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一二月一五日
窓から射し込む朝日が眩しくて目を覚ます。視界には部屋の窓が下から見上げる形で切り取られていた。それからよく見る夢のなかの光景を思い出して、あれは夕日だったんだと知った。寝ぼけた頭で朝日と夕日の違いについて考えてみる。暖かさや光の鋭さといった答えが出てくる頃には眠気も覚めていた。
いつものように暖房をつけるのも億劫で、ベッドの上で仰向けのまま考える。
昨日(日付的には今日なのだけれど)は午前三時頃まで起きていた。そのためか頭が重く、すっきりとしない。寝起きの体調としては最悪だといえる。
その反面で心は軽やかだった。虚無や空虚とは違う。毎朝感じるような心のなかの喪失感なんてものはなくて、充足感に満ちているようだった。
理由は手元にある一冊の小説にある。
昨夜はすぐに眠ることができなかった。そのため催眠効果でも発揮してくれたらと、柴村さんに借りた小説を手に取った。すぐに寝るつもりだった。普段から就寝前の読書にはそう時間がかかることはなかったから、この時も眠気がやってくるのと同時に本を閉じようと決めていた。
でもそうはならなかった。
ページをめくる音が鳴りやまなかった。柔らかな紙をめくる心地良い感触がいつまでも続いてくれることを、いつの間にか願うようになっていた。それほどまでに目の前の物語は僕を引き込んだ。
別に壮大なストーリーが繰り広げられているでも、涙を流すほどの感動があったわけでもない。どちらかといえばストーリーは平坦で、多くの読者は退屈させられるような、いたって普通の日常が多く描かれていた。
でも僕にとってはそんな作品が、とても愛おしく感じた。
優しさを携えた平凡な少年が。
とても不器用だけれど、どこまでもまっすぐな少女が。
真水のように不純物がなくて、流麗に紡がれていく文章が。
物語を包む、暖かな雰囲気が。
そのどれもが、僕の胸に刺さった。
その感想は、昔にこの本を読んだ時のものとはまるで違っていた。あの時の感想を明確に覚えているわけではないけれど、はっきりとそう断言することはできる。
山吹さんはこの半年間で僕が変わったと言った。正直、僕自身にその自覚はない。
でも少なくとも、初めてこの小説を読んだ時の僕と、今の僕は違うのだろう。
小学生の頃の自分と高校生である今の自分を比べて違いがあるのは、ある意味当然のことだ。それは長い時間を経て、自分自身が変わったと表現することもできる。
だがそれは、誰がどう見てもわかることだ。他人に指摘されずとも、自分で判断できることだ。
遠い昔の記憶ほど、自分を客観視することができる。
しかしそれが、ここ半年間のこととなると、途端にわからなくなる。何がきっかけで、何に影響を受けて自分は変わったのか、わからない。
今ではもう、あの時の気持ちが理解できないでいた。
いや、理解ができないというのは、少しその言葉の意味と事実に齟齬があるように思える。あの時の感情はこうで、それによってこの選択をしたというように、論理的に物事を順序立てていくことはできる。でも、どうしてそのような感情が生まれてしまったのか、根本的な部分はわからない。
僕は本当に変わったのだろうか?
そのことを、なんだか今すぐに確かめたくなった。
僕が変わったかどうか。それを確かめるにしても、具体的な方法は思いつかなかった。そもそも、何をもってすれば僕自身が変わったといえるのか。単に知識が増えた、新しいことを体験したからといって、それで僕自身が変わったと表現することは、なんだか違う気がしていた。
やがて、家を出なければならない時間が近づいてくる。
今日ほど、朝のこの時間が短く感じたことは、今までになかった。
表面的なことをなぞれば、今日この校舎で過ごした一日は、いつもと変わらないものだった。特に語るべきほどの出来事は、今のところ何もない。
ただ、違うことがあるのだとすれば、それは僕の心のなか、思考ともいうべき場所にあった。
お昼過ぎの暖かな陽気と、還暦を過ぎた男性教諭のしっとりとした声が眠気を誘う。目の前の黒板には、竹取物語の本文が書きだされていた。
かぐや姫が月に帰っていくのを尻目に、手に持ったシャーペンで真っ白なノートを叩く。それは周りで真面目に授業を受けている人たちに擬態するための行為だったが、同時に、頭のなかで漂っている不確かな情報を整理するための行為でもあった。
柊陽斗という一人の人間。自己概念のようなもの。
自分は何者なんだという漠然な問いに対して、僕は答えを求め続けている。
これに関して、そう簡単に明確な答えというものをみつけだすことはできなかった。そもそも、一生をかけてもみつけられるものではないのかもしれない。
この問題について、自分一人で答えを探し出すことはできそうにもなかった。
じゃあどうするか。
「こら、そこ。えぇっと……林君、起きなさい」
白髪交じりの古典の先生が、僕の目の前で机に突っ伏している林を注意するが、彼は微動だにしない。
仕方なく右手に握っていたシャーペンの先で林の背中を突いてやる。
「うーん」
それでようやく、林は頭を上げた。
彼の背中を眺めていて、あることに思い至る。
――そんな僕は、林の目にはどのように映っているのだろうか。
他人から見える自分、自意識の側面から紐解いていくことはどうかと。
今まで、僕は他人との関わり合いを蔑ろにしてきた。
一般的に、普通に、人並みにと、ある種のフィルターを通してしか他人と関わってこなかった僕が、今更自意識を持ち出すのはどうなのか。一貫性を保つことができない自分に多少の嫌気がさすが、それは仕方のないことだった。
自分にとって身近な人の顔を思い浮かべてみる。
家族、クラスメイトの林、バイト先の店長、年上の山吹さん、最近知り合った小説家の柴村さん。
そしてふと、深雪冬華の顔が思い浮かんだ。僕にとって身近な人間とは呼べないけれど、最近とても印象的な出来事があったせいだろう。
窓際に座る深雪冬華の横顔を見つめてみる。
頭のなかで思い浮かんだ彼女の顔と、その横顔を比べる。当たり前のことなのかもしれないが、その表情は全く同じだった。
目の形も、口角の形も、感情によって変わる皺の数さえも、同じように見えた。
いつだって彼女は同じ顔をしている。そんな彼女からは、人なら誰もが持つ感情というものを読み取ることができなかった。
彼女にとっては僕なんかただのクラスメイトの一人に過ぎない。そんな彼女から自意識なんてもの、みつかるはずもないだろう。
五限の授業もそろそろ終わりを迎える。黒板のなかで描かれた物語も、ちょうどラストを描いていた。
かぐや姫が月に帰ったあと、翁とその妻は生きる気力を失ってしまう。そして、薬と手紙を駿河の山で燃やした。
童話でよく見るかぐや姫では描かれなかった最後だった。さすがに、子供たちに聞かせる話ではないのだろう。
僕にはなんだかそれが、現実はもっと残酷なんだと、突きつけられているような気がしていた。
寂れた路地を歩く。目的の場所はこの道の先にあった。その場所も、僕にとって数少ない特別な場所になりつつある。
やがて一つの建物が姿を現す。辺りの建物と比べて一回り大きいその建物は、どこか懐かしい雰囲気を漂わせていた。
窓ガラスからは、ほんのりと明かりが漏れている。扉に手をかけてまっすぐ手前に引くと、頭上から鈴の音が鳴った。
「いらっしゃい」
店の奥の方から声が聞こえてきた。足を動かす前に一度だけ意識的に息を吸って、吐いた。僕は少しだけ緊張しているようだった。
周りを本に囲まれた通路を先に進む。やがて見えてきた木製のカウンターのところにその人はいた。
「やあ、君か」
そこに座っていたのは柴村さんだった。一応、この店の店主ということになるのだろうか。そして、今手元にあるこの小説の作者でもある。
その小説の感想を伝えるという名目のもと、彼を通して自分という人間のことを知ろうと思い、僕はここを訪ねていた。
「どうも、お邪魔します」
普段なら、お店というところに入るときには絶対に言わないのだが、この時は、お邪魔します、と言っていた。それはこの古本屋の独特な雰囲気のせいだろう。どことなく、ここは個人的な空間を思わせる。
「今日はどういったご用件で?」
殊更に店員口調でそう言った柴村さんだったが、もしかすると、緊張しているのは僕だけではないのかもしれない。
「借りた本を返そうと思って」
「ああ、私は貸したんじゃなく、あげたつもりだったんだけどな」
「そうだったんですか」
「君さえよければもらっておくれよ」
僕はその言葉にお礼を言って、小説を一旦は鞄のなかにしまった。
柴村さんはカウンターから立ち上がると、その奥にある扉を開けて、こちらを振り返った。
「ここで話すのもなんだ。上の部屋に行こうか。あそこにはコタツがあるんだ」
「僕はここで大丈夫ですよ。それにお店、大丈夫なんですか」
店を空けることの心配も多少はあったが、なにより、他人の居住スペースに足を踏み入れるのはなんだか気が引けた。
店はもう閉めるからいいよと言って、柴村さんは扉の奥へと入っていく。仕方なく僕もその背中を追った。
「ニャー」
出迎えたのは黒い猫だった。薄汚れた緑色のビー玉みたいな二つの瞳がこちらを見上げていた。少しだけの間があったので、猫に向かってどうもと挨拶をすると、その猫はプイっと顔を背けて奥の方へと行ってしまった。
「行こうか」
今の一幕を見守っていた柴村さんに促されて、僕はその後に続いた。もちろん猫に挨拶をしたことは後悔している。
階段を上って連れられた部屋は和室だった。ここにも壁際に本棚があり、真ん中にはコタツが鎮座している。
「今コタツの電源を入れたよ。ほら、そこに座るといい」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
とりあえず僕は鞄を置いてコタツの前に座った。なんとなく、コタツの中に足を入れることに躊躇してしまう。
柴村さんは腰を下ろす気配がなかった。
「柊君はコーヒーと紅茶、どっちがいいかな?」
「あ、いえ、お構いなく」
「君はそう言って簡単に引き下がる大人を見たことがあるかい?」
「えっと……じゃあ紅茶で」
コーヒーだと砂糖やミルクの量で気を遣わせそうだった。それにコーヒーならよく店長が淹れてくれる。
「わかった。君はそこでゆっくりしてて」
柴村さんはそう言って部屋を出た。
ゆっくりと言われても、他人の居住空間に初めて足を踏み入れて落ち着けるはずもなかった。
柴村さんと会うのは今日で二度目だ。普通なら、年の離れた年上の男性に心を許すような期間じゃない。それでも僕がこの人にここまで踏み込んでいられるのは、少なからずこの人の小説を読んだ影響があるのだろう。
僕は柴村さんの小説から、彼の人間性までをも見てしまっている。あの小説の優しさと、柴村さんの優しさを重ねてしまっている。
もちろん、それは僕の勝手な虚像に過ぎないことは自覚しなければならない。他人の人格や人間性は、他人がそう簡単に測れるものではないのだから。
棚に並んだ本の背表紙を順に目で追っていると、襖が開いた。柴村さんがお盆に湯呑みとマグカップを乗せて、部屋に入ってくる。
「熱いから気をつけて」
僕の目の前に紅茶が注がれたマグカップが置かれる。
「ありがとうございます」
マグカップからは仄かに湯気が立ち込めていた。マグカップを手に取り口元へと運ぶと、上品な香りが鼻をかすめる。一口飲むと、さわやかな味わいが口の中に広がった。
柴村さんが僕の向かい側へと腰を下ろす。彼の湯呑みからも湯気が立ち込めているが、なかに注がれている飲み物は僕の紅茶と違って黒々としていた。僕はそこから、その中身をコーヒーなのだと予想した。
僕が湯呑みを眺めていると、柴村さんが苦々しい顔で頭を掻いた。
「一人暮らしだと食器類の数がどうしても少なくてね。コップもこの二つしかないんだ」
「えっと……ああ、すみません」
「いや、いいんだ。別にこだわってるわけじゃない。普段からたまにこっちでコーヒーを飲むこともあるしね。気を遣わせてごめんね」
別に湯呑みでコーヒーを飲んでいることに対してなにかを思っていたわけでもなかったが、柴村さんは弁解するように言った。
僕は紅茶を一口すすってから、鞄から改めて小説を取り出す。
「読みました」
僕がそう言うと、柴村さんは少しだけコタツから身を乗り出した。
「どうだった?」
「えっと……」
感想を求められて、僕は口ごもってしまう。表に出したい感情は確かにあるのに、言葉が咄嗟に出てこない。
「正直な感想でいいよ。作品に関して、私に気を遣う必要はない」
僕に気を遣った様子で気を遣うなと言う柴村さんに対して、僕は心のなかで首を振った。彼の口調から、その心情を察したからだ。
「僕はこの小説に対して感想を語ることを恐れているんだと思います。僕なんかがこの作品にどんな言葉を添えたとしても、それはこの物語の本質、ひいては作者の真意というものを正確に読み取れていない気がするから」
「考えすぎだよ。小説なんて娯楽の一種だ。作家としては、読んでくれて、そして楽しんでくれさえすればそれでいい」
柴村さんはそう言うけれど、彼の小説には読者に対してのメッセージが確かにあったように思う。
彼の小説に限らず、世の中の物語には読者に伝えたいものが込められている。
「作品を通して読者に何かを与えようだなんて、単なる作者の驕りだよ」
と柴村さんは言った。
僕は彼のその言葉に、釈然としないものがあった。
たとえそうだったとしても、他人のために小説を書いているのなら、やはりそこには作者の想いが込められているはずだ。読者が感じる面白さや感動も、作者の想いの一つなのだと言ってもいい。
作品に込められた想いを、僕は出来る限り汲み取って理解したかった。
今まで僕は、物語に込められた想いを受け取って自分のなかで咀嚼することで、人としてどこか成長した気がしていた。
思えばそれは、僕が本当の意味で人とつながろうとした、唯一の行動だったのかもしれない。
人とのつながりで、まず自分一人で完結できるような方法が出てくるのはおかしいことなのだろうが、それでも、この行為自体は正しいことのように思う。
そしてようやく、感想と呼べる言葉が思い浮かぶ。
「ただこれだけは、はっきりと言えます。僕はこの本のおかげで、少しだけ優しくなれた」
作品を書いた当人を目の前にして感想を語るのは少し気恥ずかしさがあったけれど、それは相手の方も同じことなのかもしれない。
柴村さんは僕の言葉を聞いて、小さく笑った。
「それはとても嬉しい感想だね。読んでくれて、ありがとう」
今までにはこんなこと、考えもしなかった。僕は普段から意識しないようなところで、意外にも大事にしているものがあったのだ。
これも、柴村さんと話さなければわからなかったことだ。他人から見た自分、とは少し違うが、人と話すことで自分のことがわかるという点では、結果的に変わらないものを得ることになった。
それから僕は、度々柴村さんのもとを訪れた。今ではもう、足を運ぶための理由をいちいち用意する必要もなくなっていた。僕は彼と言葉を交わすことが好きだった。
「君はあれだね、理想主義的な側面があるだろう? この先いろいろと苦労が多そうだ」
「そうでしょうか」
「たとえば、家で勉強するときに用意する飲み物とか、常にコップが満杯の状態じゃないと落ち着かなかったりするんじゃないのかな」
「……当たっています」
「君はいつも完璧を求めているようにみえる」
「どうしてそんなことがわかるんです?」
「君と話していれば、なんとなくわかるよ。私の小説を読んだ時の感想なんかがまさにそうだ。完璧や正解を求めすぎて、その結果、回りくどい方法を取る」
「都合よく信号が赤から青に変わったとき。人とすれ違った瞬間、不意に視線が交わったとき。会話の中で共感できるところを見つけたとき。そんな何気ない日常のなかで、音が聞こえることがある」
「音、ですか」
「そう、ページをめくる音が聞こえるんだ。そんなとき、無性に小説を書きたくなる」
柴村さんとの会話を重ねるなかで、僕は次第に彼に傾倒していることを自覚していた。上手く言葉にすることはできないけれど、彼の言葉は現実感を伴って、僕のなかへと入ってくる。本を読んでいる感覚に近いのだ。柴村さんの口から紡がれていく言葉を、僕はただ読み込んでいく。
風が冷たい日が続いていた。その日も下校中に冷たい風を受けながら、柴村さんの家へと足を運んでいた。
僕は柴村さんに招かれて二階の和室に入る。そしてコタツの上にティーカップと湯呑みが用意される。中身はそれぞれ、紅茶とコーヒーが入っている。
僕たちはいつものように言葉を交わした。そのほとんどが、文学じみていた。
本に関する話題が尽きたころ、次第に時計の針が気になりだして、なんとなく目についた光景を口にした時だった。
「それにしても、柴村さんはここに一人で暮らしてらっしゃるんですね。掃除とか大変じゃないですか?」
「ああ、元々ここはうちの父と母が住んでいた場所なんだ。両親が他界してからは店も閉めて空けてたんだけどね。私の住む場所がなくなって、仕方なくここを使ってるんだ。掃除はそこそこ大変だね」
柴村さんの言葉のなかに、心のなかにあるささくれのようなものを感じ取った気がした。
彼は目の前にあるコーヒーを口のなかに流し込んでから、ひとつ、ため息のようなものを吐いた。それは押しとどめられていた感情が溢れだす前の予兆のように思えた。
「私には妻と娘がいたんだけどね……って、こんな話を唐突にされても困るか。この歳になると、人と話す機会も少なくてね、つい言うべきではないことまで口に出してしまう」
柴村さんはごめんねと言って、その話を打ち切ろうとしていた。僕に気を遣っているのだろう。
誤解を恐れずに言うのなら、その姿はとても悲しげに僕の目には映った。
改めて、僕は思う。
僕は柴村さんのことを何も知らない。
ただ初めて出会った時に少しだけ本の話をして。彼の書いた小説を読んで、少しだけ彼の内面を想像して。それから何度か言葉を交わす機会はあったけれど、僕は本質的なところで、柴村さんのことを何も知らないんだ。
それでいいのか、という思いが頭のなかをよぎる。
柴村さんのことを何も知らないで、それでいて自意識を持ち出すことは、なんだかとても不誠実なことのように思えた。
しかし、それらのことを抜きにしても、ただ純粋に、僕は柴村さんのことをもっと知りたいと思う。
でも先ほどの話の続きを僕から促すのは、なんだか違う気がしていた。自分で自身のことを語り始めるのと、他人がそれを無理やり聞き出そうとすることには大きな違いがある。
だから僕は、できるだけ誠実に、それでいて正直な気持ちを柴村さんに伝えることにした。
「僕は柴村さんのこと、もっと知りたいです」
顔が熱くなる。コタツによる熱のせいではない。
本当はこの言葉の続き、あるいは枕詞に多くの補足や注釈を設けて取り繕いたいところであった。それほどまでに、今の僕にとってはつい目を背けたくなるような、あまりに眩しい台詞だ。
でもそんな考えも柴村さんの前では、あまりに稚拙で矮小なもののように思えてくる。僕は物語を創造する人たちのことをどこか絶対的な存在だと決めつけてしまっていて、こと人間関係においては、俯瞰して得た情報をどこか真理めいた型に嵌めて、事の大きさや善悪などを的確に判断してしまえるような、そんな存在だと認識している。
だから余計に、僕は柴村さんにすべてを見透かされているような気がして、彼との目線を合わせることができないでいた。
沈黙が、いつまでもこの空間に居座り続けていた。本棚に挟まれた小さな壁掛け時計の秒針が、僕の心臓の働きを急かすように動いている。
柴村さんがまたひとつ、息を吐いた。でもそれは先ほどのものとは違っていて、少しだけ優しさをはらんでいるような気がした。
「でも、あまり聞いてて気分がいい話じゃないよ」
僕は知覚できなかった数舜前の彼の表情を頭のなかで都合のいいように変換することで、胸に抱いていた劣等感のようなものを隅へと押しやった。そうすることでようやく、彼と向き合うことができる。
そして柴村さんは滔々と語り始めた。
「私はね、人として未熟なんだと思う。それはこの世の中に完全無欠な人なんていない、だとかそういうことではなくて、どこか致命的な欠陥があるんだと思う」
柴村さんはどこか自嘲気味にそう言って、残りのコーヒーを一息に喉の奥へと流し込んだ。彼の視線は目の前に置かれた空の湯呑みのなかに注がれていて、何かあるはずのないものを探し出そうとしているようだった。
「さっきも言ったように、私には妻と娘がいたんだ。私が言うのもなんだが、妻はとても魅力的な人でね。私からみて、彼女は誰よりも正しい人だったんだ。正義という物差しを借りると、感情的な正義というよりも、論理的な正義を持つような人だった」
職業柄人を見る目はあるんだ、と言って彼は続ける。
「でもある時、そんな彼女がこう言ったんだ。あなたとは一緒に暮らしていけません、って。理由は仕事や子育てに対する考え方や方向性の違いだった。その時の彼女はとても感情的だったんだ。いつものように優しく、けれど鋭く諭すようなこともなかった。私が愛した人だったからこそ、それはもう取り返しのつかないことなんだと理解した。そして、私たちは離れて暮らすことになった」
ここまでの彼の語り口は意外にも淡々としたものだった。
「しかし人間にはとても恐ろしい機能が備わっていてね。どんなにつらいことがあっても生命活動が脅かされない限り、人ってその環境に慣れてしまうんだよ。家族と別々で暮らし始めた時はあれだけつらかったはずなのに、今ではもう、あの時のつらさなんて思い出すこともないんだ。一日一日、ただ生きていくのに精一杯なだけで」
そこまで語り終えた柴村さんの様子は、その言葉ほど自分を責めているようには見えなかった。それも人間に備わっているという恐ろしい機能のせいだったりするのだろうか。
「一ヶ月前くらいかな。久しぶりに、本当に久しぶりに娘に会ったんだ。それも偶然、街中で」
その言葉とは裏腹な彼の纏う重苦しい雰囲気に、僕は不安を覚えた。
「どちら様ですか、と言われたよ。六年ぶりにあった娘に」
聞くところによると、その娘さんに悪意や嫌味なんてものはなく、本当に柴村さんのことを忘れていたらしい。
「父親だとは言えなかったよ。そんな資格すらないという事実をまざまざと突きつけられた。さすがにこのつらさは当分忘れそうにない」
柴村さんは一息にそこまで言って呼吸を整えたあと、「こんなことは本来聞くべきじゃないし、ずるい聞き方なんだろうけど」と前置きして、僕の目を見た。
「君の親御さんはどうなんだろう。差し支えなければ教えてくれないかな」
どう、というのが何を指しているのかは、すぐに分かった。たしかにその聞き方は少しずるいように思えた。返答を濁したところで、簡単に察しがつくからだ。
「僕は両親と共に、同じ屋根の下で暮らしています」
杞憂でしたね、と僕が言うと、柴村さんは安堵の表情を浮かべた。
「不条理で、それでいて不遇を受け入れた当事者にとっては、慎重を要する話題だからね。できることなら、親と子供は一緒にいたほうがいい」
どうしてそんなことを僕に尋ねたのか疑問に思ったが、すぐに大体の察しはついた。それは僕がここに通い始めた理由と似たようなものだろう。
僕は口を開こうとして、出かけた言葉を飲み込んだ。今僕が何を言ったところで、安っぽい慰めにしか聞こえない気がした。
不意に柴村さんの視線が僕の肩越しに飛んだ。振り返ると、襖の小さな隙間から以前見かけた黒猫が、もぞもぞとこの部屋に入ろうとしているところだった。
「ニャー」
猫は僕の隣で寝転ぶと、顔だけをこちらに向けて目線を合わせてくる。見つめられると目線は外したくなるものだ。猫の体を見て、その毛並みと色のせいか、お腹と背中の区別がつかないなと思ったりした。
「ユウト」
柴村さんがぽつりと呟いた。
その言葉に、一瞬遅れて気がついた。その名前を見たことはあるが、耳にするのは初めてだったからだ。
「それってこの小説の――」
「その猫の名前がね、私が書いた小説の主人公と同じなんだ。もちろん自分で付けたわけじゃない。そんな恥ずかしい真似はさすがにしないさ」
僕の言葉を遮るようにして柴村さんは言った。
自分で書いた小説の主人公の名前を飼い猫に付けることが恥ずかしいことなのかはさておき、そうすると、この猫に名前を付けたのは誰なのだろうという率直な疑問が浮かんだ。元々この家に住んでいたとされる彼の両親が名付けたのだろうか。
でも柴村さんの様子を見ていると、その疑問を素直に口にすることは躊躇われた。
この一連の会話は、彼が主導権を握るべきなのだと、僕は思う。
「娘がね、そう名付けたんだ」
僕の胸中を察したのか、柴村さんはその疑問に答えるように言った。
「娘が小学生になる頃だったかな。捨てられてたんだ、子猫だったその子が。その子を見つけた私たちはどうしようかと悩んだが、結局家で飼うことになった。どうしても飼いたいという娘に押される形でね」
ユウトと名付けられたその猫には優しい眼差しが向けられていた。その瞳の奥には、在りし日の娘さんの優しさが思い描かれているのだろう。
「私としては、あまりこの子を飼うことには前向きになれなかったんだ、黒猫だったからね。黒猫と言えば、ほら、よく言うだろう?」
僕は少しだけ頭を悩ませた。
「不吉……ですか?」
「そう。私にも黒猫には不吉ってイメージが強くてね。でも調べてみると、ヨーロッパ辺りだと黒猫は幸運を招く、なんて言われているらしい」
「へぇ、それは知らなかったです」
「それからは黒猫に対してネガティブな感情は抱かなくなった」
ほら、こっちへおいで。
柴村さんが呼ぶと、黒猫のユウトは立ち上がった。ゆっくりとその歩みを彼のもとへ向ける。
コタツ越しに柴村さんの肩が揺れていた。僕はその下で、気持ちよさそうにしている黒猫のユウトを想像した。
「幸運を招く猫自身は、幸福であったのかな」
僕はその問いに対する答えを持ち合わせていなかった。猫となんて触れ合った機会はほとんどなかったし、なによりもその答えを知る意味が、僕にはない。
幸福かどうかなんてものは主観の話でしかない。幸運を招く猫が幸福なのかは、その猫のほかには知る由もない。
それでももし、その問いに対して納得のいく答えを探し出すことができるのだとしたら。
それは柴村さん自身が見つけるのだろう。