1 いつもと違う冬の始まり
よく見る夢がある。昔の記憶だ。
見上げると首が痛くなるほどの高い棚。そこに何かしらの規則性も持って一律に並べられた、たくさんの本。天窓から射し込む陽光。埃一つない、緋色のカーペット。
その部屋の中心で、幼い僕が本を読んでいる。
思い出と呼ぶほど色鮮やかなものではない。感傷に浸るほど寂しいものでもない。
本に寄り添って生きた時間は、僕の中では暖かいものだった。
十二月三日。
朝、目を覚ましてまず最初にすることは、部屋の暖房をつけることだ。そのあとは部屋が温まるまで布団の中で過ごす。
朝は何だか分からない虚無感に苛まれることが多い。その心の中にぽっかりと空いた大きな穴を埋めるように、僕は毎朝、小説を読んでいる。
これは習慣というよりは日課という方がしっくりくる。朝起きて小説の世界に触れないと、今の自分が保てなくなるような気がしてならない。
部屋のエアコンから風を送る音が聞こえてくる。それは外で聞くような風の音とは違っていて、どこか機械的だ。
僕はこの音を、本を読む時のBGMとして結構気に入っている。機械的なところがいい。人工的なところがいい。
小鳥のさえずりなんかだと、生の実感のようなものが割り込んでくる。
死んだように生きている僕にとって、それは憂鬱さを増す要因にしかなりえない。
部屋が温まってきたところで読みかけの本を閉じる。そして着替えを済ませて、一階へと降りる。
まずは母さんに挨拶をしてから用意された朝食をとる。そして父にも「いってきます」と言って、学校へと向かう。
毎日、同じことの繰り返し。
それは誰かに命令されて規則的に動かされているアンドロイドのようでも、タイムリープした少年が未来を変えないように過去と同じ行動を再現しているようでもあった。
誰かに命じられたわけでもなく、悲劇的な運命も、世界の命運も背負ってはいない僕は、一体何のために日々を過ごしているのだろうか。
……ばかばかしいと、ついため息がこぼれる。
自問自答までもが繰り返し行われているのだから、誰がどう見ても滑稽だ。
朝起きて学校へ行って、家に帰って寝るだけの毎日。無機質な時間。何気ない日常。これに何を見出して日々を過ごしたらいいのか、僕には判らない。
交友? 恋愛?
他人が関わることに価値を見出すことなんて、僕には出来そうにもなかった。
そもそも、何気ない日常なんかに価値を見出すこと自体が間違いなのかもしれない。何気ない日常なんかは、本当に何気なくて、無価値であるからこそいいのだろう。
多分、僕はそうじゃない。生きていくために必要なことを淡々とこなしているだけ。それこそ、日課と呼べる具合に。
そんなつまらない日常も、もうすぐ終わりを迎える。進学することも決まり、制服に身を包む時間も残り少ないものとなっていた。
僕自身が何か変わるわけではないけれど、身を置く環境が変わるということに、ほんの少しだけ期待してしまう。
残り数カ月。
何事もなく、平穏無事に。これまでと同じように。ただ淡々と、残りの高校生活をこなすだけだ。
今現在、英語の授業が行われているこの教室では、授業中というわりには雑多な喧騒に包まれていた。
高校三年の十二月。世の受験生たちが目前に迫ったセンター試験に怯えるなか、この教室に余裕が生まれているのは、ここにいる大半の生徒が付属の大学への進学が決まっているからである。
かくいう僕も、その中の一人だ。
「ヒイラギハルト」
「はい」
カタコトで名前が呼ばれる。僕は黒板の前に立っている外国人教諭のもとへと向かい、プリントを受け取った。
『英語 小テスト 柊陽斗 七十点 平均点 七十点』
「おお、ちょうど平均点」
僕は自分の席へと戻ると、もらったばかりであるプリントの評点部分を指でなぞっていた。隣にはクラス内の平均点も書き出されている。
点数は七十点。クラスの平均点も七十点。
テストの点数が良いことに越したことはないのだが、僕の点数が普通であるということに、つい微笑を浮かべてしまう。
「おっ、点数良さげな顔してんじゃん……って、七十点かよ。そうでもねーな」
僕の目の前に座る生徒が自分のプリントをひらひらとさせながら、したり顔を僕へと向けてくる。
「えーっと、林翔太郎、七十二点? あんまり変わらない気がするけど」
「でも勝ちは勝ちですぅー」
「勝負してた覚えもないよ」
勝ち誇ったように段々と態度が大きくなっていく林を適当にあしらっていると、依然としてプリントを配り続けていた先生の声が少しだけ大きくなったことに気がついた。
「ミユキトウカ、ヒャクテンデス! ブラボー!」
「ありがとうございます……」
熱のこもった言葉をかける先生とは対照的に、ミユキトウカと呼ばれた彼女は、どこか冷めたような声音だった。彼女は先生から受け取ったプリントを胸に抱え、俯き加減で自分の席へと戻っていく。
「深雪さん、また満点かー。そういえば深雪さんのすごい話知ってるか? この前の期末試験、全教科満点だったらしいぜ。それでいて守ってあげたくなるような美少女ときたもんだ。幼馴染に欲しいタイプだね。……スゲー可愛いよなぁー」
林は感嘆の声を漏らしながら彼女を眺めていた。いつの間にか〝すごい〟の意味が成り代わっている気がするけれど。
僕もそれにつられて、彼女の姿をなんとなく目で追う。
背丈は周りの女子に比べると少し小さいだろうか。他を寄せ付けないような暗さを持った真っ黒な髪が、丸みを帯びた輪郭に沿って流れたところで行き場を失っている。揺れる前髪から覗く大きな瞳からは、どこか諦観めいたものが窺えた。
前からこうだっただろうか。僕は昔から彼女のことを知っているはずなのだが、あまり彼女の存在を過去に意識したことはない。
深雪さんの姿に見惚れていた林がふと何かに気がついた様子で、こちらに向き直る。
「そういえば陽斗。お前、深雪さんとずっと同じ学校だったんだろ。どんな感じだった?」
「どんな感じって……。別に……」
「それじゃ全然わかんねーよ」
僕の答えに対して、林は不満げな様子だった。
つまり僕にも彼女の事なんて、全然わからないってことなんだよ。
深雪さんを見ていた目をすぼめる。彼女の輪郭が、少しだけぼやけた。
「ちょっと近寄りがたい。彼女に対する印象なんて、みんなこんな感じじゃないのかい?」
僕は彼女に対する率直な感想を林に言った。
「すべての物事に対して見切りをつけてるというか、諦めてしまっているというか……虚無感みたいな。そんな感じがひしひしと伝わってくる気がする」
口にしておいてなんだが、女の子の印象を語る上で、それはないだろうと自分でも思った。
「そう? 俺はまったくそんなことは思わないけど。たしかに口数は少ないと思うよ。でも実際は恥ずかしがり屋で口から言葉が出てこないってだけで、頭の中ではものすごい量のテキスト群が流れてるかもしれないぜ?」
僕の言葉に対して林は、はてと首を傾げた後、思ってもみない角度から深雪さんの本質を推察してきた。
「僕には君の想像していることがわからないよ」
林が深雪さんのことをどういう人物だと思っているのかはさておき、そのような感想を持つのは林らしいな、と僕は思った。
林は少し独特な感性というか評価基準のようなものを持ち合わせている。その人に対する他人の評価なんて関係ない。自分が見て、話して、感じたことのみを個人に対する評価として換算する。
一見すると当たり前のことのように感じるが、他人からの評価を一考するのとしないのとでは大きな違いだ。
けどそこが、林のいい所だと僕は思う。
他人からの評価ばかりを気にしている僕とは正反対。決して普通ではないのに、普通を演じている。
そんな僕は、林の目にはどのように映っているのだろうか。
「ほら、先生がこっち見てる。授業が再開されるみたいだよ」
先生が訝しんだ様子でこちらを見ていることに気づいた僕が、林に前を向くように促すと、やべっ、と慌てた様子で林は態勢を元に戻した。
僕が深雪さんに持っている印象というのは、あながち的外れではないと思う。事実、深雪さんが誰かと親しげに話しているところを僕は見たことがないし、特定の誰かと仲が良いという話も聞いたことがない。
それに深雪さんについては、ちょっとした有名な話がある。
高校入学当初、新たな生活の始まりに舞い上がった一部の男子学生が、可愛い女子学生にいち早く色を付けようと、躍起になっていた時期があった。
そこでまず目をつけられたのが、林曰く、幼馴染に欲しい系美少女である深雪さんだったらしい。
以下、噂に聞いた会話文。
「ねえ。今、クラスの子全員にSNSのアカウントを聞いて回ってるんだけどさ。よかったら深雪さんのも教えてくれない?」
「すみません。私はそういったものはやっていませんので」
「あ、そうなんだ。今どき珍しいね」
「…………」
「えっと……じゃあメールアドレスは? それで連絡も取り合えるし!」
「……あなたと連絡を取り合う必要があるのですか?」
「いや、ないことも……ないんじゃないかな」
「私は必要ありませんが」
「えっと、はい……」
「この後みんなでご飯に行くんだけど、深雪さんも一緒にどうかな?」
「私は遠慮しておきます」
「そう言わずにさ。高校生になってから周りに知らない人が増えたから、せめてクラスの人たちとの親交を深めようと思って。そこでみんなの顔と名前だけでも覚えられたらいいなーって」
「おそらく私は皆さんの顔を覚えられませんし、覚えるつもりもありません。ですので結構です」
「…………そっか」
トラウマものだ。
みんなも居るから、みんなも誘っているから、という体裁を保ってもなお、ああいった言い方をされてしまうのだ。言われた男子には共感はせずとも、同情は寄せてしまう。
ともあれ、こういった噂が学校中に広まっている。
深雪冬華は冷たい人間だ。
深雪冬華は人との関わりを持とうとしない。
深雪冬華は人の心を持たない。
言われ過ぎな部分もあるだろうが、それを誰かが訂正するわけでもない。噂は人々の興味関心と少しの悪意で肥大化する。
そんな噂が尾を引いて、深雪冬華の周りには、傍目から見ても人が寄り付かないようになっていた。
なぜ自分から人を突き放すような言い方をするのか。――なぜ、周りの空気に自分を合わせて、普通を演じようとしないのか。僕には不思議でたまらない。
僕はちょっと特殊な人種、周りから奇異の目を向けられるような人を苦手としていた。まるで今の自分が否定されているようで。……まるで昔の自分を見させられているようで。
だから僕は、そのような人たちに近づこうとはしない。関わったことで厄介事に巻き込まれるのも面倒だ。
変に目立つ人、目立っているもの。そんなものは遠巻きに眺めるくらいがちょうどいい。
僕は一般生徒Dくらいでありたいのだ。
だからそんな彼女と僕が関わることなど、この先もあるはずがないと思っていた。
冬晴れの紺青の空は、澄んだ空気も相まってとても美しく見える。
しかしその美しさが逆に鬱陶しく感じてしまうほど、今の気分は沈んでいた。
昼食後に行われる五限目の授業は最悪なことに、僕が最も苦手とする体育であった。しかも授業内容が持久走という、運動好きの生徒でさえ嫌な顔を見せるものである。
「ほら、もうちょっとだ。がんばれー」
「もう少しで終わるのは……君だけだろ。僕は周回遅れ……っんだから」
僕と並走している林が飄々とした顔で、バカにしているとも取れる激励を飛ばしてくれていた。
運動神経が元々ないことに加えて慢性的な運動不足。僕の足は、曲がることのない真っ直ぐな棒にでもなっているのか、と思うほどに操縦がしづらく、まるで竹馬にでも乗っているような感覚でさえあった。
頬を突き刺す空気が冷たい。取り込む空気に酸素は入っているのかと疑いたくなるほどに息が苦しい。日替わり定食Aセットという名のついた物を取り入れたばかりの僕の胃が悲鳴をあげている。
僕の中の不快指数は上がっていく一方だ。
「校庭のトラックだから順位が可視化されない……ってのが唯一の救いだね。景色が変わり映えしないのはざんね……っんだけど」
「たしかに、女の子にこんな恰好悪い姿を見られたくないもんな」
恰好の悪い姿で悪かったな、とか、何事も一生懸命な姿は見惚れるものだよ、といった言葉が頭に浮かんだが、口に出す気にはなれなかった。
代わりに横目に見えた光景を、なんだか走り方がぎこちない林に向けて伝えることにした。
「その女の子たちも、早々に校舎へと戻って行ってるけどね」
「なにっ⁉ ……なーんだ。恰好をつけた走りもやめやめ! この走り方、無駄に体力使うっつーの」
そう言った林は背筋を丸めて両腕をだらーんと垂れ下げると、いかにもダルそうな走り方に変わった。アレは恰好良く見せた走り方だったのか。僕には地球の文明に触れ初めた宇宙人のように見えていたよ。宇宙人なんて見たこともないけれど。
そんなこんなで林とともにトラックを二周ほど回った後、既定の周回数を終えた林は、一足先に校舎へと向けて離脱した。
男子と女子では走る距離が違う。女子の走る距離に比べて、男子はその二倍の距離を走らなければならない。男女間の身体能力の差を考慮すれば当然のことだが、それでも二倍の距離はやり過ぎではないかと思う。
この学校の持久走は二人一組を作り、走る人と記録する人に分かれて行われるのだが、その分、二回に分けて行われるため、必然と男子の方が時間がかかるのだ。
そのあと、持久走という毎回変わり映えのしないものに、自分で評価と感想をプリントに書かなければならないため、男子は走り終わり次第、各々で教室に戻るという風になっていた。
僕が走り終わるころには、ほとんどの生徒は教室へと戻っていた。残るは僕と同じように運動が苦手な数人の生徒と先生、あとは相方に運動音痴という貧乏クジを引いた記録係くらいだ。
「おい柊! ちょっといいか」
記録をしてくれている相方に申し訳程度の罪悪感を胸に抱きつつ、足早に校舎へと進む道すがら、突然体育教師に呼び止められて少しだけ背筋が伸びた。
体育教師特有の威圧的な声にビクつきながら先生のもとへと向かう。何か先生の気に障ることでもやっただろうか。身に覚えがない。
「な、なんでしょうか」
多少の不安を募らせつつ、呼ばれた理由を尋ねる。
「今日は体育委員のやつが欠席していたのをすっかりと忘れていてな。すまんが片付けを一つ頼まれてはくれんか」
「あーはい、わかりました」
なんだ、そんなことか。
ただの頼み事だと分かり安堵するも、そこそこ面倒なことを頼まれたことに少し経って気づいた。ただでさえ教室に戻る時間が遅くなっているというのに、道具を体育館倉庫に戻す手間が増えてしまっては、プリントに感想や評価を記入する時間が無くなってしまう。
いや、それはまだいい。先に授業を終えた女子たちが更衣室から帰ってきて、衆目を浴びながら教室内で着替える、なんてことになったら……。
「ちょっと急ごう」
僕は未だ棒のようになってる足に鞭を打ちながら、足早と体育館倉庫へと向かった。
「これでよしっと」
最後にストップウォッチを所定の場所へと戻して一息つく。
体育館倉庫のさらに奥、体育準備室なる部屋はあまり掃除がされていないのか、少々埃っぽかった。
引き戸を後ろ手で閉めつつ体育館倉庫を後にする。
僕が通う某市立高校は北校舎と南校舎に分かれており、体育館は南校舎の西側に位置していた。
僕の教室は北校舎二階の東奥。教室に向かうには、体育館から南校舎に続く渡り廊下を渡り、南校舎の中央、玄関前の中央階段を上がって直進。北校舎と南校舎を繋ぐ、二階の連絡通路を通って突き当りを右に曲がることで辿り着く。
体育館入口で運動靴を履いてから渡り廊下を渡り、南校舎の西口で靴を脱ぐ。
運動場からは直接体育館倉庫に来たため、玄関口にある下駄箱で上靴に履き替えなければならない。直接下駄箱に向かうより、南校舎の中を通った方が近道なのだ。
一足の靴を右手で持ち、緊張の面持ちで南校舎西口の前に立った。
僕が南校舎西側の廊下を通るのに、わざわざ気を引き締めているのには理由がある。
――この先に女子更衣室があるのだ。
出来るだけ面倒事を起こしたくない僕にとってはあまり通りたくない場所だ。ただでさえ最近は不審者がこの学校の敷地内に侵入しているという目撃情報が多数報告されており、湿り気を帯びた物騒な空気が流れているのだから。
そんななか、先生に片付けを頼まれたという正当な理由があるとはいえ、それを知らない女子生徒たちに、この廊下を通っているのを見られたくはなかった。
廊下を覗き込む。ここの廊下はやけに風通しが良い。手をかけた西口の扉がいやに冷たく感じた。
女子生徒の姿は見えなかった。それどころか、少しだけ隙間を開けた更衣室の扉からも、廊下を過ぎたところにある中央階段の方からも、廊下を反響するような女子特有の甲高い声というのは聞こえてこない。とても静かだった。
もう教室へと戻っているらしい。外を迂回して行くことも考えていたが、その必要はないようだ。
しかし、そうなると教室で着替えるのに困る。
「トイレで着替えることになるのか」
次の始業時間に間に合うかが心配だ。少し急いだ方が良いのかもしれない。
僕は入ってきた扉を閉め、出来るだけ急いで廊下を駆ける。まだ足が重い。一歩一歩、前へと踏み出していく足がおぼつかない。
「――っ!」
足がもつれてしまった。とっさに右手を壁にあずけて体を支える。
危なかった。思った以上に足の方に限界が来ているらしい。我ながら情けない体だ。
体を支えていた右手の方を見る。手をついた場所は、二つある更衣室の手前側の扉だった。
こっちはもっと危ない。女子が居なくなった後でよかったと胸をなでおろす。
直後、数歩進んだ先。ガタッっという音が右の方から聞こえてきた。奥側に位置する女子更衣室の扉が開いた音だ。
右腕の袖口が何かに掴まれ、引っ張られる。それほど強い力でもなかったが、持久走での疲れがここにきて祟った。
僕は引っ張られる力に屈するように、そのまま倒れこんでしまった。目の前には誰かがいる。
どうやら僕にも、下敷きになりそうな女の子を庇うくらいの運動神経はあったらしい。引っ張られた右腕で倒れかけた少女を支え、体を入れ替えるように反転して、僕は背中から倒れる。
「いって…………ん?」
何やら熱を持った柔らかいものが僕の胸に押し付けられていた。
倒れこむ瞬間に少しだけ見えた白くて細い腕。耳元で聞こえる息遣い。左手は彼女の柔らかな手のひらを握っていた。背中に回した右手に吸い付いた肌は、きめ細やかさが感触からでもわかる。
そして、僕が今いるこの場所……女子更衣室だ。
恐る恐ると目を開ける。まず目に付いたのは、艶めかしい吐息が漏れ出る薄い唇だった。そして視線を上げる。
目が合った。
より一層、心臓が早鐘を打つ。
「えっ……ちょっ……」
僕は急いで少女の身体を自分から引き離した。視点が遠くなるにつれて、彼女の全体像が視界に収まる。
少女は下着姿で、僕の目の前に座っていた。
先ほどまで僕の胸に押し付けられていた大きな実りは、知性を感じさせる深い紺色を基調とした、シンプルなデザインの布地に包まれている。
制服姿の彼女しか知らなかった僕にとって、この光景は扇情的というよりは衝撃的だった。
彼女の目を見る。彼女が少し俯いているおかげで目線は合っていない。
そう、この目。何もかもを諦めているような、諦観を窺わさせるような暗い瞳。
これから先、彼女なんかと関わり合うことなんてあるはずがないと思っていたのに。
深雪冬華が、そこに居た。
周りを見渡す。鉄製のロッカーに囲まれた部屋の真ん中で、僕と深雪冬華の二人だけが、所在なさげにちょこんと佇んでいる。
あれ、僕って自らの意志で女子更衣室に乗り込んだわけじゃないよな。連れ込まれたんだよな。だとしたら誰に? 目の前で座っている彼女に?
深雪冬華が下着姿で僕を女子更衣室に連れ込んだ、という事実が未だ飲み込めない。そもそも、僕を連れ込んだ理由がわからない。
所詮、男子高校生の頭では、女性が下着姿で男を誘惑、という安っぽい考えを浮かべるのが関の山だった。
そんなことはあり得ない。あの深雪冬華だ。
動揺が加速する。目まぐるしく回転する思考の中から最適解なんてわかるはずがないのに、考えることがやめられない。
僕はどうすればいいのか。
とりあえず謝ることにした。
「す、すみませんでした!」
これは押し倒してしまったことに対する謝罪になるのだろうか。いや、細かいことなどどうでもいい。
この場から早く逃げ出したかった。僕は雑念を押しのけ、この場を後にしようとする。
すると、僕の言葉を聞いて、深雪冬華は思いがけないことを口にした。
「男性……だったのですか」
動揺が声音からでもわかる。心なしか頬も紅潮しているように思えた。
……今更?
「こちらこそすみません。先ほど隣の扉から音がしたので、着替えを終えた女子生徒が廊下を通っているのだと勘違いしてしまいました」
彼女は身じろぎしながら、そう答えた。
ただの勘違い。事実は意外にも呆気なかった。
考えてみれば単純だ。僕がここを通ったのはただの偶然。この時間に男子がここを通ることなど、考えに及ぶはずもない。
だとしても意外だな。完璧超人だと思っていた彼女が、女子と男子を間違えるなんて。深雪さん、意外と天然だったりするのかな。こういうのをギャップ萌えとでも言うのだろうか。
いやいやちがう、そうではない。
僕はそんなくだらない思考にかぶりを振りつつ立ち上がる。間違いなら話は早い。僕はここから即刻退場するべきだ。
「じゃあ、僕はこれで」
「ちょっと待ってください」
扉に手をかけたところで呼び止められた。まだ何かあるのか。
「制服を……持ってきてもらえませんか」
「え?」
ちょっと待ってくれ、本当に天然だったのかよ。教室に制服を忘れてきてしまったのか?
と、ここでそんなことはあり得ないということに気がついた。
ここは更衣室だ。ここで制服を脱いで、ここで体操服に着替えたはずだ。
それなのに彼女の制服はここにはないらしい。
「その制服はどこにあるの?」
「あそこに」
彼女の指さす先ではカーテンが揺らめいている。僕はそのカーテンをめくり、一つだけ開いている窓から外を見た。
ここから十メートルほど先、グラウンドの脇にある木の植え込みの所に、彼女の制服が乱雑に横たわっていた。
風に飛ばされでもしたか? そんなことはあり得そうにもない。普通、脱いだ制服はロッカーに入れるはずだ。
可能性は低いが、犬か猫にでもやられたのか。それとも……。
疑問に思ったことを口にしようとしてやめた。
「わかった、今すぐ取ってくるよ。そこで待ってて」
着ていたジャージを彼女に渡す。この部屋は暖房が効いていて暖かいとはいえ、下着姿のまま待たせておくのも何だか気が引けた。
「……ありがとうございます」
それにしても彼女は、あまり自分の体を隠そうとはしない。恥じらいのような仕草を見せたのも、僕が男だと分かった時だけだった。
おかげで、こちらは露骨に恥ずかしがることができない。さっきから目線は泳ぎまくりで、焦点を合わせないようにするのに必死だ。
そして部屋を出た。出る瞬間を誰かに見られるのではないか、という心配はあったのだが、どうやらそれも杞憂だったらしい。
廊下は相変わらずの静寂を貫いていた。おかげで自分の心臓が激しく鼓動しているのが、僕の意識の中でより一層際立つ。
それほど、先ほどの光景は現実味がないものだった。
深雪冬華の制服を外から取ってきた僕は更衣室をノックした後、制服を持った手だけを部屋の中に入れた。やがて制服の重さが手から消え、代わりに慣れ親しんだ布地の感触が手に伝わってきた。
僅かに開いた扉を閉めて受け取ったジャージを羽織ると、彼女に声をかけることもなくその場を立ち去った。
教室へと戻る道すがら、喉の奥へと押しやったものを思い出す。
これまでも、こういったことはあったのか、という疑問だ。
むしゃくしゃした誰かのストレスの掃き溜めが、今回たまたま深雪冬華の制服だったのか。それとも、明確な悪意を持って、深雪冬華にぶつけられたものなのか。
後者だとしたら相当悪質だ。常習化したイジメが、その内容の卑劣さを増した結果、という域に達している。
あの時、周辺には僕たち以外に人気はなかった。
僕が偶然通りかからなければ、彼女はどうなっていたのか。真面目な彼女は、次の授業に間に合わせようと、下着姿のまま外に制服を取りに行ったかもしれない。
そんな姿を想像して、勝手に胸が締め付けられる。
「そんなこと、知らなくていい」
僕は芽生えかけた安っぽい正義感のようなものを振り払うように、教室へと向かう一歩に力を込めた。
――彼女が着ていたはずの体操服の行方も、知らないままでいい。
過去の過ちを後悔している。自分の保身のため、人に向けられた悪意というものに目を瞑ってしまったことを。
あの時の、彼女の悲しげな顔が、今でも頭の中でチラつくことがある。
その度に、僕が彼女と関わってしまったことを悔やみ続けている。
彼女を守り続ける力なんて、僕にはなかったのだから。
それからだろうか、僕が人との関わり合いを消極的にこなすようになったのは。
他人とは一定の距離を保ち、必要以上に踏み込まない。
別に閉鎖的なわけじゃない。あちらから歩み寄ってくる分には受け入れる態勢を築くし、それなりの親交を深めることもやぶさかではない。
人は一人では生きていけないことは僕も知っている。僕だってただの人間だ。周りに友人がいることで救われたこともある。
ただ僕にとっては、それ以上でもそれ以下でもない。
見て見ぬふり。意志が内在しない、ただの同調。無条件に差し出す共感。
これらを多用して築き上げた交友関係は、虚構と言えるかもしれない。
でもそれで、五年は上手くやって来れた。少なくとも、あの時のような後悔はこれまでにはない。
だから確信に変わりつつある。
安寧なんてものは、自分が認識できる範囲で願えばいい。それ以上望めば、破滅も招きうる。
おそらくそれが、最善で最良の結果になるであろうことを。
過去の後悔が大きくなることを除けば……。
一旦教室へと戻った後、制服を抱えてトイレへと向かった。トイレでの着替えというのは、脱いだ衣服の置き場所に困って、それなりの時間を要した。
再度教室へ戻った時には深雪冬華の姿もあった。自分の席に座って本を読んでいる。いつもと変わらない、よく見る光景だった。
普通あんなことがあれば、自分に向けられた悪意の矛先に怯えるように周りを気にしたり、犯人は誰なのかと探す素振りでも見せそうなものだが。
そして特段お礼を言いに来る様子もない。やっぱり冷たい人間なんだろうかと思った。
頬杖をつきながら教室内の様子を眺める。
それから、あることに気づいた。教室の前方に座っている女子三人が、面白くない、といった表情で深雪冬華を見ていたのだ。三人とも眉間にしわを寄せ、コソコソと何か話をしている。
おそらく、この教室の中で僕だけが、この構図に対しての仮説を立てることができるのだろう。
前方に座っている女子三人は、深雪冬華をいじめている。
今回は制服を外に捨てるという嫌がらせを行ったが、深雪冬華は平素と変わらぬ顔で教室に戻ってきた。いじめている側からすると面白くないだろう。
そしたら次はどうやってあの顔を歪ませてやろうか、と考えているのが、現在彼女たちが見せているニヤついた顔である。
深雪冬華はいつもと変わらない。
しかし先ほどの嫌がらせの内容を知る俺からすると、それは異常だ。表情にさえ、露骨な翳りというものは見えない。
いつものことだから慣れている、ということなのだろうか。
「…………」
想像の行きつく先に辟易する。
結局はただの憶測、ただの妄想、ただの想像。
僕一人が勝手に考えたり悩んだりしたところで、問題が解決するはずもない。そもそも、その問題すら存在していないのかもしれない。
それにしても。
体育の時間に女子更衣室で起きた嫌がらせ。この時点で同じクラスの女子の仕業だというのはほぼ確定だ。
にもかかわらず、あの女子三人の態度。深雪冬華が事を荒立てないことをいいことに、その反応も露骨過ぎだ。「何でしれっと戻って来てんのよ」、なんて声も聞こえてくる始末。
「わかりやすいな」
「何がわかりやすいんだ?」
前に座っていた林が、こちらを振り返って聞いてきた。声に出してしまっていたか。
「いや、知らない方がいいよ」
それでも、僕は知らないを突き通す。
一度手を指し伸ばせば責任が生じる。伸ばした手を引いた途端、最後まで面倒をみろだの、ひどい奴だのと言われるのだ。
周りで傍観している奴も同じだというのに。
なんだよ、教えろよー、とだる絡みしてくる林を適当にあしらいつつ、思考を切り替える。
林ならどうするのだろうか。林が僕の立場であったとして、深雪冬華に手を差し伸べるのだろうか。
たぶん、差し伸べると思う。林はこう見えて正義感の強い奴だ。
でもそれが、その行為は百%の正義感で構成されているのかは怪しい。
手を差し伸べる相手が深雪冬華ということで、これをきっかけに仲良くなろう、なんて打算も含まれているかもしれない。
そこまでは僕には分からなかった。
林は僕の友人の中でも、一番親交が深いといえる。そんな間柄であるのに、林が打算で動くような奴なのかがわからない。
所詮、僕の人間関係なんてこんなものだ。
仕方がないと割り切って、再び思考をやめる。
もういいよ、と林が言った。
前へと向き直る林との距離が、少しだけ遠くなった。
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陽気になるほどでもない。見る者を憂鬱とさせるほどでもない。そんな曖昧で、不明瞭なライトグレーの空が頭上に広がっている。
先ほどまではあれだけ鬱陶しかった太陽も、その光の主張を弱めていた。
僕は放課後、陸上部の掛け声を耳にしながら、校門を出た。
今日は友人との約束もなければ、バイトもない。それに僕にはこれといった趣味も持ち合わせていないため、あと今日やることはといえば、家に帰ってご飯を食べて、お風呂に入って寝るだけだ。時間にはたっぷりと余裕がある。
だからというわけでもないが、帰り道は、ただなんとなく遠回りする道を選んだ。
僕が通う某市立高校は高台に位置しており、校門から出た先の交差点までの道のりは、急勾配の坂で繋がれている。生徒の間では、登校するときのそのつらさから『心臓破りの坂』なんてベタな名前で呼ばれている坂だ。しかし近隣の住人からは、某市立高生が猛スピードで自転車を漕いで下ってくるので、『心臓縮める坂』なんて呼ばれているらしい。
そんな坂を歩いて下り、普段は交差点を真っ直ぐと進むところを、なんとなく左に曲がった。
細い路地に立ち並ぶ古い家屋。もう何年も開けられていないであろうシャッター。ツタが絡みついている、色褪せた電柱。
一つ道を逸れただけで、陰鬱とした路地が姿を現した。
「前からこんなだったかな」
高校生活の中で何度かはここを通ったことがある。この道についてさしたる印象は持っていなかっただけに、この様子に少し驚いた。
三年という年月は、一つの道を荒廃させるには短すぎる時間だ。おそらくは三年前も、この路地の様子は今とさほど変わらないだろう。
ではなぜ、僕は今更ながらにこの路地を歩いて物思いにふけるのだろうか。
そんなことを考えながら、僕はこの路地を歩いていた。
ふと、何だか懐かしい匂いが鼻をかすめる。この匂いは何なのだろうと記憶を探りながら辺りを見回してみると、一つの建物が目に入った。
「古書店……」
立てかけてある看板のかすれた文字をどうにか読み上げる。
そうか、この懐かしい匂いは本が酸化した匂いだったのか。
父が無類の本好きだった。一般的なサラリーマンという職に就いておきながら、書斎なる部屋を持つほどに。
父親が持つ本は主に小説が多かった。ビジネス本や自己啓発本といったものは見た記憶がない。
昔はよく書斎に入り浸っていたっけ。父親と二人、あぐらをかいて本を読んでいるなかで、沈黙すら心地が良かったのを今でも覚えている。
そんな環境で育ったためか、僕もそれなりに本は読んできていた。立ち並ぶ多くの本を見かけて心が躍ってしまうのも仕方がないといえる。
「開いてないのかな」
扉は閉まっていて人の気配がない。居住スペースであろう二階の部屋にも明かりは灯っていなかった。
もしかすると、もう店なんてやっていないのかもしれない。考えてみれば、物を売るにはこの店の立地条件は悪すぎる。こんな人気のないところで店をやっていくのにも苦労しそうだ。
そう思って踵を返そうとしたときだった。
「まさか、君がこの店を訪れるなんてね」
五十……いや四十代くらいだろうか。長い間手入れされていなさそうな無精髭が、その風貌を老けさせて見せている。
よく見ると、意外と目鼻立ちは整っていて、若い頃はそれなりにかっこよかったのではないかと思わせる相貌だった。きちんと髪や髭などを整えていれば、一部の界隈からは〝オジ様〟なんて呼ばれそうである。
そんなおじさんから、突然声をかけられた。
「どこかでお会いしたことが……?」
そう聞くと、おじさんは少しだけ目を見開いた後、ああ、そういう意味じゃないよ、と答えた。その様子は少し動揺しているようにも見えたのだが、気のせいだろうか。
「君みたいな高校生が訪れるような場所でもないだろう。本が好きなのかい?」
「嫌いではないですね」
「まあ入りなよ」
このおじさんは、どうやらここの住人らしい。手招きされるとどうも断りづらく、でも本に興味があるのも事実ではあった。
なかに入ると、本の酸化した匂いがより濃くなる。しかし意外と店内は埃っぽくはなく、それなりに掃除が行き届いていることが判った。
自分の身長より高い本棚が向かい合って道を作っており、その奥にあるカウンターのような場所へと通された。
「さ、ここに座って」
二人掛けのソファーを勧められる。
「ちょっと待ってて」
そう言って、おじさんは来た道を戻って本棚を物色しはじめた。ここまで来たら座るほかない。
それにしても、こうして立ち居振る舞いを指示されると少し戸惑ってしまう。僕は本に興味があるだけで、別にこの店自体にはさしたる興味はない。
気になった服を目当てに店に入ったものの、店員のお節介から全身コーディネートが始まった、みたいな気分だった。
ため息交じりに店の中を見回していると、両手に何冊かの本を携えたおじさんが、こちらへとやって来る。
「この本なんか君におすすめだ」
「急に本を勧められても……」
正直面倒だった。勧められた本を手に取って、この人の前で読まなくてはならないのか。
そもそも出会ったばかりの人にものを勧めるというのはいかがなものか。お互いの趣味趣向など分からないではないか。それではただの、自分の好き嫌いの押し付けだ。
などと思っていると、勧められて手に取った本には見覚えがあった。
作品名『雪解けの少女』。著者『柴村 聡介』。
僕はその本を手に取って、表紙をまじまじと見つめる。
そうだ。昔、父の書斎でこの本を読んだことがある。
内容はどんなものだったか。どこにでもいる普通の少年が、不憫な少女を救うような話だったか。あまり覚えてはいない。正直、面白かったのかどうかも分からない。いや、面白かったという記憶がない以上、それは面白くはなかったのだろう。
「この本、昔に読んだことがあります。あま――」
あまり面白くありませんでした、と答えようとした時だった。
「前に読んだことがあるって本当かい⁉ 実はこれ、私が書いた作品なんだ」
そう言ったおじさん……柴村聡介さんは嬉々とした表情で、ガラス玉のようなキラキラとした目をこちらに向けていた。
そうなんですか、と僕は答えた。
「あまり内容は覚えていませんけどね。昔、父の書斎で見かけたことがあります」
書いた本人を目の前にしてしまっては、本来出てくるはずだった言葉も呑み込まざるを得ない。
でも一つだけ納得したことがあった。人に自分の本を勧めたくなる気持ちはなんとなくわかる。単なる好き嫌いの押し付けではなかったらしい。
それにしても、今目の前にいる作家さんと、こうして会話をしているというのは不思議な気持ちだった。しかも読んだことのある小説の作者だ。
「今も柴村さんは小説を書いているんですか?」
手に持った本の背表紙を指でなぞりながら、僕は聞いた。
「今は…………スランプでね。書けていないんだ」
物憂げな表情で、柴村さんは言った。
そうですか、と答えて、僕は続く言葉を探した。なんとなく、これ以上踏み込むのを躊躇わせる何かを感じ取ってしまったからだ。
数秒、沈黙が流れる。
先に口を開いたのは柴村さんだった。
「せっかく店に来てくれたんだ。お互いのことではなく、本についてでも語り合おうか」
それから柴村さんとは本について語り合った。お互いに好きな本のことを話したり、最近の流行について話し合ったりもした。
たくさんの本に囲まれた部屋の中で、窓から漏れる曇りがかった空の弱々しい光が、柴村さんの輪郭をぼやけさせて見せていた。
その光景に、僕はなんだか懐かしさのようなものを感じていた。
それほど長い間話をしていた記憶はないけれど、気付くと既に日は落ちていて、夜の帳が下り始めていた。
「すみません。僕、そろそろ帰ります」
「もうそんな時間か。悪いね、こんなに遅くまでおじさんの話に付き合わせてしまって。退屈じゃなかったかな」
「いえ、柴村さんのお話も面白かったですし、話し方も上手くて、退屈なんて少しも感じませんでしたよ」
「それならよかった」
柴村さんは頭を掻きながら、安堵のような表情を浮かべていた。
年上の人だからでも、作家という職業を立てたわけでもない。純粋に、そう思ったのだ。
最後は柴村さんに、「よかったらこの本をもう一度読んでみてくれないか。君の感想が聞きたいんだ」と『雪解けの少女』を手渡された。
そして古書店を後にした。
外に出ると、反射的に体が縮こまった。この季節の夜の寒さは体に堪える。
早く寒さを紛らわせたかった。僕は光を求めるようにして、数十メートル毎に設置された街灯の下を歩く。
夜空を見上げる。真っ暗だった。現在の空模様はあまり良くないのか、月でさえ見つけることができない。
それでも、暗闇の中から光を探し出そうと、空を眺め続ける。
いつの間にか、この辺りの廃れ具合というものも気にならなくなっていた。
先ほどの出来事を反芻する。
僕にとって、作家というものは尊敬の対象だ。小説について熱く語る柴村さんの姿は、まぎれもなく作家だった。
別に公的な証明があったわけでもない。本当に作家なんだ、と力説されたわけでもない。
ただ、柴村さんが父の姿と重なった。そんな気がした。