優しいある一日
目がさめると、大きな窓から、太陽の光が部屋に射し込んで、元気に私を照らしていました。気持ちが良い朝のお迎えです。
私が目覚めたその場所は、誰かの一人暮らし用の部屋のようでした。やや乱雑で生活感があり、薄い黄色の壁がカラフルです。
天井に少し大きな絵が貼ってあって、紙一面に、少し抽象的な星空が広がっています。暗いけれど、どこか、暖かい夜空に見えます。
私は一目見てその部屋とその絵が大好きになりました。
私はその部屋に見覚えがありませんでした。
昨日はお友達の家に泊まっていたのでしょうか?
私は伸びをし、頭をぐるりと巡らせますが、昨日何をしていたか、さっぱり思い出せません。
一体私はどうしてしまったのでしょう。
少なくとも、友達の家に泊まっていることを忘れてしまうことはないような気がします。
もしかして、誘拐されてしまったのでしょうか。
「誘拐」という、この発想に私は自分でびっくりしてしまいました。
私が誘拐されてしまっていても、変わらず太陽はこんなにもポカポカと私の布団を優しく温めてくれるんですか?
この気持ちの良い目覚めとその発想はちょっとミスマッチです。
こんな可愛らしい部屋の主が誘拐犯かもしれないなんて。
ピエロのようなメイクともじゃもじゃの赤い髪をして、肉切り包丁をもった男が、この部屋で暮らしているのが頭に浮かんできました。
その自慢の肉切り包丁で、ピエロさんは、ネギやじゃがいもをせっせと切って、自慢の肉じゃがを作るんです。そして、カラフルなお部屋をうっとり眺めつつ、それを一人で楽しく召し上がるんです。
なんだか誘拐犯さんに会ってみたいような気にもなってきました。
(でも私を料理するのだけはやめてください。きっと美味しくないです。)
そんな非現実の妄想を抱きながらも、私はきっとそんなことはないだろうとわかっていて、しかしだったらどうしてここにいるのか、その代わりの理由を私は見つけることが出来ませんでした。
私はここにのんびりと構えていて、大丈夫でしょうか。予定は何かなかったでしょうか。しかし、私の頭は何も返事をしてくれません。本当に何もないのかもしれません。
†
考えることがなくなり、やることがなくなった私はふと空腹を感じました。
「おなかへったよ。」
私は声に出しました。
声が部屋に響き、壁に染み込みました。
他人のキッチンを物色するのはよくないことです。そんなことは私も知っています。
でも、私はお腹が減っています。
そして、この部屋はきっととても親切で優しい方のものです。
だから私がちょっとやそっとお行儀が悪くても許してくれるはず。
冷蔵庫には、卵、玉ねぎ、牛肉、ほうれん草、牛乳、などなど、基本的なものが揃っていました。私は、ほうれん草のオムレツを作ることにしました。
ほうれん草を切って、卵を溶いて牛乳と混ぜ、フライパンで火にかける。
無意識に私ははなうたを歌っていました。
格好のつかないメロディが壁に染み込みます。
ええと、この曲、何の曲でしたっけ。
私は二人分のオムレツを焼きました。
部屋の主人が帰ってきても、これできっと怒られないはずです。
でも、オムレツが美味しいので、結局2人分をすぐに食べきってしまいました。
††
ご飯が終わってから、私は部屋のすみに画材を見つけました。大きな白紙のスケッチブックやたくさんの画用紙あり、近くには完成した絵と思しきぶあつい紙の束が置かれていました。紙の束の一番上には、「中を見てはいけません」と書かれていました。私はとても気になりましたが、頭の中で「中を見てはいけません」がぐるぐると回って私の好奇心を留めました。
代わりに私も何か絵を描いてみることにしました。どうせ私を泊めてくれた人に顔も合わせず帰るわけにもいきません。だから時間をつぶす必要がありました。
他人の絵の具とパレットに手を伸ばす自分を図々しいと責める気持ちもありました。でも何か描きたい気持ちがふっと湧いてしまったのです。
新聞紙を敷き、水入れバケツを置きます。大きなサイズの紙しかなかったのでおっかなびっくりそれを拝借しました。
絵の具をチューブから出し、パレットで色を作っていきます。
そして筆を画用紙に誘います。
最初に筆を真っ白な紙に落とす、そのために緊張と期待が頭に満ち満ちます。
やっと筆先が紙に触れると、そこからは抵抗なく滑り出します。
始めてしまえば、手は不思議なほどさらさらと動き、私は色を紙に広げていくことを楽しみました。絵なんて最後にいつ描いたかも記憶にないのに。
何もなかった世界に「私」が染み込んでいきます。でも、生まれていくのは、知らない世界です。筆から離れる「私」は「私」ではなくなり、モノへと形を変えます。自分の中の景色と実際に画用紙に展べる世界は違っていて、そのズレがさらに私のイメージを掻き立て、新しくしていきます。
私は夢中になりました。
†††
そうして紙と絵の具と戯れていると、気づけば空は真っ暗になっていました。絵はやっとひと段落しました。私の腕は絵の具で汚れていました。私は立ち上がって伸びをして、それから体を洗いに行きました。
暗い洗面所に入って、明かりをつけます。
鏡を見て私はおやと思いました。
そこには、私の知らない顔が写っていました。
ショートカットの目のぱっちりした若い女の子。
彼女もびっくりした顔で私を見つめてきます。
でも私はすぐ気づきました。どうやらこれは自分であるらしいぞと。見覚えのない自分の顔。そういえば私には自分の顔のイメージさえ頭にありませんでした。私は自分の顔を知らなかったのです。
鏡の中の彼女は驚いたような表情から納得したような顔に変わりました。
なんて可愛らしい顔立ちでしょう。なでてあげたいなと思いましたが、鏡の中に手は届きません。私は頭を掻きました。鏡の彼女も頭を掻きます。
彼女が私の動きを真似ているのを見ると不思議な気持ちになりました。
自分の服を見つめます。彼女も同じ服を着ていました。
自分の手を見つめます。彼女も同じ手を持っていました。
私は冷たい鏡を通して左手を彼女の右手と重ねました。
私は、彼女と一つになるのは少し難しいかもしれないと感じました。
そして、私は当然その時もう一つのことにも気づいてしまいました。私はどうやら、記憶がないらしいのだと。昨日どころか、一昨日のことも、最近のことも、子供のころのことも、何の思い出も考えてみれば自分にはありません。自分の顔どころか、親の顔も友人の顔も何一つ心に浮かびません。自分の職業も自分の名前も何もかも記憶にありません。私は今日生まれたかのようです。
私は服を脱ぎ、シャワールームに入りました。シャワールームにも鏡が付いていて、私がシャワーを浴びるとこちらを見ながら鏡の彼女もシャワーを浴びます。
彼女は一体どんな風に今まで生きてきたのでしょうか。きっと可愛らしい彼女のことだから、たくさんの人に優しくされてきたに違いありません。お父さんも溺愛して、玉のように育てたことでしょう。お母さんはそれにちょっと嫉妬しつつも、やはり可愛がっていたに違いません。きっと学生時代には甘酸っぱい恋の経験もあったことでしょう。一体どんな制服を着ていたのでしょうか。初恋はどんな人だったでしょう。社会に出てこれまで、何をして何を考えて何が好きで、何が嫌いで、生きてきたのでしょう。
私は体を洗い終えて、シャワールームを出てタオルで体を拭きました。抜けた私の髪の毛と泡の混じった水がシャワールームの排水溝に吸い込まれていくのが見えます。
彼女の記憶も彼女の思いもどこかに消えてしまったのです。くだらないことも、大切なことも。
私は彼女が少しかわいそうに思えました。
鏡を見れば彼女は頬に涙を流していました。
私は彼女が悲しい顔をするのは見ていられませんでした。
私は彼女に笑いかけました。
すると、彼女も不器用な笑顔をこちらに返してくれました。
私は、浴室を出て、収納から服を探し出し、それで体を覆いました。サイズはピッタリと合っていました。
この部屋は多分彼女の部屋だったのです。この部屋の机も椅子も食器もベッドも彼女が使ったものでした。
私は疲れていたので夕食をごく簡単にすませました。
窓を開いて外を眺めると、月と綺麗な星空がありました。
そして、自分の絵を見返しました。
私の描いた絵のモチーフは星空でした。ちょっと幾何学的だけど、なんだか暖かくて、我ながら出来には満足しています。
私はその絵に少し手直しを加えて、パレットや水入れを片付けてから、電気を消してベッドに身を放りました。
そうして私は天井貼られた一枚の絵に気づきました。それは幾何学的な星空の絵で、まったく私の描いたものに瓜二つでした。
私はクスリと笑いました。やっぱり彼女は私であるみたいです。
私は少し安堵して、目を閉じ、ゆっくりと闇の中に吸い込まれていきました。