心配なさる気持ちもわかります。でも私が行くことで、お互いの国にとって有益な結果を生むのであれば、喜んで隣国へと向かいます」
「リーン……」ボイド公爵は、深く息を吐いた。「いつまでも子供だと思っていたのだが、そのように国と国の関係を考えていたとは。成長したな」
オタ活のためです。隣国で推しカプを満喫するためです。とは口が裂けても言えない。
「リーンの留学、許可しよう。将来的には私の秘書となって私を支えて欲しい。陛下にもそのように伝えておく。ただし、侍女のモイラを連れて行くように。彼女の母親は、確か隣国出身だったはず。彼女ならリーンを助けてくれるだろう」
「お父様。私の方からモイラのことをお願いしようと思っていたところでした。ありがとうございます」
アイリーンは深く頭を下げる。
父親が言う通り、モイラの母親は隣国のアスカリッドの出身だった。隣国のビーエル本を入手してくれたのも、モイラ。モイラも実は同志。
そしてまだ身分の低い者の方がお互いの国を受け入れていて、モイラの両親のように国をまたいだ婚姻というのも珍しくはなかった。ただ、王族をはじめとする高位貴族。そこが、昔のことを引きずっているのだ。だから、公爵令嬢であるアイリーンが隣国に留学するというのは、かなりのインパクトを与えることになるだろう。両国にとって。
「それから、隣国までの移動は馬車ではなく、自動車を使いなさい」
自動車は、地下資源が豊富なプーランジェだからこそ、普及している乗り物だ。馬車にエンジンを取り付けたものだが、その燃料は地下資源のうちの一つである石油。自動車は馬車と同じ道を走るが、その速度は馬車よりも速い。また、馬車のように途中の厩で馬を交代する必要もない。
この王都と隣国の王都、つまりアイリーンの留学先となる学院のある場所までなら、自動車で約二日の旅。王族なんかはこれでよくお互いを行き来している、はず。
「それから、リーンが隣国に向かう日は、私も同行する」
「え?」
父親の申し出にアイリーンは困惑する。だって、父親がついてきたら、道中にモイラと一緒にビーエル話で花を咲かすことができないではないか。
「手続きのために行く必要があるだろう?」
そうなのか? 手続きは事前に書類のやり取りだけでできないのか?
「そうですね」
アイリーンは優雅に笑みを浮かべて、そう答えるのが精いっぱいだった。モイラとのビーエル話は、現地でのお楽しみにとっておこう、と思った。
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