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僕は君に融解される  作者: ユウ
2/3

2 誰がために花は嘯く

 十二月十四日。



「別に休日に呼び出されたことには、それほど気にしていないんですよ」

「うん」

「店長、ホールが手に負えなくて人手が足りないって僕に電話してきましたよね」

「うん……」

「……じゃあ何で店内に一人も客がいないんですか」

「柊くん、ごめんよ~」


 店長は涙目で謝っていた。


 自宅で国語の課題をやっている時に一本の電話がかかってきた。電話に出ると、「柊くん助けて。これは手が、手が回らないよー!」という店長の慌てた声が聞こえてきたので、急いでバイト先の喫茶店に駆けつけたのだが。


「手が回らないどころか、回す手が余りまくってるじゃないですか」


 店に入ると客は居らず、店内には自分の膝の中に顔を埋めた店長と、勤務時間を持て余して座っている数名の従業員だけがいた。

 だからこうして、僕はカウンターの先にいる店長に向かって、自分が呼び出された理由を問いただしているわけだ。


「まあまあ、陽斗君。店長も悪気があったわけじゃないんだよ」


 奥の方で話を聞いていたのか、シックな制服に身を包んだ女性が、僕と店長の間に割って入ってくる。


 その女性は明朗快活という言葉がよく似合う。

 長くてきれいな栗色の髪の毛も。クリっとした大きな瞳も。メイロウという、その言葉の意味に反して、どことなく掴み所のない響きも。

 要するに、僕が最も苦手とする人だ。


「山吹さんはいつも店長を甘やかしすぎなんですよ」


 言葉尻にため息が混ざる。

 いつもどこか抜けている店長を山吹さんが慰めるというのは、もう飽きるほど目にしていた。


「まあ、自覚はあるけどね。でも今回は本当に、ただの店長の早とちりってわけじゃないんだよ」

「どういうことですか?」

「十人くらいの団体のお客さんがやって来たんだけどね。みんな飲み物を一杯ずつ頼んだだけで、すぐに帰っちゃったんだ。ただの待ち合わせだったみたい」


 山吹さんは、困ったもんだよね、といった風に首を傾げた。


「……それって結局店長の早とちりってことですよね?」

「んー、バレた?」


 山吹さんは舌を少しだけ出して、おちゃらけたような表情を見せていた。僕に向けてこのような顔を見せるのは彼女くらいだ。反応に困る。


「でも、最初にどれくらい注文しますか、なんて質問ができない雰囲気、陽斗君ならなんとなく分かるんじゃない?」

「あー、まあ」


 来店早々、そういったことを聞かれると気分を悪くするような人は多い。


「来店されるお客さんのことを何よりも大事にしている店長が、そんなこと聞けるはずもないよね。だから、すぐに陽斗君を呼んじゃったんだよ」


 ですよね店長、と山吹さんは後ろを振り返っていた。


「それでも、毎回こうやって振り回される僕の身にもなってほしいものですね」

「あはは、それは同情する」


 それから山吹さんは店長の方へと向かった。何やら事務所の方での仕事がまだ残っているらしい。

 僕は特にやることもないので、店の掃除をすることにした。仕事という仕事はやっていないけれど、今日の分の時給はきちんと出してもらおうと思う。






 山吹さんとの出会いは半年前のことだ。

 僕は働く上での、この喫茶店の雰囲気を気に入っていた。必要最低限の人員で店を回し、黙々と与えられた仕事をこなす。僕はキッチンを担当していたので、ホールから受けた注文の品を用意するだけの仕事だった。決して楽な仕事ではないけれど、コミュニケーションというものをあまり必要としないこの仕事は性に合っていた。


 正直、この喫茶店での僕は浮いていたと思う。必要最低限しか会話を交わしていなかったし、あの店長ですら、僕に気を使っているような接し方だった。少なくとも、僕に泣いて縋るようなことは、これまでに一度もなかった。

 けれど、あの日から、ここでの日常が変わった。


 ゴールデンウィークが終わった頃だったか。来客を知らせる扉の鈴が鳴り、これから仕事が始まる、と思った時だった。

 不意に店長に呼ばれた。カウンターを出てホールの方へと向かうと、見知らぬ一人の女性が扉の前で立っていた。


「この人は山吹さん。急だけど、今日からここで働いてもらうことになったんだ」

「山吹です。よろしくお願いします」


 店長の言葉を聞いて、絶望に似た何かが心の奥底から湧き上がってきた。それは諦めのようなものだったのかもしれない。絶望と諦めは近しい存在だ。案の定、山吹さんは僕が想像していた通りの人で、こんな僕にでもみんなと同じように会話を求める人だった。

 バイトをやめることも考えた。元々、持て余した時間の有効活用であっただけで、お金はいくらあっても困らない、という不変的な考えに則っていただけに過ぎない。

 でも結局、僕は今でもここで働いている。初めに感じていた居心地の悪さというものも、時間とともに風化していた。





「お疲れさまでした」


 扉を閉める直前に見えた店内の時計は二十一時を指していた。

 結局、あれからはお客さんもそれなりに来て、僕はラストまで働いた。


 喫茶店がある小さな路地を抜けて、大通りへと出る。店の看板に取り付けられた電飾や幾多の窓から漏れ出る明かりが、僕の目を瞬かせる。

 都市部の夜は、昼間とは違った明るさを見せていた。視覚的情報ではあるけれど、ここの夜は、なんだかうるさい。


 街の中に目を向けているのが辛くなって、僕は視線を上げる。

 今日の天気予報は終始晴れであったと記憶している。けれども、空を見上げても星が見えない。周りがここまで明るいと、星も顔を出してはくれないのだろう。

 なぜだろう。静謐な場所で見上げる空よりも、雑多な場所で見上げる空の方が、孤独に感じる。


「陽斗君!」


 振り返ると、山吹さんが息を切らして手を膝につけていた。その様子から、急いで僕のあと追ってきたことが判った。


「陽斗君、仕事が終わったらすぐに帰っちゃうんだもん。タイムカード押すの早すぎ」


 店長に、もうあがっていいよと言われると、僕はすぐに着替えを済ませて帰るようにしていた。これはバイトを始めた頃から変わらない。


「どうしたんですか?」


 彼女の呼吸が整うのを待ってから、声をかける。


「一緒に帰んない?」

「はい?」

「だから、一緒に帰ろうって」

「何か僕に用ですか?」

「別にこれといって用はないんだけど」

「だったらどうして――」

「あーもう、ただ仕事仲間と一緒に帰るだけだよ。そんなことにいちいち理由を求めないでよ」


 山吹さんと並んで歩くというのは、これが初めてだった。

 店の中で話すことはあっても、プライベートで会話を交わしたことなんて、これまでに一度もなかった。バイトの帰り道をプライベートと呼ぶのかは怪しいところだけれど。


 駅までの道のりを並んで歩く。僕相手じゃ、それほど会話も弾まない。たぶん、誰だってそうだ。沈黙に慣れている僕は構わないけれど、彼女はどうなんだろうか。

そんなことを考えながら、足を動かす。


 ふと、何かに気がついたように、山吹さんが口を開いた。


「そういえば、陽斗君は私と話すとき、いつも敬語で話すよね。別に敬語じゃなくてもいいんだよ。……って、前にも言わなかった?」

「いえ、年上ですし。それに、もう慣れているので」

「んー、年上かー」


 山吹さんは僕とそう変わらない年齢に見えるけれど、僕よりも年上だということは分かる。

 シフト表を見ても、彼女は平日の午前中から働いていることが多い。ひと月の勤務日数も僕の倍くらいはあったはずだ。

 彼女は僕よりも多くの仕事を任されている。今ではもう、どちらが先輩で、どちらが後輩かがわからない状態だ。


 隣で人の気配が消える。振り返ると、山吹さんが自動販売機の前で立ち止まっていた。


「陽斗君も何か飲む? 年上だったら、こういう時は奢ってあげるべきだよね」


 初めは僕に向けた言葉だった。でもあとに続く言葉は、自分に言い聞かせているように聞こえた。別に、嫌なら聞かなければいいのにと思う。


「大丈夫です。仕事が終わる前に店長がコーヒーを淹れてくれたんで」

「そっか」


 そして再び歩き出す。


 二人分の足音がパタパタとせわしなく聞こえる。そして時折音が重なって、また徐々にズレていく。僕の方が歩幅は大きいらしい。

 その音に耳を傾けていると、なんだか心地が良かった。自分が、隣に人がいるということで安心感を覚えるような人間だとは思わなくて、少しだけ驚いた。


 向かいから一台の軽自動車がやってくる。

 そのせいで二人の足音がかき消されてしまって、意識が現実へと引き戻される。


「君って他人に興味ないでしょ」


 それはあまりに唐突で、山吹さんの言葉に、僕は一瞬息をつまらせた。


 先ほどの車のヘッドライトが視界から消えた瞬間、突然世界が闇に覆われたような、周囲の温度が数℃下がったかと思うような、そんな錯覚に襲われた。


 しかし、急に何を言い出すんだと驚いたのとは裏腹に、僕の続く言葉は意外にもすんなりと、それでいて確かな質量を持ったものだった。


「そんなことないですよ」


 他人に興味がない。そんな人間がいるのかと問いたくなるような言葉だ。

 でも傍から見ると、そのように見えるのかもしれない。人間関係が希薄なさまは他人に興味がないように見られても仕方がない。


 山吹さんは缶コーヒーに口をつけてから、訝しんだ様子でこちらを見る。


「本当に? この半年間、君を見ていてもそうは見えないよ。こうやって並んで歩いている時でさえも、君の頭の中では何か別の、どこか遠い世界での出来事でも考えているみたいだった」

「なんですか、遠い世界での出来事って」

「例え話だよ。私には君が、現実なんてどうだっていい、みたいに考えてるんじゃないかって、ちょっと心配なんだよ」

「心配なんてしてくれるんですね」

「するよ」


 彼女は先ほどまでとは違った、まっすぐな瞳で僕を見据えながらそう言った。


 その瞳があまりにまっすぐで、力強くて。そのせいで、ちょっとした自虐で放った言葉を僕はすぐに後悔することになった。

 冬の澄み切った夜空に浮かぶ、月のように凛とした輝きを放つ瞳を、僕は直視することが出来なかった。


「なんかすみません。でも本当に、他人に全く興味がないなんてことはないですよ。現実がどうでもいい、なんてこともありません」

「そう。今の君がそう言うのなら、そういうことなんだろうね」


 柔和な笑みを浮かべて、彼女は微笑む。


 他人に興味がなければ普通を演じる必要はない。偽物の表情で象られた仮面を被っているのは、他人の目を気にしているからだ。

 それを他人に興味がない、とはいえないだろう。


 だからこそ僕は、彼女のその言葉を否定する。


「私こそごめんね。急に変なこと言っちゃって」


 いえ、と答えたあとで、僕は少しだけ引っかかったことを聞いた。


「今の君ってのは、どういうことですか?」


 山吹さんは、うーんと唸ってから、なんとなくこちらを窺うような仕草を滲ませながら言った。


「君って半年前から内向的で、いつも他人を見下しているような感じだったでしょ」

「ひどい言われようですね」

「あくまで客観的にそうみえてた、って話だよ」


 彼女の表情が少しだけ柔らかくなる。


「もちろんその人の人格や人間性みたいなものって、他人がそう簡単に測れるものじゃないってことくらいわかってるよ」


 僕に対する労りのようなものだったのか。それは、ただ世の中で決められている、誰もが知っているルールをただ口にしているようでも、優しさによって作られた暗黙の了解のようなものを、そっと教えてくれているようでもあった。


 彼女は続ける。


「でも、身近な人の些細な変化くらいは、感じ取ることができる。そこから、その人の心境の変化を想像して、嬉しくなったり、悲しくなったりする。別にその想像が的外れだったとしてもいいんだよ。歩み寄るきっかけくらいにはなる。君はこの半年間で変わったよ。それは私からすると、好意的な方向にね」


 そして、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。


「ほら、今ではこうして、君と二人で話しながら歩いてる」


 この時の山吹さんの表情は、この半年間、僕の中で培ってきた人物像と照らし合わせてみて彼女らしいな、と思わせる一方で、その口から語られる言葉には彼女らしくない、と思わせるものがあった。


「そうですかね」


 なんて言えばいいのかがわからず、つい抽象的な、世界中のどこにでもあるような、空気みたいな言葉でお茶を濁してしまう。

 やはりこの人は苦手だと、改めて思った。


 彼女はこの半年間で僕が変わったと言った。けれど僕にしてみればそんなにたいそうなことではなくて、ただほんの少し、昔の自分に戻ったというだけだろう。

 ごく少数の人たちと、限定された場所。そんな空間だからこそ、僕は偽りの仮面から、少しだけ本当の顔をのぞかせていたのかもしれない。


 僕は本質的に話したがりなのだろう。まっさらな、純粋な自分としての、話し相手を欲しがっているのだろう。

 そう考えていると、途端に恥ずかしくなる。けれどそんなに悪い気分もしない。今はこの、微妙な距離感での人との関わり合いが、僕にはちょうどいいのかもしれない。


 息を吸うことも億劫になるような冷たくて乾いた風が前から吹きつける。それと同時に、前を歩いていた山吹さんがこちらを振り返った。


「陽斗君はどっち?」


 気がつくと、もう駅の目の前までやって来ていた。どっち、というのは駅のホームのことを指しているのだと、すぐに分かった。


「僕は地下鉄なんで、こっちです」

「そっか。じゃあここでお別れだね」


 目の前には地下へと続く階段がある。山吹さんはここからまだ少し先にある駅の入口をちらりと見てから、視線を手元の腕時計へと移した。何人もの人の往来が、視界の端でチラついている。


 山吹さんが顔を上げる。


 またね、と彼女は言った。

 お疲れ様です、と僕は言った。


 山吹さんは行き交う人の流れに身を任せるようにして、ここから去っていく。


「山吹さん」


 僕の呼びかけに山吹さんは足を止める。


 この状況に少し戸惑う。僕自身、なぜ山吹さんを呼び止めてしまったのかがわからないでいた。

 微細な心境の変化は自覚している。そのせいで彼女を呼び止めてしまったことも分かっている。けれど、それを象るような言葉が見つからない。

 彼女の名前を呼んだ僕の声が、不自然な間を開けてしまっている。


「どうかした?」


 駅前の広場には小さな噴水がある。その噴水の真ん中に立っている大きな電灯が、ちょうど山吹さんと重なっている。そのせいでここから見える彼女の姿は陰影が濃くなっており、表情を読み取ることが出来なかった。首を傾げてこちらを向いていることくらいしかわからない。


 できるだけ理性的な言葉を探そうとする。しかし、そうすることで余計に言うべき言葉からは離れてしまっている気がする。


 ふと、山吹さんの頭上で星が流れるのが見えた。星の軌跡は一瞬だったけれど、その刹那の輝きは、とても力強く感じられた。


「ありがとうございます」


 すっと、滑らかに口が動いていた。


 それはとても自然な言葉に思えた。僕のその言葉が、白い吐息となって空気に溶けていき、この不自然な距離を埋めていくような気がしていた。


 相変わらず、ここからじゃ山吹さんの表情は見えない。できれば優しげな表情でも、あのいたずらっぽい笑みでも浮かべてくれてたらと思うけれど、そのどちらでもないような気がしていた。


「……うん、じゃあね」


 軽く右手を挙げて彼女は駅構内へと姿を消した。いつの間にか握られていたこぶしから力が抜ける。


 僕は基本的に、理性的な言葉よりも感情的な言葉を嫌う。いつだって人を傷つけるのは感情的な言葉だからだ。言い換えれば、理性的な言葉は争いを生まない。感情的な言葉を嫌うのは、事なかれ主義の僕にとっては当たり前のことだった。

 それなのにさっきの言葉、考えるよりも先に口に出してしまっている。

 あれは紛れもなく、僕が嫌う感情的な言葉だった。けれど自分をたしなめるような気も、不思議と湧いてこなかった。






 夕食を食べ終えて風呂に入った後、僕は自室の扉を開けた。階下のリビングからは人の話し声が薄っすらと聞こえてくる。母さんがテレビでも見ているのだろう。部屋の電気をつけて扉を閉めると、それも聞こえなくなっていた。


 机に置いてあったリモコンを操作して暖房をつける。エアコンの駆動音が微かに鳴っている。

 なんとなく部屋の窓に目をやった。外の様子を窺うことはできず、部屋の明るさと外の暗さの関係から、窓ガラスには自分の姿が映っていた。風呂あがりできれいさっぱりとしたはずなのに、外の暗闇に縁取られた自分の姿は、何だか陰鬱で、薄汚れてみえた。


 そこから目を逸らすようにして、身体を傾ける。僕の全体重が重力を伴ってベッドに重くのしかかり、背中の下でスプリングが悲鳴をあげる。


 仰向けになって天井を見つめる。頭の中では、今日の出来事を反芻していた。


 僕はしばしば、善と偽善について考えることがある。善と偽善の線引きは、自分のためであるか否かにあると思っている。

 言うまでもなく、僕は純粋な善なんて持ち合わせていない。せいぜいが偽善者といったところだろう。できれば悪人なんかには成り下がりたくはない。


 一方で、山吹さんは純粋な善の持ち主だと思っていた。純粋な善というものは単純だ。泣いている人を見かけたら、迷わずその人の所へと向かい、話を聞いてあげる。孤独な人を見かけたら、自分が優しい言葉をかけてあげて、その孤独をなくそうとしてくれる。それは彼女の中で決められた絶対に守るべきルールのようなもので、それによる自分の損得勘定のようなものは一切存在しないものだと思っていた。


 けれど、今日の山吹さんの印象は少し違っていた。ただ優しい言葉で寄り添うだけではないように感じていた。唐突な彼女の言葉には、受け手にとっては棘があるようにも感じるセリフであったし、正直僕にとって、あまり深入りしてほしくないところにまで突っ込んできてしまっている。


 先ほど言った通りの彼女ならば、じっくりと時間をかけて、できるだけ優しい言葉を探して、そっと指先で触れるように言葉を発したはずだ。

 今日の彼女はどちらかといえば、偽善に近いものを感じた。


 それともう一つ。僕にとって腑に落ちないことがある。


 ――今日の山吹さんが、僕を感情的にさせたことだ。あまつさえ、あの時の山吹さんを、僕は受け入れてしまっていたことだ。

 僕がこれまでに抱いていた、純粋な善としての彼女なら、僕はあんな風にはならなかったように思う。

 あの時の感情を、言葉にすることができないでいる。

 結局のところ、何も答えが出せないでいた。山吹さんのことも、自分の事にも。


 答えが出せないことに思考を続けているのにも馬鹿らしく思えてきて、今日のところはもう眠ることにした。


 部屋の明かりを消すためにベッドから立ち上がる。そこで明日の学校の準備が終わっていないことに思い至って、机の上に置いてある鞄に手を伸ばす。すると、なかから教材にしてはやけに小さな本が顔を出していた。なにかと思ってその本を取り出すと、それはこの前みつけた古書店で柴村さんにもらった小説だった。

 今夜は眠れそうにはない。そう思っていた僕にとって、この小説はちょうどいい暇つぶしに思えた。十数ページほどでも読んで、眠気を誘ってくれればそれでいいと思っていた。


 部屋の明かりを読書灯だけにして、ベッドにうつぶせになる。


『雪解けの少女』


 表紙をめくると簡単な目次があった。一章くらいを目安に読もうかなと、なんとなく心に決めて、ページをめくる。



 物語が、始まった。





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