第76話 施設環境を整えるマリア
まずは正面門を確認する。塀と垣根で囲まれた広大な敷地の中央に堂々と佇む、鉄格子を白く塗った立派な両開きの門扉。その上にはこれまた堂々と〝ワーグナー商会・ハル・ムッツァート支店〟の看板が掲げられ、しかし地球の薔薇に良く似た花や蔦が塩梅よく張り巡らされていて、華やかさの演出のおかげで圧迫感は感じない。
両内開きの門扉を開き中へと足を進めると、通常の馬車が二台すれ違えるほど広い石畳のアプローチが伸びる。その両側には低木の垣根と花壇が敷かれ、それを越えると広い芝生のスペースや美しく刈り込まれた庭木など、心が癒されるような優しい緑の園が広がっている。
もちろん美しい花や清らかな水が流れる水路、そして芸術的な石像など、見る者を飽きさせない、それでいて見事に調和の取れたオブジェクトの数々も配置されている。
なんというか、〝癒される〟という言葉しか出てこないような、落ち着いた雰囲気の美しい前庭になっているね。
「これなら奴隷達にも余計な圧迫感は与えずに済みそうだね。危険な箇所の手すりや柵もちゃんとできてる?」
「はい、マリア会長。水路脇や噴水池の周囲、やむを得ない段差のある箇所など、二次的な事故も考慮した上で安全対策は施してございます」
あたしの質問に答えるバネッサに頷いて、先へ進む。
次は支店の顔となる、建物の玄関部分だ。
正面玄関前は、長いアプローチから続く馬車用のロータリーになっている。この帝国の主たる信仰を集める統一女神教会……通称〝女神教〟の主神イシス様の像を収めた東屋をぐるりと迂回して、玄関前の階段の屋根下に横付け出来るよう設計されている。
ここは前の設計のまま流用したんだっけ。女神イシスの像が建物を抱くように両腕を広げ、優しい微笑みで見守ってくれているそのデザインは、改装を指揮していたバネッサも認めるほどの出来だったからね。
個人的にはあんまりイシス教は好きではないけど、確かに『神様がみんな等しく見守ってくれているよ』という安心感や希望を与えるにはもってこいだろうね。
玄関前の階段は、これから迎え入れる身体障害を持つ人達のことを考えて、段差は低く、ステップは広く作り直されている。
それだけでなく、この世界にもある所にはあるらしい車椅子での昇り降りも考慮して、階段の両側には手すりも備えたスロープも作ってあるよ。傾斜も階段を広く緩やかにしたおかげでそれほどキツくないから、手すりも活用すれば充分に行き来できそうだね。
「うん、いい出来だね。あとは正面階段はともかくとして、スロープの上も屋根でカバーしてあげてほしいかな。雨で濡れたら足元が滑るし、車椅子の人達にとっては物凄く怖いと思うから」
「かしこまりました。追加発注を掛けておきますね。それと床材を、水捌けの良い滑りにくい材質に整えます」
「うん、お願いね」
目に付いた気になる箇所や改善点をバネッサに伝え、それを彼女が手元の紙に書き込んでいく。
開業前のこの視察が終われば、いよいよ傷病奴隷達の受け入れとなるだけに、あたしもバネッサも気合いを入れて施設を見回っていく。
何よりもまずは、虐げられてきた奴隷達に安心を与えなければならない。健常者と違い障害を持った彼等の目線になり、過ごし易い住環境を整える必要があるんだからね。
そうして玄関の大きな扉を開いて、玄関ロビーへと足を踏み入れる。
余計な柱の取り除かれた、広々としたロビー。向かって正面の中央階段はそのままに、その真ん中の端をくり抜くようにして設えた受付カウンターがよく目立つね。
今回支店として手に入れたこの御屋敷は、三階建てになっている。しかし受け入れる人達の多くが身体に何らかの障害を持っていることを考慮して、居住スペースは主に最も広い一階に配置している。
御屋敷の構造としては中央の今居る部分が最も高い造りで、そこから東西に拡がるようにして建物が伸びている。そこで中央館と、東館・西館というように建物を区分けして、身体的な障害を持つ人は東西の一階部分に集め、身体は健康だけど心を病んでしまったような人はそれぞれの二階に分けるように工夫した。
ついでに言うと東館は男性、西館は女性というように、しっかり棲み分けもさせてもらってるよ。何かトラブルがあってからじゃ遅いからね。〝漢女〟? それはまあ……追々考えていこうかな……!
「良い感じだね。圧迫感も閉塞感も感じないし、広い廊下も窓から充分に光が射し込んで温かみがあるよ。二階の中央館が主に来客をお通しする場所だっけ?」
「はい。そして中央館の三階には我々職員の作業場や研究室、会議室や執務室を集約させています」
「うん、そこら辺は使うのはあたし達だからね。改善点も使いながら追々直していけばいいでしょ。先に東西館の公共スペースを見ていこっか」
「かしこまりました」
ここまでは概ね期待通りの出来栄えだったね。
さあ、次はいよいよ最重要な、奴隷達が過ごすエリアだね……!
「こちらが東西の一階部分にそれぞれ設置した、大浴場です。床材は濡れても滑りにくい物を使用し、浴槽へのアプローチにスロープも設置。足の不自由な者はこの浴室用の車椅子を使用します」
「二階はどうなってるの?」
「東西二階にも浴場は設置してありますが、二階には身体的には障害の無い、もしくは少ない者が住みますので、一階ほどの規模はありません」
「なるほどねー」
まずは癒しの基本、〝清潔〟からということで、奴隷や入所者が使用する浴場を見に来たあたし達。
イメージ的には、スパとかの大衆浴場をバリアフリーにした感じかな? ちゃんと左右どちらの手でも掴めるように手すりも設けられ、お風呂用の車椅子でも余裕を持って行き来できる広々とした洗い場も、まさにそれって感じ。
浴槽には乗り越えるような段差は無くて、階段やスロープで降りるだけでお湯に入れるようになっている。
水源はどうしてるのかって?
そこはファンタジー世界だもの。貴族御用達だけれど、水を生成したりお湯を沸かしたりする魔導具があるんだよ。
それとは別に雨水や川の水を貯める貯水池も広い敷地の隅に作ってあるし、万が一魔導具にトラブルが起きても、二日三日は施設の水源は確保できるはずだ。
「しかし、本当に入浴時間は皆一緒でよろしかったのですか? 奴隷達はともかく、職員達も共に入るというのは聞いたことがありませんが……」
「そこはやってみないとね。だけど受け入れる人達に〝人らしく〟過ごしてもらうことや、〝人としての尊厳〟を与えるには、分け隔てをしてちゃいけないと思うの。もちろん男女は区別するけどね?」
「なるほど……。健常者と分け隔てなく付き合い、自身の抱える劣等感を緩和させるのですね。素晴らしいお考えでございます」
「あとは昼間とかじゃなく夜にお風呂ってのも人として当たり前だし、補助してくれる職員も一緒に入った方が絆も深まるし経費も浮くしね。負担を分散させるために一階二階の担当は交代制にすれば不満も出にくいだろうし」
「そちらも調整していきますね」
お風呂に関してはこんなモンかなー?
実際に受け入れて試行してみないと見えないモノもあるだろうし。
それじゃ次次! 〝時は金なり〟だよー! どんどん行こー!
「こちらが一階の大食堂です。基本的に席は自由。車椅子でも不自由なく行き来ができるよう広いスペースを確保し、段差も無くしてあります」
「ご飯は椅子で食べるっていうの、押し付けにならないか心配だけど……それもやってみないことにはねぇ」
「いえ、車椅子は移動手段という認識はその通りだと思いますし、椅子への座り替えは良い鍛練になるのではないでしょうか?」
バネッサの言う通りそれももちろんだけど、車椅子だと座位が安定しないし、床に足を着けて踏ん張ることで姿勢も維持できて、咀嚼や嚥下も安定するんだよ。喉にご飯を詰まらせて死んじゃったりとか、そういう事故も少しは防げるはずなんだよね……。
まあこれは、前世の社畜時代に営業先の介護施設で聞き齧った話なんだけどね。流石にそこまで口に出しちゃうと説明が面倒くさくなっちゃうから言わないけど。
「普通の人と同じ生活をすることで、『自分にもできる』って思ってもらえれば嬉しいな。もちろん無理な部分は介助するのは当然だけどね。あとは食事なんかはムスタファが監修してるんでしょ?」
「はい。ああ、ちょうど来ましたね。ムスタファ、マリア会長に施設のお食事の説明をお願いします」
傷病者が多いからって、病院のような味気無い食事なんか出すつもりはサラサラない。
人の豊かな生活には、美味しい食事は必須だからね! そのために不安がる我らの漢女、我が商会が誇る【料理職人】のムスタファを連れて来たんだから!
「会長サマ、お疲れ様です。入居者さんや奴隷さん達の食事は、基本的には本店と同じ水準を目指すつもりです。ただし伺うところによると、病気の関係や障害の程度によって食べられる形態というものがあるそうですね」
「そうだね。片手しか使えないから切り分けられなかったり、噛む力が弱いとか飲み込むのが上手くできないとか、色々あるもんね」
「そこで試しに三段階に分けた食形態を考案してみました。健常者やそれに近い人が食べる〝普通食〟。一口大にカットしてフォークだけで食べられる〝刻み食〟。それと飲み込みや消化を考慮して、蒸し野菜や柔らかく仕込んだ食材を使う〝軟菜食〟です。…………いかがでしょうか……?」
相変わらず凄いなムスタファ。
あたしのたどたどしい障害についての説明もちゃんと真剣に聞いてくれたし、新しく雇った医師や薬師達からも入念に聞き取りをしたんだろうね。
出てきたアイディアは、日本の介護施設なんかでも提供されている食事形態と比べても遜色のない、食べる人のために考えられたものだった。しかもそれらがムスタファの監修する味で提供されるなんて……! ある意味前世の介護水準すら超えてしまうかもしれないね!
「バッチリだよムスタファ! 無茶を頼んでごめんね? ありがと!」
「い、いえ……! ワタシは会長サマのお力になれるのが嬉しくて……」
この……っ!? 愛いやつめぇ!
そんな優しいムスタファだから大好きなんだよ、あたしはさ!
「あとは料理も、実際に受け入れて臨機応変に研究開発していくしかないね。その時も頼りにしてるからね?」
「は、はい! 辛い目に遭った奴隷さん達のためにもワタシ、頑張りますね!」
食事に関しては、この分ならムスタファに任せても大丈夫だろう。
あたしとバネッサは食堂を後にして、次の、次の次の視察場所へと移動を繰り返したのだった。
◇
結局丸一日を費やして、ほぼ全ての施設設備の視察と監修を終えたあたし。
この仕事を伯爵に要請されてから、ひと月半ほどが既に経過している今現在。
近日中に、いよいよ元ゴルフォン商会の奴隷達が〝解放〟される。それは同時に、あたし達ワーグナー商会の新事業が、この〝ハル・ムッツァート支店〟が開業することを意味している。
正直怖い。
この世界にとってもまったく新しい福祉事業を、あたしなんかがちゃんとやれるのかという不安。
考察や準備を重ねてきたけれど、それで足りているのかという不安。
大小様々な不安が波のように押し寄せ、このちっぽけなあたしの、小さな身体と心を押し潰そうとしてくる。
だけど。
「お嬢様、新しくこんな運動を考えてみました! どうですか!?」
「会長っ、見てくださいコレっ! ポーションの新製法に、あの伯爵様が所感のお手紙を届けて下さったんですよっ!!」
「お嬢〜、もうちょい医者探してくるんで、出張申請の確認お願いっす」
ミリアーナが、ルーチェが、アンドレが。
「会長サマ? お疲れならこの新作のクッキーはどうですか?」
「ん。アテもご相伴に与る。いいよね、ご主人?」
「こらアニータ!? アンタはまだアタイと警備ルートの見直しだよっ!」
「頭脳労働に糖分は必須。ハダリーはまだまだ甘い。砂糖のように甘い」
「あんだとコラ!?」
ムスタファが、アニータが、ハダリーが。
「あ、マリアさん、お疲れ様です! ところで貸してもらった〝聖女セツコの建国記〟読んだんですけど、あれヒド過ぎませんっ!? (もしかしてマリアさんも前世であんな虐待受けてたんですか!?)」
「会長! 昨日からキョウヤさんのやる気がおかしいんですぅ! 訓練に付き合わされる私のことも考えてって、会長からも言って下さいぃ!!」
キョウヤが、ヘレナが。
って、キョウヤ……? あたしは別に両親を不慮の事故で喪ってもないし、親類縁者にタライ回しにされたり、虐待受けたりはしてないからね!?
まあ、今世では両親は理不尽に喪っちゃったけどさ。
「準備に納得はされましたか? マリア会長……いえ、マリアお嬢様?」
「全然だね。足りないところだらけだし、これからも粗はたくさん見付かると思う。だけどそれでも……」
今日一日……ううん。別れてからたった一人、一ヶ月間この領都で奔走してくれていたバネッサに問われて、あたしは全てを振り返りそう答える。
制度も無い、前例も無い中で、多少聞き齧っただけのあたしが始める新事業。
人の命や、今後の人生も幸せも懸かった一大プロジェクトを前に、正直身が竦んで、怖くてたまらない。
だけど。
「みんなが笑顔で居てくれる。それが何より嬉しいし、誇らしいの。だから頑張るよバネッサ。これからも力を貸してね」
「ええ、喜んで。私達の大切な、マリアお嬢様」
広い施設の庭に設えられたベンチに腰を下ろして、隣りに座る、あたしの先生でもあるバネッサと笑い合う。
そんなあたし達が思い思いに休んでいる所へ、一台の、伯爵家の家紋の入った馬車が門扉を潜って滑り込んで来た。
何事だとざわめく仲間達の見守る中で、扉を開け馬車から降りて来たのは…………カトレアだった。
「お疲れ様ですわ、マリア会長。唐突で大変恐縮なのですが、お時間を頂戴してもよろしくて?」