夏狩り
「これより夏の社に討ち入る。槍を捨てて刀を抜け!」
私は馬から飛び降り、片刃の曲刀を高く掲げた。横風に乗った砂が、広い刃を打ち、腕を震わせる。雄たけびを上げ、刀を掲げる兵達のうち、何人が生きて帰れるだろうか。入口にそびえる白い柱を見上げ、私は左手を突き出した。
「進め!」
黒兜の精鋭達が、広間へとなだれ込んだ。躊躇うものは一人もいない。もう後がないことを、皆よくよく知っているのだ。長く続く干ばつに国土は荒れ果て、滅びが目の前に迫っている。夏を打ち果たさない限り、我々には永らえることすら許されない。先鋒を追いかけた私の目に飛び込んできたのは、しかし、死にゆく部下達の姿だった。
「クソ、どうなってんだ、こいつら?」
腹に曲刀を差したまま、味方の喉笛を撫で切りにする敵兵。あり得ない光景が、新兵達の足並みをかき乱す。屍兵だ。斬っても刺しても死なないのではない。初めから死んでいるのだ。鼻を突く腐肉の臭い、充満した蠅の羽音。地の底から這い出た冥府に、部隊は少しずつ飲み込まれてゆく。
「狼狽えるな! 首ではなく手足を落とせ」
仲間の士気を支えるため、私は前に出て屍兵に切りかかった。腐りかけた骸の腕など、新兵でもたやすく切り落とせる。刎ね飛ばされた右手ごと屍兵の剣は宙を舞い、床に落ちて脆い音を立てた。返す刀で膝を断ち、これで早速一丁上がりだ。
「やったぞ! 隊長殿が亡者を倒した!」
後ろから歓声が上がり、兵士達が再び前に出る。
「なんだ、俺たちにも勝てるじゃないか!」
すんでのところで息を吹き返した部隊。味方の中からも敵を倒したものが出始めたが、戦い方に慣れる間にも別の仲間が倒れてゆく。
「エサクさん、ここは僕が――」
魔導士の少年が、いつの間にか隣に並んでいた。広間に蠢く亡者どもを焼き払って貰えたなら、一体どれだけ楽なことか。私は目を硬く瞑り、それでも少年を下がらせた。
「アダイ殿、今しばらく休んでいてください。露払いは、我らの務めです」
人が夏に立ち向かうために、たった四振りだけ授かった剣。彼らが夏を倒してくれなければ、この国は砂漠に消えてしまうのだ。こんなところで余力を使わせるわけにはいかない。
目を離した隙に隊列から槍が突き出し、私の兜を弾き上げた。金属が弾き合う、鋭い音に頭が痺れる。
「下がれ! 敵を出口まで誘き出す!」
柄の下に潜り込み、私は体ごと盾をぶつけた。のけぞった屍兵の脇が、一瞬だけがら空きになる。今だ。敵の脇に滑り込ませた切っ先を、私は力まかせに振りぬいた。肉と筋に刃がめり込む、生温い手ごたえ。皮一枚で繋がったまま、腐りかけた右腕は力なくぶら下がっている。
そのまま屍を蹴り飛ばすと、私は曲刀を正面に構えたまま、ゆっくりと出口まで後ずさった。のらくらと追ってくるところを見ると、やはり考えるだけの頭は残っていないのだろう。私たちは門の外で待ち構え、次々と飛び出す敵を三方から滅多刺しにした。
戦局をわきまえず誘き出される亡者達も、やがてまばらになってゆく。頃合いを見図り、私は再び突撃を命じた。広間に残る敵は、始めと比べれば僅かなものだ。我々は残党を叩き伏せ、ついに本殿へとたどり着いた。
「各々持ち場につき、退路を確保せよ!」
ここから先は、我々の力が及ばぬ聖域だ。私は剣を納め、『屠る者』を振り返った。
「千人隊長、ここまで本当に、ありがとうございました。俺たち、勝ちます。絶対」
固く握手を交わし、私は彼らを先導した。重く厚い一枚岩の扉。その奥からも、夏の生みだす熱が掌に伝わってくる。数人の部下と共に残った力を振り絞り、扉は漸くずれ動いた。足に食い込むサンダルの革紐、悲鳴を上げる両肩の肉、小さく空いた隙間から吹き出す、焼けただれた砂塵。人が通れる幅に開いた頃には、すっかり息が上がっていた。
「後のことはお任せする」
軽く頷き、本殿に足を踏み入れる『屠る者』達。ややあって、剣士殿の声が上がった。
「いない? どういうこと?」
そんなはずはない。なんとなれば、我々が戦ったあの屍兵共、連中は一体何を守っていたというのだ。隙間から覗いてみると、中には火が灯っており、石柱や祭壇を照らしていた。天井は随分と高いようだが、どれくらい大きなアーチが組んであるのだろうか。ふと見上げた先に、ぶら下がっている首が見えた。狙っている。
「上だ! 頭上にいるぞ!」
私の怒鳴り声に気付いて、彼らは滅びの影を見上げた。間抜けな獲物を見つけ、大きく開いた毒蛇の咢。目も眩まんばかりに炎が弾け、石畳を覆い尽くした。
「エレク殿!」
業火の中から現れたのは、しかし、聖騎士殿が作り出した白銀の結界だった。古ヘキソン文字の帯が穏やかな光を放ち、宙をゆっくりと回っている。
「来るぞ!」
胸をなで下ろしたのも束の間、夏は頭上から恐るべき追討ちを仕掛けて見せた。巨体を吊るしていた糸を断ち切り、広間へと飛び降りたのだ。踏み砕かれ、砂塵と共に飛散する石畳。激しい揺れに耐えられず、私は膝をついてしまった。幸い四人は難を逃れたものの、砂煙の中で離れ離れ。夏は八本の足を器用に動かし、早くも祈祷師殿を正面に捉えている。
「ネフェル!」
剣士殿の呼びかけに応じて、祈祷師殿は走り出したが、彼女の足で夏の毒牙から逃げられるはずもない。夏は大きな襟のついた頭を伸ばし、少女を丸呑みにしようとした。
「其は降り注ぐ潔白の鉄槌、邪悪なる者を打ち伏せ、消えることのない罪を雪げ」
祈祷師殿を救ったのは、瀑布の魔術であった。水の城壁に鎌首を押さえつけられ、たたらを踏む夏。その隙に剣士殿が祈祷師殿を拾い、聖騎士殿が夏の腕に斬りかかる。
「貰った!」
高々と掲げ、渾身の力を込めて振り降ろされた長剣は、毛に覆われた夏の腕に深々と食い込んだ。岩をも砕く爪を失い夏が上げた絶叫は、悲鳴とも怒号ともつかず足を凍らせる程に冷たい。それは地獄の扉が開き、死が解き放たれた音であった。
「エレク! 夏の様子がおかしい!」
瀑布が尽き、自由を取り戻した夏。その傷口からは緑灰色の煙が滲み出し、薄明りの中に溶けてゆく。生臭い煙に気をとられ、エレク殿は振り払う夏の右手を避けられずに盾で受け止めた。獣の爪だというのに、盾とぶつかり合う音は鋼よりも重く硬い。聖騎士が叩きつけられた壁は大きく抉れ、厚い白金の盾は見るも無残に折れ曲がっている。
すかさず踊り出たのは、剣士殿だった。
「こっちだよ!」
ところが、剣士殿が切り返そうとしたその時、二本の足がもつれてしまった。この絶好の機会を前に、夏は襲い掛からず、舌を出し入れして遊んでいる。
「隊長! い、息が!」
部下の声に振り返ると、無傷の筈の彼が、床に両手をついていた。問いかけるまでもない。いつの間にか息が重く、意識が遠くなっている。膝をつき、剣にすがりながら、私は兵士達に呼びかけた。
「いかん。外に、社の――」
不覚。あの臭いで気付いておくべきだった。緑灰色の煙は、亡者の谷の瘴気と同じ。迂闊に吸い込んだ者は体の自由を奪われてしまう。夏は首をもたげ、足下で蹲る女をまじまじと値踏みした。
「太古の光よ、種々の災いを濯ぎ、祓え」
空気だ。喉を滑る息が、嘘のように冷たく心地よい。蘇った我々と引き換えに、穏やかな光から顔を背け、夏はぎこちなく後ずさった。
「奈落の使者よ、永き時を貫く蒼き墓標の下に眠れ!」
夏の見せた一瞬の隙を、魔術師殿は見逃さなかった。空に現れ、氷を纏ってゆく巨大な槍。その穂先は、真っ直ぐに夏の心臓を狙っている。少年が手を振り降ろすと同時に、氷塊は夏に飛びかかり、砕けた氷の欠片が辺りに降り注いだ。余りの衝撃に伽藍が揺らぎ、まばらに砂が降ってくる。
「やった!」
薄闇に響く部下の歓声。動きがないところを見ると、轢き潰されたとまではいかずとも、痛手を受け昏倒しているに違いない。祈祷師殿が聖騎士殿に駆け寄り、手当を始めた。砂煙が次第に晴れ、その奥から現れたのは、しかし、青く透き通る氷の墓標だけだ。
「逃げられた!」
氷塊の下に、敵の姿がない。僅かな既視感を覚え、私は迷わず丸天井を見上げた。毒の滴る四つの牙、糸を引く青黒い舌、松明の灯りを受けてぬらぬらと光る、赤い粘膜。間に合わない。私は舌の先めがけて、曲刀を投げつけた。ダマスカスの刃が掠め小さく開いた傷口から、熱い血がほとばしる。地獄の底から吹き出した憎悪と憤懣の不協和音に、全身の骨が震えた。流石に貴奴の相手は、私には荷が重い。たじろいだ夏を睨んだまま私は後ろに跳び退り、傷の癒えた聖騎士殿に替わってもらうことにした。
未だ壁面に張り付いた夏。剣の届かない敵を見上げ、聖騎士殿は剣を逆手に持ち替えた。電光が刀身に絡みつき、鋼が青白く輝き出す。
「食らいつけ!」
床に突き立てた切っ先から三条の雷が解き放った。石を砕きながら床を駆け、壁を伝い、稲光は三方から夏に飛びかかってゆく。巨体に見合わぬ速さで、壁面を走り出す夏。襲い掛かる雷の牙は、逃げ回る夏を容易く捉え、その全身を駆け巡った。巨体を刺し貫く稲妻に苦しみ、足を止めてのたうつ夏。狼狽える怪物に向かい、壁を駆ける影があった。
「今だ! キリガ!」
剣士殿の姿が消え、夏の頭が大きくのけ反った。ざら付いた悲鳴を上げふらつく夏の横顔に、剣士殿が取りついている。夏はさらに激しく頭を振り、社の壁に打ち付けたが、砕けるのは石ばかりだ。瓦礫が床に突き刺さる頃には、剣士殿は夏から離れ、壁の上を駆け回っている。串刺しにされた眼は赤く染まり、溢れた血が滝となって流れ落ちた。
「姉さん!」
魔導士殿は杖を掲げ、目を閉じて詠唱を始めた。
「響き、写し、折り返し、敵の目を欺くもの。虚空に舞い、咲き乱れよ!」
薄い霧が渦巻いたかと思いきや、束の間仄かな光に変わり、そこかしこに淡い鏡像が浮かんでいる。重なり合い、倒立し、己を取り囲む幻の中、頭を巡らせ、残った眼で剣士殿を探す夏。いくつもの鏡面を全く違う方向に横切り、剣士殿は狙いをつけさせない。夏が痺れを切らし、大きく息を吸い込んだその時、無数の幻影が夏を取り囲んだ。
「閃け! 極光の万華鏡」
無数の影が飛び交い、真っ直ぐな軌跡が宙に奔った。巨大な丸天井が、みるみる剣閃と残像とに埋め尽くされてゆく。剣士殿の影は同時に四方から襲い掛かり、夏の巨体を穴だらけにしてしまった。
「終わりだ!」
天井に着地した剣士殿は、踵で大きく円を描き、矢となって夏を射抜いた。蛇の頭が炎と共に弾け飛び、おびただしい血と肉片が頭上から降りかかってくる。頭を失った体は壁から剥がれ落ち、背中から床に叩きつけられた。王国に滅びをもたらす、予言された邪神の最期。断末魔を上げることもできず、骸はひび割れた床の上で仰向けに伸びている。
「やったな、キリガ……お前は本当に大した奴だ」
力を使い果たし、へたり込んだ剣士殿を、聖騎士殿が助け起こした。歓声を上げ、二人に駆け寄る部下達。終わった。仲間達の命を奪った、長く過酷な戦いが。人々を苛んだ、飢えと、乾きと、灼熱とが。我々の剣は、ついに勝ち取ったのだ。乾きに苦しんだ祖国に、漸く恵みの季節がやってくる。健闘を讃えあう『屠る者』達に近づき、私は声を掛けた。
「帰りましょう。皆があなた方を待っている。救国の英雄が、朗報をもたらすのを」
夏が倒れ、屍兵達の動きも止まったのだろう。兵士達が入り口に集まって来ている。私は広場に出て残った兵を確かめ、負傷者を手当てさせた。出発には、今しばらく時間がかかる。私は念のため、最後にもう一度本殿を覗き込み、そして言葉を失った。
炎だ。夏の骸が燃えている。小さく巻かれた首、縮み上がった八本の足、天を仰ぐ巨大な尾。それだけでは飽き足らず、炎は石の床に広がっていた。静かに、しかし貪欲に石造りの伽藍を飲み込んでゆく。余りの勢いに危険を感じ、私は振り返って叫んだ。
「逃げろ! 火事だ、このままでは社が――」
足を引きこまれ、私は床の上に倒れ込んだ。右足に、白い糸が絡みついている。両手で手がかりを求めるが、指先は石の隙間を掻くばかりだ。引きずり込まれる。敵意に満ちた無限の炎の中へと。振り絞った叫び声も出る前に燃え尽きてしまい、激しい痛みと、熱と、光にあらゆるものが沈んでいった。
暑い。ここは一体どこなのだろう。ずっと、何かと戦っていたような気がする。そうだ。戦わなければ。我々は、倒さなければならない。だが、一体何を? 敵。敵が見える。目の前に、我々の敵がいる。私は利かぬ腕で曲刀を抜き放ち、侵入者に向かって歩き出した。