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挨拶

作者: あじろ けい

「おめでとう」

「何がだ?」


 妻が鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてみせた。


「朝起きたら『おめでとう』って言うでしょう」

「朝の挨拶は『おはよう』だろうが。寝ぼけてるのか」


「寝ぼけているのあなたでしょ。『おはよう』はおめでたい時に言う言葉で、朝の挨拶は『おめでとう』でしょ。朝ごはんの仕度出来てますよ」


 妻はそそくさと洗面所にむかった。

 トーストをかじり終えた頃に戻ってきた妻は化粧をしていた。


「出かけるのか?」

「直美の大学入試合格発表を一緒に見に行くの」

「そうか、今日か」


 合点がいった。げんを担いでわざと「おめでとう」と言っているのだ。つきあってやるか。


 起きてきた娘の直美にむかって「おめでとう」と言い、家を出た。


「おめでとうございます」


 家を出るなり、むかいの家の奥さんに声をかけられた。妻より年上で、大学生の息子がいる。妻のげん担ぎに付き合わされているのだろう。私も「おめでとうございます」と返しておいた。


「係長、おめでとうございます」


 社に到着、席に着くなり、挨拶は「おめでとうございます」だった。私にむかってだけではない。通勤電車内での見知らぬ人間同士の挨拶も「おめでとう」「おめでとうございます」だった。


 うっかり「おはよう」と受付の女の子に言ってしまって変な顔をされて以来、私は「おめでとう」「おめでとうございます」と朝の挨拶をするようにした。


 物心ついてから五十年近くたつ。朝の挨拶は「おはよう」と教えられたのだが、間違えていたらしい。次々と出社してくる部下にむかって、つい「おは……」と言いたくなるのを「お……めでとう」と言いかえる。


「おめでとうございます。ちょっと言いにくいんですけどね……」


 わが社が供給している派遣社員についての苦情の連絡が「おめでとう」で始まるのには参った。


 午前中が過ぎると、私はほっとした。


 帰宅すると妻と娘はまだ戻っていなかった。夜の九時近い。さてはダメだったか。気落ちする娘においしいものでも食べさせてやろうと妻がどこかへ連れ出しているのだろう。


 「おはよう」と「おめでとう」を言い換え続けて疲労困憊、頭痛のし始めた私は薬を飲んでさっさと布団にもぐりこんだ。



「おめでとう」

「何が?」

「朝起きたら『おめでとう』って言うんだろう?」

「何、寝ぼけてるの。朝の挨拶は『おはよう』でしょう」


 妻はそそくさと洗面所へむかっていった。戻ってきた妻は化粧をしていた。


「出かけるのか?」

「直美の合格発表を一緒に見に行くのよ」


 さては夢だったか。


 朝の挨拶は「おはよう」に決まっている。娘の合否が気になるばかりに妙な夢をみたのだ。妻に怪訝な顔をされながら、私はひとり苦笑いを浮かべた。


「おはよう」


 起きてきた娘にそう言い、私は家を出た。


「おはようございます」


「おはようございます」とお向かいの奥さんに挨拶を返した。


「係長、おはようございます」


 部下たちの挨拶も「おはようございます」だ。こうでなくては。


「おはよう、鈴木くん。ちょっといいかな」


 部長に呼ばれ、私は部屋に通された。


「君のところにいる渡辺くんについてなんだが……この春からの人事異動で課長に昇進が決まったのだ。ついては君の部下なので、君の口から伝えてやってはもらえないだろうか」


 渡辺は三十二歳、去年結婚したばかりである。入社以来、私のもとで社員候補と派遣先企業との間に入って調節を行ってきた。社員と派遣先両方に言いにくいことをずばっと言えるなかなか骨太な人間だ。社としても将来を期待しているのだろう。上司である私を飛び越しての昇進だが、口惜しさはなかった。負け惜しむほど私はもう若くない。


「おめでとう」と、私は素直に述べた。「おはよう」と言いそうになるのを懸命にこらえて。渡辺は目を真っ赤にして喜んでいた。


 帰宅した私を待っていたのは、娘が第一志望大学に合格したといういい知らせだった。


「おめでとう! よく頑張ったな」


 妻が用意したケーキを前に、娘は照れくさそうな顔で小さく頷いてみせた。反抗期には口もきいてくれなかった娘だが、「お父さん、ありがとう」と恥ずかしそうに礼を言った。


「お父さんは仕事してただけだったけどな。お母さんにちゃんとお礼言いなさい。夜食を用意してくれたり、風邪ひかないように体調管理に気をつけてくれたり、お前のサポートをしてきたのはお母さんなんだから」


 大好きなイチゴのショートケーキをほおばる娘と妻の顔を見ているだけで、私は幸せだった。


 私は何度も「おめでとう」を繰り返した。夢のせいですらすらと口にのぼるという理由もあったが、「おめでとう」と言うと気分がよくなったからだ。もちろん、根底には祝う気持ちがあった。


「おめでとう」


 娘が風呂に入っている間、妻が厚揚げ豆腐と熱燗を用意してくれた。厚揚げ豆腐は私の好物だ。晩酌は金曜日だけと決めている。今日はまだ水曜日だ。


「どうした、また」

「どうしたって、自分で『おめでとう』って言ったじゃないの、朝。何を言い出すのかと思ったんだけど、考えたら、今日、私たちが初めてデートした日なのよね。あなた、覚えていたのね。それで『おめでとう』って言ってくれたんでしょう」


 妻は頬を赤らめていた。しみも皺もある五十女だが、可愛らしい。


「初めてデートした日ねえ」


 覚えてもいなかったし、「おはよう」のつもりで言ったのだ。変な夢を見ていたせいだ。という裏事情を私は妻には伝えなかった。


 厚揚げ豆腐をつついていると、電話が鳴った。


「おめでとうございます!」


 耳をつんざくような大声で若い男は言った。


「このたび、鈴木さまは『地道に生きている普通の人が一番偉いで賞』を受賞されました。あらためまして、おめでとうございます」

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