1~2 終わる旅に出掛けよう(前編)
1
「こんなものかな?」
立ち上がった女性――エリカが、一息ついて言った。
彼女は自室として使わせてもらっている部屋にいて、旅支度をしていた。
荷物の量からして普通の旅支度とは言えなかった。
長い長い旅に出ようというような、そんな支度の量だった。
――二年くらいしかいなかったのに、随分と物が増えたものだ。
そして、二年ほどで自分が成人していたことにも気付いた。ちょっとは大人になっていてほしいとも願った。それは、心からの願いでもあった。
彼女は、おもむろに左腕のブレスレットを取り外した。
旅のお守りにと託されたが、返却しようと考えていた。
ある意味で彼女の相棒であり、彼女の命を救った存在でもある。だけど、もう必要がないと感じさせる物でもあった。
フッと、右手首に付いている革の腕輪に目が向いた。手首を返しながら、それをジッと眺める。
「これ、どうしようかな……」
不意に、ノックがした。
「どうぞ」
顔なじみの、年上の女中が入ってきて「失礼します」と言った。
仕事は仕事として振る舞う人で、今回は仕事の振る舞いであるから、エリカもそういう対応をすることにした。
「アルメリア王女からの手紙だそうです」
「えっ?」
思わず、素の反応を返してしまう。
女中が傍まで来て、アンティーク調の銀トレーに乗っている手紙を差し出してきた。
「バーラント様の使者の方が、この手紙をお持ちになりました」
エリカの表情が、真顔になった。
「すぐにでも返事がほしいとのことです」
「分かりました、ありがとうございます」
女中が一礼してから下がる。
一人になったエリカが、封筒の裏表を確認し、首を傾げながら机へと向かった。
――アルメリアにしては実に素っ気ない封筒だ。
ペーパーナイフを手に取りながら、エリカはこう思った。そして不穏を感じた。
中の手紙も簡素で、こう書かれてあった。
『突然のお手紙、申し訳ございません。
今すぐに、ベリンガールへ来ていただきたいのです。
どうしても、エリカさんにご相談したいことがあります。
緊急の用件です。
どうか宜しくお願い致します』
早く伝えたい一心だったのか、考えずに書き散らした手紙で、何より引っ掛かったのは『相談』という言葉だった。随分と神妙な言葉に思える。
以前から相談をされることは何度もあったけれど、この時期の相談は不穏すぎると、エリカは思った。
なぜなら、相談に選ぶべき相手は、もう自分では無いからだ。
「出発は、もうちょっと先になりそうね……」
エリカは整理がほぼ終わりつつあった荷物の中から、旅行鞄だけを手に取った。
そして、例のブレスレットを左手首に付けてから、髪をたくしあげ、いつも使っていた細長い白リボンでポニーテールに結った。
2
アルメリア王女が滞在しているベリンガール共和公国は、エリカがいたアル・ファーム国の隣にあった。
移動にもそれほど多くの時間は掛からない。掛からないと言っても海峡を挟んでいるため、近いようで遠い国である。そもそも風土や文化がかなり違う。
ちなみに『共和公国』なんていう、トンチンカンな言葉が付いているのは、二十五年ほど前、アル・ファームを含む隣国を巻き込んだ『秋の革命』と呼ばれる内戦――実際には戦争――が原因であった。
詳しいことは知らないけれど、革命によって、現在のベリンガールは一部貴族の僭主制から、アル・ファームと同じ立憲君主制へと変わったらしい。
そして、王族が存在しないかわりに貴族が存在していた。
だから君主というのは貴族たちのことであり、共和制を支持する貴族たちに配慮して『共和公国』なんて妙な名前を付けているのである。
馬車に乗っていたエリカは、窓の外を見ながら、
(何かあったのかな……)と思った。
彼女は手紙を持って来た使者の男性と相乗りする形で、ベリンガールに向かっていた。
男性はエリカと同い年くらいか、年下だろう。
体格は大柄と言うほどでも無いけれど、見るからに鍛えた立派な体に幼さが残る顔付きをしていた。
座っていても背筋がピンと伸びているけれど、少し大人ぶっているようにも見えたから、エリカは向かい合ったとき、笑いそうになるのを堪えて、実に大変な思いをした。
そんな思いも過去になりつつあるくらいに、幾許かの時間が過ぎ去った。
依然、エリカは窓の外を眺めて物思いに耽っている。
(両国共、あんまり仲が良くないって言ってたもんなぁ……)
表面上は友好的な関係を築けているものの、四半世紀前の革命に関しての遺恨はまだ残っており、ベリンガールもアル・ファームも、互いに友好的なのか疑心暗鬼なところがあった。
それを打開するための和平の象徴として、アルメリア王女はベリンガールに送られている。――つまり彼女は、アル・ファームの王女であり、和平の架け橋なのだ。
(うまくいって無いのかな……)
この言葉は、二重の意味を持っていた。
一つは文字通り、和平という重荷を背負わされているアルメリアの精神状態である。
彼女は見た目通りに優しく素直で、優秀な姫君だが、傷つきやすい。誰かが傍にいないと力を発揮できないタイプだ。
しかし、それは――……
「エリカさん」
彼女はちょっと驚いた顔をして、窓から使者へと視線を変えた。
「じきにザフォル海峡大橋ですよ」
エリカが窓を一瞥する。
海峡の幅はそれほど広くなく、代わりに切り立った崖のようになっている。だから、橋も鋼鉄製のアーチ橋である。幅も随分と広い。
「どうかなさいましたか?」
「いえ…… ちょっとした思い出が蘇っただけです」
「――入国審査局には話を通していますが、こうも早く来るとは思っていませんでしたから…… 少々、お時間を頂くことになるかと思います。身分証明書と旅券はお持ちですよね?」
「ええ、出掛けるところでしたから」
「それは、なんと言いますか……」と、ばつが悪そうに使者が言った。
「運が良かったです。こうして、すぐさまベリンガールへ向かうことができたのですから」
「確かに」と苦笑う使者。案外、気さくな性格らしい。
「――もうじき、秋の季節ですねぇ」
「ええ、時が経つのは早いものです……」
つぶやくように言って、窓に流れる風景を見た。
それから、エリカが男性に向き直って、
「入国にはどれくらい掛かりそうですか?」と言った。
「それほど時間は掛かりませんよ。私が乗っていますからね」
「あら、それは心強い」と微笑んでみせるエリカ。
「本来なら、王族関係者は審査なしになるのが通例ですが…… 最近は、色々と物騒ですからね。警備などを強化しているんですよ」
「何か事件でも?」
「事件というか、じきにアル・ファームとベリンガールで大規模な催し物が行われるでしょう?」
「まぁ…… そうですね」
――この使者は、どうやら内情を知っているらしいとエリカは思った。
「それで、貴族たちやベリンガールの大統領も、気を揉んでいるんです。色々と不穏な事件の噂も聞きますからねぇ」
「たとえば、どんな事件が?」
「殺人です」
蹄と車輪の回る音だけが、しばらく続いた。
「つい最近の事件で」と、男が続ける。「首都のベネノアで反政府組織の一員と思われる人間が、殺害されたそうでして」
「それはまた…… 恐ろしい話ですね」
「全くです。――この時期に、こういった話が出てくるのは悲しいものですよ」と、使者が続ける。
「ええ、全く同感ですわ」
エリカは使者の視線を受け止めながら言った。