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干渉に溺れる




123


 見慣れた風景が後ろに流れ流れていく。遅くなったり、早くなったりを繰り返しつつもそれでも止まることはない。息が乱れる。汗が目に入る。背負ったバッグがユサユサと背中に負担をかけてくる。バッグの中から何かが破裂したような音。昨日買ったスナック菓子がそのままだったかもしれない。破裂したのはあるいは、僕の頭か。角を曲がって、出会い頭でぶつからないように大回りして、坂道を駆けあがる。

 僕は走っていた。

 どこを走っているかといえば通学路だし、どんな理由があって走っているのかといえば各々時計をご確認いただければ瞭然であろう。ふと見ると、七時五十六分を指していた腕時計は今まさに五十七分を指し示すところだった。

 朝から全力で走ったからか遠のいてきた意識に、耳に入った音声が文字化され表示される。

 人は思考する時、その思考を瞬時に文字化して頭の中で考えをまとめるそうだ。稀に文字に限らず、音声化、映像化して思考する人間もいるようだけれど。音声には言語が含まれ、映像には名称を持つなにがしかが映し出されていることがほとんどであろうから、結局のところ、行きつく先は文字であり、言語であると言って差し支えないのだ。だから僕達は新たな、文字化不可能な事象について思考できない。無理矢理文字を当てはめても、その事象の本質を捉えられているとはいえないだろう。第一言語を利用して、第二第三の言語を習得するのは、だからかなり難しいことなのだろうと思う。


「遅刻遅刻ー!」


* * *


「おいおい、廊下は走るなよ。怪我でもしたら大変だろ」


 今までため込んでいた髭をサッパリ剃り落としたらしい担任教師の注意を適当に聞き流し、顔面汗まみれの僕が教室に転がり込んだのは、もう予鈴も鳴り終わった八時二分の事だった。履きやすいようにと上履きの紐を緩く結んでおいた昨日の僕を恨む。

「ん、七時六十二分。欠席も遅刻も無し、かな」と呟いて彼は手に持つ出席簿になにやら書きつける。本日の遅刻者の欄に僕の名前は無い。誰の名前も無い。

 そして彼は「一時間目は化学だぞ。遅れるなよ」と一言残して教室を出て行った。

 担任教師の言動に対してなんの疑問も無さげな、クラスの大半の生徒は一時間目の準備を始める。それに倣って、それに均って、そそくさと準備を終えた高校入学以来無遅刻無欠席の僕は、始まる長い一日を思って憂鬱になった。


* * *


 僕たちが住む世界の時計は七十進法で時を刻む。


 嘘だ。そんなわけがない。

 僕が嘘吐きにならないためには《僕が朝、教室に飛び込んだ瞬間には、時計が七十進法で進んでいるとクラスの大半の人間が認識していた》と吐くのが正しい。その証拠として五十分間にわたる化学の授業は九時ぴったりに終了した。

 午前の授業の終了を告げるチャイムが鳴り、途端に教室内が喧噪に包まれる。昼休みだ。

 購買にパンを買いに行く生徒や、机並べて「一緒に食べよー」と楽しそうにしている同級生を横目に、僕は自分のリュックサックを開ける。

 母さんから冷凍食品目白押しの弁当を受け取っているのだが、今はなんとなく、塩辛いものが食べたい気分だった。冷凍のカニクリームコロッケとか、モサモサしていて味が無いし、母さんが僕のためを思って塩やソースの類を弁当箱に潜ませてくれているとは考えにくい。

 僕は昨日買っておいたスナック菓子を鞄から取り出して。左右に引っ張るようにして開封する。


* * *


 物事の前提を書き換える。

 それが僕のできる《事》だ。いや、改まっていうほどのものではないのかもしれない。特技ですらないのかもしれない。

 漫画やアニメでは特殊能力を使用して、炎を操ったり物性を変化させたりするような描写が多々ある。特に現代作品では見ることが多くなった。

 しかしこれの何が特殊能力なのだろう。確かにこの世界に無から炎を生み出して自在に操ったり、岩を一瞬にしてゼリーのように柔らかくしたりしてしまう技術は未だ存在しない。少なくとも、僕は知らない。だからこそ、そんな能力に人々は惹かれ、憧れ、夢見るのかもしれない。

 そこで視点を変えてみる。現実はどうだろうか。火は起こせるし、物体の性質を変化させることだって時間をかければどうということもない。可能なことなのである。実際に例を挙げるなら、テレパシーに限りなく近づいた電子機器を今では誰もが持っているはず、だ。僕は持たせてもらっていないけれど。

 そんな、物理法則や科学技術なんていうものを、大して論拠もわからず道具や自然として日常的に享受しておきながら、少し日常と離れた物事にはすぐに異常だの特殊能力だのと。手の平返しも甚だしい。お前らの手はドリルかなにかか。

 可能性の話をするならば、この《これ》を異常な物として認識してしまう僕が異常なだけで、他の人々はこの《これ》を当然、自然な物として、さながらライターや時計のように、日々活用しているかもしれないのだ。《僕は昔、この《これ》は特別なものなのかどうか周囲の人間に聞いて回ったことがある》という前提が周囲の人間によって書き換えられた結果、今の僕があるといわれても否定できないのだ。言い換えてみれば呼吸ができている事を確かめてくる頭のおかしな子供に絡まれるようなものだ。そんな前提、覆したくもなるだろう。

 だから特にひけらかすことも見せびらかすこともしなくていい。特別に思うことはない。誰が、自分自身がそこにあることを見せびらかすだろうか。誰が思い通りに動く自らの四肢を見て狂喜乱舞するだろうか。その程度なんだ、僕にとってのこの《これ》は。

 だからこそ僕は、前提を書き換える《これ》に対して、固有名詞となるような名前を付けていない。ただ《これ》という代名詞だけで呼んでいる。代名詞のみで表される固有名詞のような存在は、あるべきではないのかもしれないけれど、別に人に話すわけではないのだから僕の好きにさせてほしい。

 それにこの《これ》は字面から判断できるほど万能ではないし、有用ではない。僕の持つこの《これ》は言わば不完全な特殊能力。携帯電話が、どれほどテレパシーに近づいているといっても、心を読むことができず、さらには電力を要する。そんな不完全さを孕んでいる。発展段階、可能以前の不可能状態。

 以前、という言葉を使っているが、この後、この《これ》が成長し、リスクを孕まない特殊能力に昇華できるのかといえば、全く予想の範囲外なのだけれど。


* * *


 油でパリッと揚げられた内容物を一枚取り出して咀嚼すると、後付けの化学調味料が口の中に広がる。ん、あんまり塩っぽくない。


「うげ」


 スナック菓子のパッケージを見る。緑色がふんだんに使われたその表面には、《期間限定、わさび味!》と書かれていた。


「わさび…苦手なんだけどなぁ」


* * *


 ジェンガという玩具がある。

 木を素材とする直方体のパーツで形作られたタワーを基本形とするハラハラドキドキのテーブルゲーム。僕がこの《これ》を使うときの感覚はジェンガをやっているときと似ている。

 この世は前提のオンパレードだ。どんな結果も時間の流れとともに次の結果への中継地点として、その形を前提へと変えていく。支えられている何かは次世代の何かを支えなければならない。さながらジェンガの木片のように、支えられる木片は自分より上に乗っている木片を支える必要がある。

 僕は、この世界という一つのジェンガから前提という名前の木片を抜き取ることができる。だから《これ》が及ぼす影響は、前提を書き換える、というよりも前提を消失させる、といった方が正しいのかもしれない。しかし《なかった》という前提を消失させることで《あった》ことにすることもできるので、またその表現も適切ではないのかもしれないのだけれど。

 ところで、僕が《これ》のイメージとしてジェンガを引用したのはこの《これ》の矛盾を解決するためである。解決される矛盾は矛盾足りえないと、僕は考えるけれど。いずれ二つの相反する事象が同時に存在する、いわば前提を覆すような技術が確立されてもおかしくないだろう。楚の男もにっこりである。

 《これ》が孕む矛盾、それは僕という観測者の存在である。

 《これ》はそれっぽい言葉を使って表せばつまりは因果律に干渉するそれなのだ。過去の事象に干渉し、消失させることができる。そんな《これ》が及ぼす結果といえば――言うまでもないかもしれないが、一例を挙げるとするならばタイムパラドックスのような問題である。過去で人を殺せば未来のその人間は殺された時点でいなくなったことになり、過去で死んだ時点以降の時点になんら影響を与えることができなかった、という未来が確定し、歴史が改変されてしまう。時間的干渉に付きまとう問題の内の一つである。親殺しのパラドクッスなどが有名だろうか。

 ここで僕の持ちだしたジェンガという例え話が問題の解説役にシフトする。ここでは別にジェンガに限らずとも、オセロでもモノポリーでもチェスでも何でも構わないけれど。

 ジェンガは観測者を、そしてプレイヤーを必要とするテーブルゲームである。これも先に記したように他のゲームでも同じことが言えるが。先程言った通り、僕が《これ》を使うとき、僕は一度、世界そのものであるジェンガの外に出て、ジェンガをプレイするのである。だから動かされている小さな木片の上に乗った小人の《私は常に同じ場所に立っています。》というその言葉が間違いであることに気が付くことができる。いわば蚊帳の外の、傍観者のような存在なのだ。

 だから僕は《これ》で書き換えた前提そのものに左右されない。タイムパラドックスの影響を受けることもないというわけだ。とは言っても、書き換えられて発生した刃物に刺された場合には、十全に死ぬが。やってみたことはないのでわからないけれど、もし《これ》を使って僕の親が生まれてくるという前提を消失させても僕は消えないのではないかと思う。そこらへんは曖昧だ。僕に限らず誰だって、自分の能力を十分に理解している人間なんて少ないだろうから、さっきも少し言った通り、僕の不見識をとやかく言われる筋合いはない。

 加えて、僕がこの《これ》をジェンガと称した伏線の回収といこう。

 木片を引き抜き、バランスの悪くなるタワーに気を付けながら遊ぶジェンガのルールの内、まだ僕の説明に出てきていないものがある。勿論ローカルルールを含めればまだまだ出てきていないルールはあるだろうけれど、それは置いておいて。

 ただ引き抜くだけでは、ジェンガはいずれ一定の形に収束してしまうだろう。きっとそれはどこを引き抜いてもタワーが崩壊する、最終盤面の様な状態である。それはテーブルゲームとして好ましくない。オセロや将棋の様な有限で確定的なゲーム、そんな先攻後攻を決めた時点から勝敗が決してしまうような類のゲームとは、ジェンガは違う。とはいっても勿論、ジェンガも無限に続けられるわけではない。だから先に言った事には反してしまうけれど、ジェンガもいずれ一定の形に収束する。しかしそれは勿論、引き抜いていくだけで完成する最終盤面とは一線を画する。正しい最終盤面は、引き抜くだけの最終盤面の三倍の高さを有するタワーになるべきなのである。

 それはジェンガの全ての木片を中心で交差させて全て積み上げた物となる。ジェンガをプレイしていて、この状態になることはほとんどないはずだが、これこそが最終盤面だ。いや勿論、達磨落としの要領でゲームを続行することもできなくはないだろうが、今回は考えないでおこう。

一つ注釈を加えておくと、僕がここで言いたいのは《これ》を使えば使うほどに、ジェンガが崩れやすくなるということではない。僕が言いたいのはジェンガを終わらせしまうルールではなく、ジェンガを続行させるルールなのだ。

 タワーを崩さないように木片を抜き取り、タワーの最上部に綺麗に整えて乗せる。それがジェンガというゲームの基本的なルールで、それはこの《これ》にも当てはまる。つまり僕が《これ》を使って世界という一つのジェンガから前提という名前の木片を取り出す場合、新たな前提を、ジェンガの上に乗せる必要があるのだ。

 ここには少しだけ、実際のジェンガと違う点がある。実際のジェンガをなぞったときに決して発生しないそれは、引き抜いた前提と新たに乗せる前提とが、等号で結べるものではないという点だ。僕が引き抜いた前提は、アトランダムに、別の前提へとその形を変容させながらジェンガの上に乗せられることとなる。とはいえアトランダムといっても完全なるアトランダム、無作為とは、どうやら違うようであることを、僕は知っている。

 僕がこの《これ》で抜き取った前提に近しい、親しい前提が僕の意識しないところで書き換えられてしまうのだ。


* * *


「こんな風に」


無理矢理食べ切ったわさびスナックの包み紙をゴミ箱に収めてから僕はそうぼやく。


「今度から袋を開ける前にちゃんと確かめないと…」


 今回に関して言うならば、《登校中にスナック菓子(うす塩味)の袋が破けた》という前提を消失させ、その代償として新たに加えられた前提が《昨日僕が買ったスナック菓子は、うすしお味ではなく、嫌いなわさび味だった》ということである。

 腹をさすり、少し気分が悪くなった口内を水筒のお茶で洗い流す。中身は緑茶だった。別に好きでも嫌いでもない。

 口直しにと弁当を取り出し、蓋を開ける。中にはコロッケと、エビフライ、ブロッコリー、そしてご飯が入っていた。バランス悪いな、何でご飯を食べればいいんだ、と思っていたら蓋の裏に母さんの愛情を具現化したようなふりかけが張り付いていた。安い愛情だったが、ふりかけは嫌いじゃない。


「多分、先生の髭が無くなっていたのも《これ》の所為だよな。大丈夫かな、あれだけ立派に生やしていたのに、ショックで泣いていないかな」


 基本的に《これ》で変容したものはその後の世界に融けて、今まで通りの前提として定着する。世界というジェンガは時間とともに、常に新しい前提が積み上げられ続けているのだ。だから僕が《これ》を使うことで死んだ人間はきっとその時点から死んでいたことになるし、僕に責任が問われることなんて微塵もないのだろうけれど、やはり観測する立場というのは良心の呵責に苛まれるものである。見て報告、通報しないのはその犯罪に加担したのと同じだ、とはよくいったものだ。今回の場合、僕はただの観測者ではなく、そのまま犯人と同義だという点については、第一発見者が犯人であるという定説もあながち間違いではないのかもしれない。昨日までの髭を生やしていた先生はきっと怒っているだろう。いや、もう存在すらしていないのだけれど。だから大して心を痛める必要はないけれど、《これ》をあまり使いたくない理由の一つである。

 考えていると理由の二つ目が歩いてきた。


「あ、もうポテチ食べ終わっちゃったの? ちょっと貰おうと思ってたのにー」


机の上に腰を下ろした彼女は不満げに口をとがらせる。その上に展開していた僕の弁当箱は膝の上に押しやられる。邪魔だ。


「ていうか、わさび嫌いじゃなかった? なんでそんなの持ってたの?」


「間違えて買っちゃったんだよ。ほら、昨日の帰りに」


「ふーん、間違えて、ねぇ。昨日はうす塩をいっぱい買ってたと思ったんだけど、見間違いだったかな?」


 彼女は僕から興味無さげに目を逸らし、机の上に座ったままでユラユラと足を揺らす。そしてふと思い出したように新しい話題を振っかけてくる。僕は静かに弁当を食べたいというのに。振っかけはあまり好きじゃない。


「そういえばさ、先生、髭剃っちゃったんだね、残念。何かあったのかな? あ、失恋とか?」


「僕に聞かれてもわかるかよ。ていうか先生奥さんいるだろ」


「いやいやー、わからないよ。先生優しいし、モテるんじゃない? 奥さんと愛人のせめぎあいとかがあったのかも。そして泣く泣く愛人と別れた先生は悲しみの中、溜め込んでいた髭を剃り落した、とか?」


「そんな意味不明な脚本を書くライターは即刻クビにしてほしいね」


 その考察は髭に重きを置きすぎだ。ていうか、今お前が言ったままの状況だったら奥さんも愛想を尽かすだろうに。あの先生にそこまでの魅力があるとは思えないし。


「荒唐無稽で支離滅裂な脚本だって、たまに見ると面白いもんだよ?」


「判官贔屓に頼るのが前提だなんて、贔屓目に見てもいただけないね。そんな脚本は狙って書くべきじゃないよ。偶々できたってんならともかく」


「厳しいね」


「もうそろそろ良い?僕は弁当を食べたいんだけど」


「あ、ごめんごめん。邪魔だったかな?」


 邪魔だったかな。

 コトリと僕の机の上に可愛らしい弁当箱が置かれ、続けざまに僕の前の机と番いになった椅子がズルズルと引きずられ教室の後方を向く。


「じゃ、一緒に食べよっか」


 彼女は僕の幼馴染だ。家は隣どうしで、小学校の頃からずっと一緒にいる。そして要りもしない大げさなお節介を焼いてくる。《私があなたを守る!》とかなんとか。だからといって、妄想たくましく彼女との仲を聞かれてもそんな大層なことはないのだが。

 彼女は、悪い意味ではなく、どこにでもいる普通の女子といって差し支えないだろう。特筆……すべきだとも思わないが、彼女について何か言えと言われれば、その涙もろい性格だろうか。少なくとも僕に対しては、怒ったときですら目に涙を浮かべている。

 毎日見ている顔をこれ以上、今更殊更に紹介するのも馬鹿馬鹿しいので割愛。


* * *


 書き換えられた前提を無視して物事を認識する。


 それが彼女の、僕の幼馴染のできる《事》だ。これに至っては本当に、大層なものではないだろうと、僕は思っている。言うなれば体質か。

 誰かが言っていた、人間は進化する生物だと。

 学習する生物、と言っていたかもしれない。あまり覚えていないが、どちらにしても他の生物とは比べるべくもない速度で前進できる生物である事に間違いない。

 その言葉を引用させてもらえば、つまり彼女は進化したのだろう。

 人間の真価たる、進化をしたのだろう。

 僕は《これ》を意識して使用していたのは、小学生高学年の頃から。それは厳然たる事実ではなく、僕の記憶が示す事実であるから、あまり信用はできないけれど。

 もしかすると、小学生時分の僕は秘密結社に秘密裏に改造手術を受け、《これ》を手に入れ、その後、その前提としての記憶を《これ》で書き換えたという過去を想定することも出来るが、あまりに突飛だろう。だからきっと、この《これ》は生まれつき僕に付きまとって、憑きまとっていた性質であると考えていいと思う。

 だから僕が《これ》を無意識に使用して、そして彼女は無意識に観測していたのだろう。無意識下において、僕と彼女は昔から一緒にジェンガをプレイしていたのだ。いや、前提を書き換えるという行為に関与していない以上、プレイヤーというよりも、まさしく観測者のような存在なのか。

 他の誰よりも、親よりも、何度も何度も僕の《これ》を見続けて来た彼女はいつからか、僕のこれの影響を受けない体質になっていた。

 影響を受けないというと語弊があるかもしれないが、彼女が受けないのはあくまで一次的な、ジェンガの木片を抜き取って、新たに置くまでである。つまり変化そのものまで、その後の変化がもたらす二次的な影響は十全に受ける。その辺りは僕と同じだ。

 直近の例を挙げるならば、今朝の事になるだろう。

 彼女は今日の朝、遅刻した僕の事を不満げに見つめていた。僕が今日の朝引き抜いた前提は、クラスメイトや担任教師の認識に関する部分であるから、彼女は、己が認識を書き換えられることなく、時計が八時二分に見えていたに違いない。きっと担任先生が僕の遅刻を見逃したとでも思っていたんだろう。《ん、七時六十二分。欠席も遅刻も無し、かな。》という彼の発言も、僕を遅刻から救うための口実だとでも思っていたに違いない。実際に彼が時計を七時六十二分と認識していたとも知らずに。

 他にも彼女は、僕が《これ》で書き換えることによって発生した元の世界との相違点に気付いて、その度に頭を悩ませてきたのかもしれないが。

 しかしまぁ、十数年前からその超常に晒され続けてきたのだからきっと耐性もついていることだろう。その証拠といっていいのか定かではないけれど、彼女はいつも、理不尽な出来事に相対しても、まるで老獪な戦士のようにその場面を切り抜けてきた。


* * *


「あんまり先生に甘えちゃだめだよ? 先生も甘いんだから…、まったく…」


 いつものことなのであまり怒っているという印象は受けないが、僕は彼女に説教されていた。勿論今朝の遅刻の件である。母親か、お前は。いや、この世界の事実として、僕は遅刻を免れたのだけれどね?


「ごめんごめん、ちょっと寝過ごしちゃってさ。でもギリギリまで頑張ったんだぜ?」


「遅刻してたら意味ないよ。努力がどうでもいいとは言わないけれど、やっぱり結果が全てなんだから。結果を出さないと、努力は努力として認めてもらえないんだよ? わかってる?」


 割と酷いことを言う彼女は自分の弁当から食材を口に運ぶ。可愛らしい小さな弁当箱に綺麗に整えられた食材が詰められている。美味しそうだ。


「クラスの皆も甘いんだから…、もうっ」


「ごめんってば」


「謝って済むなら警察は要りません!」


「警察がいれば謝らなくても良いってのか?」


「屁理屈はいいの」


 軽く頭を叩かれる。痛くは無いけれど、主導権を握られているようで、なんとなくムカつく。


「あ、ほらもう時間だよ。早く食べて! 次の授業は家庭科教室なんだから。遅れちゃう!」


「半分くらいお前のせいで食うの遅れてるんだからな」


「早く早く!」


「ちょ、話聞いて、おいっ」


彼女に腕を掴まれ、無理矢理昼食が中断される。


* * *


「起立、気を付け、礼」


 日直の声が一日の幕引きを告げ、放課されたクラスメイト達は三々五々となって部活動やら読書やら、明日の授業のためのか予習やらを始める。

 僕は部活動に所属していない、ので、特にすることがない。帰ってゲームでもしよう、と荷物をまとめていると机の上に見覚えのある鞄がドサリと置かれる。


「どうせ帰るんでしょ? 一緒に帰ろ」「一緒にって、お前部活は」「今日は休みだよ、水曜日だし」「大会前だろ? 自主練習でもしろよ。練習をサボって、大会で負けて悔しがるなんて本末転倒だぜ?」「良いの。最近あんまり一緒に帰れてないんだから」「昨日も一緒に帰ったじゃないか」「うるさい」「うるさいってなんだよ」「あぁもう、面倒くさい。早く準備してよ」


 口喧嘩をBGMに、教室を後にする。別にこんなやりとりも嫌いじゃない。一つ言わせてもらえるならば口喧嘩を《面倒くさい》の一言で終わらせるのだけは止めてほしい。こちらとしても自分の否を認める準備は、相手に合わせて譲歩する準備はあるのだから。商談中に書類を全て引き千切って部屋を後にする迷惑な奴か、お前は。

 不満げな目で彼女をねめつけていたら視線があってしまったので慌てて目を逸らす。もう日が落ちるのも早くなってきたのだろうか、廊下に差し込む光は、まだ四時を過ぎたばかりなのに橙色に輝いていた。


「先生、ホームルームでも普通だったよね、失恋かと思ったのに涙ぐんだりもしてなかったし、本当になんで髭剃ったんだろうね?」


「まだその話引き摺ってるのかよ。先生だって気が変わることもあるだろうさ。なんとなく髭が邪魔に感じた、とか、そんな程度の理由だろうよ」


「あぁ、うん。確かにそうかも…。あ、いや、でもクラスの皆も全然不思議そうじゃなかったんだよ? これって変じゃない?」


「先生が髭を剃ったくらいで盛り上がれるのはお前だけだって話じゃないのか。あんまり関与してやるなよ、他人の人生に。誰だって、むやみやたらに干渉されたくないって思うのは、普通の事だろ? お前のその性格も、直した方が良いと思うぜ」


 人生は髭があったか無かったかで左右されるようなものではない、とは思うけれど。

 階段の踊り場を曲がって三階から二階へと歩を進める。なんで学年が上がるほどに上階の教室が割り当てられるんだ、この学校は。毎朝遅刻ギリギリの僕には手厳しい処置だ。


「って、おい、どうした?」


 隣から聞こえてきていた足音が消えたので後ろを振り返ると、二階と三階との間の踊り場で、彼女は俯き気味に立ち尽くしていた。


「…」


「どうした、具合でも悪いか?」


 夕日に照らされた彼女の顔は、こころなしか赤くなっていた。熱中症だろうか? この時期に? 照れているのかもしれない、もしかして僕に告白でもする気だろうかと適当に考えていると、彼女は「な、なんでもないっ!」と言って僕の横をすり抜け、階段を駆け下りていく。なにやら涙ぐんでいたようだ、震えた声が、まだ僕の耳に反響している。あと、手提げ鞄を踊り場に放りっぱなしだ。


「あ、ちょっと待てよ」


 僕の気の抜けた静止を無視して行ってしまった彼女を、とりあえず彼女の鞄を確保して追いかける。しかし学ばない僕は朝と同様に緩く靴紐を結んだ上履きに足を取られてしまう。きつく結んでおくんだった。


「なんなんだよ…」


 ぼやきながら到着した昇降口では、彼女が靴を外履きに履き替え終わったところだった。


「どうしたんだよ、一体!」


「なんでもないってば!」


 言うが早いか彼女は昇降口を抜け、一目散に校門へと走り出す。僕もそれに続く。この際外履きに履き替えている場合じゃない。僕の上履きが片方、脱げて転がっていった気がするけれど、立ち止まらずに彼女を追いかける。別に僕が追いかける必要なんてないのかもしれないけれど、あんな思わせぶりな仕草をされたらこちらとしても黙って家に帰すわけにはいかない。

 グングン距離を開けられていく。彼女の速度を細々と描写するまでもなく、この場合はやはり僕のスピードが遅いと言わざるを得ないだろう。いつもなら追い付いただろうに。ゆるゆるの上履きならば走りづらいことは明白だけれど、だからといって上履きを脱ぎ捨てて、靴下で走ったとしてもなんらスピードに好影響が得られているとは思えなかった。

 彼女が振り返って、僕の姿を捉えたのは、校門を出て少ししてから、突っ込んできたトラックが彼女を轢き飛ばす少し前のことだった。


* * *


 僕のこの《これ》は前提に干渉することができるけれど、それは決して過去に干渉することと等号で結べるものではない。つまり、前提を書き換えたところで実際に僕が過去に行って平行世界のような場所で新たに行動を起こすことができるわけではないということだ。前提を書き換えた瞬間にその書き換えられた前提における結果が、僕に、この世界に降りかかる。

 だから今回僕が得られたこの結果は僕が望む最高の結果とはいかなかったけれど、これはいくらかマシな結果なのだろう。僕の愛すべき幼馴染はトラックに轢かれなかった。


 良かった。ちゃんと上履きの紐を結んでおいて。


* * *


 遠くから声が聞こえる。何かを必死で叫んでいるような。

 僕は水の中にいるらしかった。水の中? 体中が熱い、水の中? 体中が軋む、水の中? どうやら違う。遠のく意識の中かもしれない。どうにかしないと、死にそうだ。

霞む視界に彼女の姿が映っている。泣いているのか、大粒の涙が僕の顔に落ちてくるのがうっすらと感じられる。


「――! ――!」


 滅多に呼ばない僕の名前を呼んで、いつもみたいな泣き顔を見せている。


「また、また守ってあげられなかった! ごめんね、私の、私のせいなんだ!」


 意識が朦朧としていて、言葉は聞き取れても頭で理解する事ができなかった。だとしても、彼女が悲しんでいる事だけはわかった。だから、これ以上悲しませたくないから、死にたくないから、僕は覚束ない手で、混乱する頭で、根幹を引き抜いてしまった。

 ガチャンという、何かが崩れたような音がして、「私はあんたをずっと――」僕は意識を失った。




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