第100話 蛇とヤモリとお嬢様
「……なんであんたが居やがる?」
「やだなぁ、【ヤモリの耳目】くん。私が動いていることは承知だっただろう?」
「その名で俺を呼ぶんじゃねぇ。だからって、接触してくるとは思わねぇよ……」
ブリリアン伯爵領の中心である、ウィンリーネの街のとある酒場。
煌びやかとも言えず、かと言って寂れているわけでもない至って普通の場末の酒場といった、そのカウンター席に、アンドレを待ち構えていたかのように座る一人の男が居た。
「それで何の用だ、【毒蛇】カルロ―ス」
カルロ―ス・サンタ・アイオニス子爵。フォーブナイト帝国内務局に所属する、れっきとした貴族である。またの名を【毒蛇】と呼ばれている。
「いやなに、答え合わせといこうかな……とね。かの【キャスター】殿を翻弄した君の情報と、私の持つ情報を交換しようじゃないか」
「……狙いは?」
「お察しの通りだよ。私は陛下の忠臣を自負しているからね。陛下や皇太子殿下の意にそぐわないばかりか、混乱を巻き起こそうとする身中の膿を、搾り出したいんだよ」
「お役人は辛れぇこったな。だが、だからって今回の一件じゃ黒幕までは届きゃしねぇぞ?」
「分かっているとも。その点は君の大事な〝お嬢様〟も、承知の上だろう?」
「てめぇ……お嬢に手ぇ出しやがったらタダじゃ済まさねぇぞ」
「おお怖い。もちろん私にそんなつもりは一切無いとも。それどころか、逆に手伝ってあげたいくらいには私は、あの美しい少女を評価してるんだよ」
にこやかに、友好的に。裏では皇帝直属の暗部とも噂されているほどの男が、元大盗賊団の最高幹部へと取引を申し入れる。それも成果を接収するでもなく、対等な立場を示唆して。
「……お嬢と商会の連中には、一切手出し無用だ。それから【キャスター】の旦那に便宜を図れ。それが条件だ」
「君の身内に関しては了解した……が、【キャスター】殿までかい? その心は?」
「てめぇらがいつまでもあの御仁を出世させねぇから、伯爵ごときって舐められてんじゃねぇのかよ? 旗印にしてぇんなら、ちゃんとそれ相応の立場にしろってんだよ」
「これはまた手厳しいことを言うね、まさにその通りだ。だけど彼に欲が無いこともその一因なんだよ? あとは貴族派の目もあるしさ」
「そういう有象無象を黙らせんのが、あんたの仕事だろうが」
「……耳が痛いね、まったく」
相手がれっきとした貴族であっても、アンドレには礼を尽くそうだとか気を使おうといった様子はない。どころか情報交換において自身を上と見なし、さらには条件まで提示する始末だ。
かつては盗賊団の耳目としてムッツァート伯爵の目を欺き続けてきた男の手腕は、ある意味では【毒蛇】にとってもよほど重要な位置付けのようであった。
「了承した、私から陛下に進言はしておくよ。その代わりと言ってはアレだけれど、嘘は教えないでくれたまえよ?」
「どうせ裏付けくらい取るくせによ。まあいい、まずはあんたからだ。補足があればその都度意見する」
「よろしく頼むよ、アンドレくん」
片や諜報員としての最高峰。そして片や、後ろ暗い犯罪者としての過去を持つ生粋の裏世界の住人。
二人の男による、このフォーブナイト帝国の趨勢を左右するほどの情報交換取引が、場末の酒場の一席で、静かに始まったのであった。
◇
「ん。師匠、〝鳥〟が来た」
「おう……って、〝赤いリボン〟ってこたぁ緊急案件かよ。アニータ、手紙寄越せ」
「ん。滅多に使わない赤色なんて、よっぽどのこと。なんて書いてある?」
「やかましいアホ弟子。部長級以上限定開示の情報だ、大人しく待っとけ」
彼らワーグナー商会で運用されている〝伝書鳥〟。その情報の重要度を示す赤色のリボンを目にした情報部の二人が、にわかに緊張感を高める。
その手紙を開いたアンドレの眉間のシワが、見る見る深くなっていく。
自らの師の異様な雰囲気を察したアニータは、半歩、一歩と少しずつ彼から距離を取り始めた。
「アニータ、カトレアの嬢ちゃん達はまだ出掛けたばかりだったな?」
「ん。キョウヤに雰囲気の似た青年のパーティー……【紅の牙】だっけ? 確か三十分前に彼らと出発した。今日は土産物を中心に見て回るって」
「緊急事態だ、すぐに宿に呼び戻せ。ルーチェも絶対に連れてこい」
「ん、部長だけで密談とかズルい。アテもご主人の力になりたい」
「焦らねぇでも、お前だったらすぐに出世できらぁ。今は我慢しろ」
「わかった。【紅の牙】はどうする?」
「……ヘレナ嬢ちゃんがだいぶ参ってたからなぁ。ハダリーに穴場の店でも色々案内させとけ。ルーチェとヘレナ嬢ちゃんの二人も居りゃあ、帰ってくるだけなら充分だろ」
「師匠はアテ以外には優しい。待遇の改善を要求する」
「やかましいわ。良いからさっさと行ってこい、バカ弟子」
素早く方針を定めたアンドレの指示により、彼の愛弟子であるアニータが路地裏から姿を消す。それを見送ったアンドレは、伝書鳥によって届けられた彼の主人――マリアからの手紙を握り潰した。
「……ったく。ムッツァート伯爵の息子との共同研究に、錬金術ギルドとの対立だ? しかもウチが前面に出るとかよ……。大方お嬢の提案だろうが、またとんでもない事始めちまいやがったな」
そしてもう一つアンドレが歯痒く思う一件に関しては、その手紙には記載はされていなかった。
詳しく書かれてもいないし、ぼかされてはいたが、先代会長であるスティーブに従っていた頃からの馴染みであるバネッサの報告書には、しかしアンドレには伝わるようにささやかに書かれていた。
「お嬢も水臭せぇよなぁ。ミリアーナやバネッサにばっか頼ってよ。俺はともかく、アホ弟子が妬くからもうちっとでも弱みを見せりゃ良いのになぁ……」
主人であるマリアがひた隠しにしている、彼女の職業適性の持つ職業技能の情報。
先代会長であり本来のアンドレの主人、そしてマリアの父親であるスティーブからは、彼はその事情を知らされていた。
確かに大っぴらに喧伝する訳にはいかない、破格の能力であるとは、アンドレも重々承知していた。そしてだからこそ、現在のようにマリアが名を売り始めてしまっているからこそ、もっと味方を増やすべきだと、彼は常々そう感じていたのだ。
彼の主人は己の秘密が守られていると思っているし、事実今まではそうであった。
だが彼女を取り巻く環境が、周囲の人の目や悪意が、それをいつまで許してくれるだろうか。
今は亡き先代会長の忘れ形見。赤子の頃から商会ぐるみで見守ってきた、彼にとっても大切な今の主人を想い、アンドレは溜息と共に宿へと引き返していったのであった。