追憶と再生の青
――アタシは、潮風の通る工房で生まれた。
「綺麗だね」
アタシを手に取って、光に翳して眺めたのは、よく日に焼けた、少し赤みがかった髪の、女の人。
「気に入った、これにする」
「まいどあり」
薄紅の唇の、綺麗な人。この人がアタシの主人だと思いながら、何重にも丁寧にくるまれて、アタシは眠りについた。
だけど。目の覚めたアタシを持っていたのは、肌の白い男だった。
何だ、ここはどこだ。海の匂いが一つもしない。
男は太陽の温かさとは真逆の無機質な白い光にアタシを透かし、しばらく眺めた後、どっこいしょと立ち上がって。すぐに酒瓶を持ってきた。
「――ん」
そうして男はアタシに酒を注ぎ。アタシは初めて、人にくちづけをされた。
アタシはてっきり、あのお嬢さんが自分を使ってくれるものだと思ってたんだけど。
何だか、ひょろっとして、気弱そうな男だなあ、と思ったけれど。それでもまあ、旨そうに酒を飲み干す。
飲みっぷりはいいから、まあ、いいやと思った。
アタシの主人になった男は、つまらない男だった。
判を押したようにきっちりと同じ時間に起き、帰ってくる。そして、決まって、夜はアタシと口づけを交わす――酒を飲む。大体は、日本酒の冷えたのを。たまに、焼酎に氷の浮かべたのを。
男は喋らないけれど、酒を飲むときは、ほんの少し、顔が綻ぶ。
変化があるとすれば、電話がかかってきた時か。
七日のうち、二日は電話が鳴って、それを取るとき、彼は嬉しそうな顔をする。
右手に電話、左手にアタシ。そこでも男はあまり話さず、頷いて相槌を打つばかりだったけど、電話の相手はいくらでも話があるみたいだ。
「そうだ。泡盛、届いたよ、ありがとう」
男は、一度アタシを置いてから、箱を開ける。出てきたのは、一升瓶。
「……うん、……ああ、今度の休みには帰る」
おやすみ、と言いながら電話を切って。彼は酒瓶を私の横に並べて立て、目を細める。
あれ。
酒瓶から、覚えのある、潮風の匂いがした。
男がいつものように、アタシと酒を飲もうとしている。
男はアタシを見る時、ちょっとだけ優しそうな顔になる。――これがコイツの優しい顔なんだってのは最近、気付いた。
電話がかかってきた。
男は私を見た後、私を片手に、電話を取りに行く。ほんの少し、少しだけ弾んだ声で。
アタシは、電話の相手が少しだけ羨ましい。
「――……えっ?」
だけど。絶句した男の指が、震えて。
アタシはそのまま、なすすべもなく、男の手を離れる。あ、ちょっと、零れ、床が迫る――
どのくらい、意識を失っていたのだろうか。
床に落ちた、アタシは割れて砕けていて、いくつかの破片になっていた。
そんな散らばったアタシを、彼が、一つ一つ拾い上げて、集めていた。
アタシの欠片がキラキラとして、水の粒が。
やめなって、怪我をする。
彼はいつも地味な服を着てるけど、今はもっと真っ黒な服を着て。今にも砕けてしまいそうな顔で。
アタシの欠片が指を切っても、血が滲んでいても、彼はお構い無しで。
やめて。
アタシが割れてしまってから、彼はおかしくなっていた。
暗くて、今にも壊れそうな顔をして。どこかを見ていたと思うと、泣き出して。
アタシはそんな彼を、ただ見るだけ。壊れたアタシは、捨てられるのかと思ったら、皿の上に並べて置いてある。
彼はアタシを見ては、また、壊れそうな顔をする。
それを見たらアタシだって、もう壊れているのに、砕けてしまいそうで。
あんなに好きだった酒も飲まなくなった。ねえ、アタシがいないから?
だったら他の奴と酒を飲みなよ。
壊れても、愛してくれるのは、嬉しい。けど――傷付けるのは望まないのに。
そんなアタシの声は、聞こえなくて。
気づけば、電話も鳴らなくなった部屋で、アタシは、アタシは。
…………。
どれくらい、そうしていたんだろうか。
ふと、知っている、潮風の匂いがした。
「これ、預かってもいいか?」
聞こえたのは、知らない男の人の声。
だけど、どこか懐かしい。どこで聞いたんだったか。
「……直るのか?」
「いや。だが、このままじゃ可哀想だろ」
言った男は、彼からアタシの入った皿を受け取った。カシャン、と音が鳴って、男はアタシを持っていく。
……そっか、サヨナラか。
いいんだ、これで。アタシはもともと、もう捨てられるだけの、割れた硝子の欠片だから。
もう、壊れたアタシを見て、歪むアンタの顔、見たくないから。
じゃあ、ね。
■
男の元に、友人からの小包が届いたのは、それから二週間後だった。
段ボールにはワレモノとラベルが貼られている、厳重に梱包された包みを開きながら、男は思い出す。
郷里の恋人から、誕生日に贈られてきたのは、琉球硝子の猪口だった。
二人の幼馴染が営む硝子細工の工房で見つけ、彼女が一目惚れした品だという。
彼女の選んだそれを、男も一目で気に入った。幼馴染の無骨な指がこんな繊細な品を作るというのは、いまだ驚きだ。碧に、波の飛沫のような泡のグラデーション。仕事の都合で、どうしても遠く離れた都会に住まなければなかった彼を慰めるかのような、故郷の海を思わせる色。
その猪口で飲む酒は、特別に旨い気がした。
彼女の訃報を聞いた時のことはよく覚えていない。
自分の中に冷静な何かが入り込み、勝手に体を動かしていたのだとしか思えない。気が付けば、喪服に着替え、沖縄行きの飛行機に乗り、彼女の家に着いていた。
マリンスポーツのインストラクターをしていた彼女は、いつも健康そうに焼けた小麦の肌をしていたのに。
それが、今は生気がなくて、白くて。そこにいるのが彼女だと、認められなくて。
現実が押し寄せてきたのは、東京のアパートに戻った時だった。
何もかも放り出したままの、散らかった部屋。あの硝子の猪口が割れて落ちていた――それを見ると、急に、彼女がもういないことを悟った。
全ての感覚が死んでしまったように思えたのに、体が生きていることが信じられない。
男は無為に、力ない日々を過ごしていた。
男を心配し、旧友が訪ねてきた。工房を休んで、わざわざ遠くから来た旧友は、色付きの硝子の破片が、自分の作品だとすぐに気付いたらしい。
彼女から貰ったものだからという理由で、男にそれが捨てられないことも。
旧友はそれを、持って行った。彼女を思わせるものが一つ減ったところで、それが男の慰めになるとは思えなかったが、男には、それに反発する気力さえなかった。
男は、小包を開く。緩衝材にくるまれたそれは――写真立てだった。
泡の模様が優しい、青のガラスで縁取られた、海の色の写真立て。大好きな海に囲まれて、在りし日の彼女が、男に向けて笑いかけていた。
――また、会えたね。
――見守ってるよ。
男は、はっとして、思わず後ろを振り返る。
そこには、殺風景な男の部屋があるだけだったが――男は、そのまま呆けた顔で、再び、笑顔の彼女に向き合った。
そして静かに、写真に唇を落とした。
琉球ガラスは、元々、戦後、コーラ瓶などの瓶を溶かして作られた工芸品から始まっているそうです。ガラスを溶かして再生する過程で入る、気泡が特徴的なのだとか。
作中で、お猪口から写真立てにリサイクルされ、物が変わってしまうのですが、琉球ガラスはもともと、再生ガラスの文化だから、それもアリかな……と。
企画を主催してくださった黒井様、読んでくださった皆様、ありがとうございました。