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18章 『秘境』 Secret Area

 誰も知らない、知られてはいけない。そこが一体どこにあって、一体何があるのか。


 彼らは知らせない、近寄る者を寄せ付けない。自分たちだけが棲み、それ以外の者を必要としないその空間を。


 誰もが知りたい、支配下に置きたい。未知の資源と情報が詰まった、誰の物でも無いその領域を。


 彼らは許さない、侵略者には渡さない。あらゆる策略と死力を尽くし、生まれ育った故郷を。


 誰もが惜しまない、どれだけ血を流しても諦めない。開拓する力を惜しまず、その土地を手に入れるまでは。


 彼らは逃げない、最後まで屈しない。たとえ一人になっても。骨身を大地に埋めようとも。


■■■■■□□□□□


 ゲームの中とはいえ、目覚める時は体が重い。やっとの事で体を起こすと、周りにはゴウト、キオ、ズパーが俺を見下ろしていた。


「ここは……どこだ?」


 思い出す。確かあの時、試合前に仮面を付けた妙な男が部屋に来て、気付いたらこの爺さんと戦っていて……どうにか洗脳を逃れる事は出来たが、そもそも何が起きていたのかさっぱり理解出来ない。


「近くの診療所じゃ。あれから夜まで一緒に倒れたまま、係員に発見されてここまで運ばれた」

「あれから……やっぱり俺とあんたが戦ったのか? 何で?」

「お前さん、幽霊にとりつかれてたんじゃよ。もう終わった事じゃ」

「幽霊……ね……」


 俺はキオとズパーを見た。キオは物珍しそうな顔で、ズパーはやや強張った表情でこちらを見ている。


「どうした坊主、太ったエルフがそんなに珍しいか?」

「そ……そりゃあ……」

「二人は付き添いじゃ。と言っても、ズパーはさっき目を覚ましたばかりじゃが」


 俺はズパーに目をやった。確かこの男は俺が魔法を食らわせた相手だが、精々砂で窒息させる程度で、治療が長引く様な重傷を負わせたつもりはない。ましてや、闘技場のスタッフが治療に手間取るとは思えない。


 俺が知る限り、金王は俺と警備員である魔法使いを買収している。そこまでして勝ちに拘った理由は分からないが、やはり不正がばれない様に、ズパーも口封じがてらに押さえ付けられていたと考えた。


(金王とやら、勝つためにどこまで根回ししたんだ?)


 しかし過ぎた事はどうでも良い。俺は目をゴウトに戻すと、こう切り出した。


「先に言っておくが、俺は仲間にならないからな」


 俺の言葉は、二人にとって予想外だったらしい。しばらく面食らった顔になった。


「大方『一緒に日本に帰ろう』って考えだろうな。確かに俺もゲームと水晶玉を渡されて、ここに連れてこられた。でもな、俺はここが気に入ってるんだ」

「ここはゲームの中じゃ、こうしてる内にも現実の時間は過ぎてるんじゃぞ? いつまで夢を見るつもりじゃ」

「結構結構。醒めない夢なら一生を潰す。魔物を倒して収入は安定、死ななければ不老不死の理想郷だからな」


 俺はそう言うと、起こした上半身を戻し、再びベッドに体を委ねた。


■■■■■□□□□□


 ゴウトとベルのやり取りを見て、ズパーがこっそりキオに耳打ちする。


「なぁキオ……話がどうも見えてこないのだが。『げーむ』とか不老不死とか、どういう事だ?」

「うんとね、実は僕たち違う世界からやってきたの。代わりに本人たちはどっか消えちゃったらしいけど……」

「違う世界? 本人?」

「そっ、だから爺ちゃんは本当に爺ちゃんで、僕もただの小学生なんだ。みんなには内緒だよ」


 そう言ってウィンクするキオを見て、ズパーは益々混乱に陥った。


「あんた方が冒険し、何かを成して現実に帰るのは結構。だが俺を巻き込まないでくれ。俺は好きでここにいるんだ」

「変わった奴じゃのう。無理してないか?」


 いつの時代でも老人はくどい。ましてや同じ日本人となると厄介だ。ゴウトは退く事もなく、俺に説得を続ける。


「お前さんも嫌じゃろう? 男なのに『ベル』だなんて、女みたいな役を与えられて」

「女だよ! これでも形式上は里一番の美女と言われてんだぞ!」

「ならばますます不憫じゃのう、このお腹じゃ誰も相手にしてくれまい」


 俺はその言葉に少しカチンときた。そして……。


「バカにすんな! これでも現実じゃ結婚してんだ!」


 言った後で、俺はハッとなった。それは、どうにか忘れようとしていた単語だった。


「家族がいるんじゃな。ならばお前さん、寝たきりの自分を、家族が介抱する光景を見た事あるか?」

「それは……」

「何度も言うが、こうしている内にも時間は過ぎるのじゃぞ。本当に帰らないつもりか?」

「……帰らないつもりだと? じゃあ聞くけどよ、お前ら、この世界から本気で出られると思っているのか?」

「それは……」


 俺はベッドから跳ね起き、荷物を片手で掻き集めると、窓に手をかけた。


「出来もしない事を言うんじゃねえ! このゲームにゃ目的も無ければ、ゴールもエンディングも無いんだよ!」

「待つんじゃ!」


 何かを言いたげな老人を無視して、俺は窓を突き破り、そのまま外へ走りだした。エルフは駿足でありながら、驚異的な持久力も持つ。休みなしで走れば、里まで半日で着くだろう。


(家族だと、余計な事を思い出させやがって……)


 焦りと不安を紛らわす様に、俺はガムシャラに走った。


■■■■■□□□□□


 静まり返った部屋で、ズパーが沈黙を破った。


「ゴウトさん、逃げられた様ですが……」

「問題ない。エルフもなかなか速いらしいが、竜人の比ではないよ」


 私が目をやると、キオは羽を開き、軽くはばたいていた。


「追っかけて……連れ戻すの?」

「いや、気付かれないように後を追ってくれ。場所を見つけたら、ゆっくりでいいから帰ってきなさい」

「はーい」


 そしてキオは、ベルが突き破った窓から飛んでいった。まるでロケットの様に、一瞬にして夜の街並みに姿を消す。


「さて、ワシはもう少し留まるが、お前さんは?」

「私は修業のやり直しですね。腕には自信があったつもりですが、策に敗れる様ではまだまだです」


 そう言って、ズパーは肩を落とした。


「ありゃあ、金王ではなく他の人間が……」

「奴以外の敵がいるのは分かってました。ただその正体を見極められなかった、負けは負けです」


 ズパーはマントを羽織り、立て掛けてあった大剣を取ると、出入口の扉に手をかけた。


「そう言えばゴウトさん……『首切りイゾウ』との一戦でお聞きしたかったのですが……」

「ん?」

「あんな全身凶器の怪物に、あなたはまったく怯む事無く向かっていった。どうしてあんな戦い方を?」

「そりゃあ……試合で怪我しても、最悪死んでも大丈夫と聞いたから……」

「……私は『死んでも大丈夫』と言われて、安心して死を選んだり出来ません。怪我だってそうです、痛みに耐えられても、好んで怪我をしたいとは思いません」


 ズパーは振り返ると、大剣を両手で持ち、刄を自分の顔に向けた。


「私は……あなた程にないにせよ腕力に自信はありますし、自分の限界も知ってるからこそ、冷静に動けると自負しています。ですが、やっぱり命は惜しいのです」

「命は、誰だって惜しいさ。ワシだって歳が歳じゃからな」

「あなたは……うまく言えないが、そんな次元の人じゃない気がします。死を少しも恐れていない、まるで人間じゃ……」


 言い掛けて、ズパーは慌てて話を止めた。


「失礼しました……私はまだ、未熟なのかもしれません」

「……一人で騒がしい奴じゃな」

「すいません。縁がありましたら、また……」


 やや歯切れを悪くして、ズパーは逃げる様に部屋を後にした。


■■■■■□□□□□


(エルフも速いんだなぁ)


 キオは余裕をもって後を追う。確かにエルフは足取りも軽やかに、そして力強い走りで野を颯爽と駆ける。


 しかし竜人になったキオは、その気になればジェット機並の速度で飛ぶ事が出来る。飛んだ所で相手をすぐ追い抜いてしまうし、まともにコントロールも出来ない欠点はあるが、加減した今の速度でも、ベルとは自動車とスポーツカーぐらいの余力の差があった。


(竜なら爺ちゃん乗せて飛べるけど、遅いし目立つからなー)

「おや、こんな所で会うとは奇遇だな」


 不意に声をかけられ、キオは横を見た。黒い竜に乗った男が、マントをなびかせ不敵な笑みを浮かべていた。


「お前は! えっと……魔王!」

「どうやら覚えていてくれたか。ゴウトは元気か? 今日は一緒じゃないのか?」

「関係ないだろ! 僕がどこに行こうと、一人でいても!」


 キオは迷った。追跡を中断して魔王を振り切るか、それとも無視するか。そのどちらかに踏み切るほど、キオにはまだ決断力がない。


「まぁいい。俺たちはこれから話し合いに行く所なんだ」

「俺たち……?」


 振り向いて見れば、いつの間にか大量の竜や魔物が飛んでいるのが見えた。あまりの軍勢に、キオはもし自分が戦っても返り討ちに遭うことを直感した。


「何だよ……そんなにゾロゾロと、何をするってんだよ!?」

「引っ越しさ。探してた物件があって、場所が分からなかったんだが、案内人がようやく見つかってな」

「案内人? もしかして……」


 眼下のエルフに目をやった瞬間、魔王が剣を抜くと、刄の先から電撃が飛び出した。キオは慌てて全速力で前方に向かって飛び出す。


「うっ!」


 辛くも直撃を避けるが、雷がほんの少し擦っただけで体全体の動きが鈍くなり、キオはすぐに失速し始める。


「どうやら目標は一緒みたいだな。さすが『選ばれし者』、まるで引力の様に勝手に引き合うんだな」

(爺ちゃん……爺ちゃん!)


 墜落するキオを尻目に、魔王率いる魔物の群れは、エルフの里に向けてその歩みを進めた。


■■■■■□□□□□


(空が騒がしいな)


 ベルはふと空を見上げる。エルフの超人的な目と耳が、上空を群れる魔物の軍団を捉えた。


(何だありゃ……どこかに向かっているのか? また戦争でもするのか?)


 ベルはふと故郷を案じたが、すぐに考えるのを止める。


(俺たちには関係ない。戦うなら好きなだけ戦ってりゃいいさ)


 いくら人間と魔物が争おうが、中立を貫くエルフには関係ない。そんな争い事には、とうの昔に足を洗っているのだから。


 しかし、一定距離を保ちつつ、魔王たちが正確に後を追っている事を、自分たちの里に誘導している事を、ベルは一切気付いていなかった。


 一方で、墜落していたキオは、懐から水晶玉を取り出していた。理由は分からない、ただ本能が体を突き動かす。


「爺ちゃん! エルフが危ない!」


 水晶玉を抱き、キオは力一杯に叫ぶ。水晶玉が青い光を放つと、彼の言葉は彼方に向かって伝達された。


「……キオ?」


 ゴウトは、ベルが壊していった窓の修理を止めると、耳を澄ました。


「……ちゃん……爺ちゃん……」


 微かに音が聞こえる。発信源を辿ると、道具袋の中で水晶玉が青く光っていた。


「キオ!」


 水晶玉を取り出し両手で握ると、落下するキオの姿が鮮明に浮かぶ。その瞬間、ゴウトは荷物をまとめて、窓を突き破り外へ飛び出していた。


(方角も分かる! 何があったか知らないが、キオの身が危ない!)

「お客さん! ちょっと!」

「非常事態じゃ! 修理費は置いていくぞ!」


 後ろから宿屋の主人が叫ぶ。ゴウトは振り返らず、金貨の入った袋を店に向かって放り投げた。


(距離は大分あるが……今は走るしかないだろ!)


 さすがに巨剣を抱えて馬には乗れない。ゴウトは剣を背中に縛ると、両腕を激しく振り、全速力で駆け出した。


■■■■■□□□□□


 この世界に膨大に広がる森林地帯、そのどこかにエルフの里はあると言う。


 エルフはかつて人間と手を組み、世界を襲った恐ろしい脅威に対し、共に戦った事があるが、現在では外界との接触を拒み、自分たちの領域に閉じこもっていた。


 そんなエルフの一人が今、森林の中へ姿を消した。秘密の楽園への入り口が、もうすぐ暴かれようとしていた。


「魔王様、準備は出来ています」


 後ろから声をかけられ、魔王が振り向くと、部下の魔物が斧を抱えながら、血走った目でこちらを見ていた。


「……スレタイか。分かっているだろうが、今回は交渉に来ているんだ。武力は最終手段、それを忘れるな」

「分かっていますよ……気性の荒さは種の本能。いつも通り理性でねじ伏せてみせます……」

「だと良いがな……」


 スレタイは一般的にはミノタウロス(牛男)と呼ばれる、半獣人の中でも獰猛にして、怪力で知られる種族である。


 その大半が血に餓えた戦闘狂であるのに対し、彼は珍しく理知的で、動く前に思考出来る冷静さがある。魔王はそんな彼の非凡な資質を買っていた。


「……他の連中の様子は?」

「良くはありません。どうも過程を理解してない様で、最初から闘志を剥き出しにする輩もいます」

「だろうな……」


 魔王はため息を吐いた。今回の目的はエルフの里に出向き、「出来れば」彼らを配下に加え、「確実に」土地を制圧する事だ。はたして部下にそれが伝わっているか……。


 そして「交渉」とは言うものの、誇り高いエルフが魔族に屈するとは思えない。ゆえに現在持てる兵力を総動員し、今回の「交渉」に望もうとしていた。


(戦闘が起きたら……かなりの犠牲が出るな)


 エルフの里は自然に囲まれた、森の要塞とも呼ばれている。入り組んだ地形や木々や川などの恵まれた資源は、人目を忍ぶ「魔王軍」の拠点にうってつけの場所であった。


(長年探していた土地だ、絶対手に入れる……が)


 魔王はふと、首飾りを握り締めた。


(イターシャは、きっと俺を許さないだろうな)


 降下を前に高揚する部下と裏腹に、魔王は一人虚しさを覚える。そんな彼を知ってか知らずか、スレタイは気を察して目を背けた。


■■■■■□□□□□


 森に足を踏み入れた途端、俺は心の底から安心する。現実じゃ蒸し暑く、裸じゃ虫に刺されるだろうこの鬱蒼としたジャングルも、ゲームでは精霊が住まう、気品漂う神秘の森だ。


(おや、ベルが戻った様だよ)

(あら、ベルが戻った様だよ)


 木々が囁き、瞬く間に森が会話を始める。それは人間や魔物には聞こえない、エルフだけが交信できる専用の情報端末でもあった。


「おう、今戻ったぜ」

(ベル、長は怒っているよ)

(ベル、長は待っているよ)

「だろうね、いつも通りだ」


 ここはエルフだけでない、動物も草木も、全てが等しく生きている。不必要とされる者も、取り立てて特別視される者もいない。


 全ては中枢部である『母樹』(ぼじゅ)と呼ばれる規格外の大木の下に、この森の生物たちは生かされているのだ。


「ようベル、今日も暴れてきたのか?」

「相変わらずひでー顔だな、お前の『美人』の基準がよく分からん」


 仲間のエルフが声をかける。片方は無視して、俺は手を振って応えた。


「ちょっと稼ぎになー、ダメだったけど」

「また無茶をして……いくら腕に自信があるからって、程々にしろよ」


 彼らは俺がベルでは無い事を知っている。おそらく本人と入れ違う様にして、俺がこの世界に来てから、本当のベルはずっと行方不明だ。本人には心底申し訳ない気持ちでいっぱいである。


 だが、彼らは俺を拒む事無く、普通に迎え入れてくれた。居住区と役割を与えられたその時から、俺はこの世界の一員となったのだ。


(俺は抜けるわけにはいかない、ここにいれば良いんだ。許される限りは……)


 闘技場に行った事、そしてあの二人の日本人も全て忘れよう。いくら水晶玉があった所で、抽象的なヒントじゃ無限ループすら用意された森の迷路を突破する事は出来ない。彼らの追跡は無いはずだ。


(今日も明日も、ずっと変わりはしないさ)


 俺は足取りも軽やかに、『長』の所へ説教を受けに向かった。


■■■■■□□□□□


「ベル、お前はまた外に出た様だね」

「長……」


 エルフは若く美しく、そして人間より遥かに長寿の生き物。それゆえに固体数は多くなく、一人いなくなるのと入れ替わるように、新たなエルフがこの世に生を受ける事を許される。


 そして、現時点で最も長く生きているエルフが一族を束ねる「長」として選ばれ、死を迎えるまで役目を全うするのだ。


 今目の前に立つ、小さくて少し老けたエルフの女は、見た目以上の威圧感を持って、俺をじっと見ていた。


「少し出稼ぎに……里の皆に土産でも持って帰ろうと」

「何度も言うが、私たちは外界との関わりを断った種族だ。この中だけで生きていくという事は、外に出る必要がないという事だ」

「分かっています」

「それなら、イターシャの事は教えただろう。かつて外に出たエルフが、どういう末路を辿ったか……」


 イターシャと呼ばれた女エルフの失踪を、同胞の間で知らない者はいない。好奇心で外界に飛び出したエルフが人間の男と恋に落ち、そのまま行方不明になってしまったのだ。


 個々の繋がりを大事にする集団意識の強いエルフにとって、一人でも仲間が欠ける事は、身体の一部を奪われる程に辛いという。ゆえに長は、外出を繰り返す俺を見ては何度も説教をするのであった。


「掟は分かっています。だからせめて、人目に付かない様にして……」

「いつものお前ならな。今日は一体何があった? 何故今日だけはそんな失敗を犯した?」

「失敗?」


 俺には何の事だか分からない。しかし表情を険しくする長の顔は、自分が致命的なミスを犯した事を悟らせる。


「まさか……いや、そんな馬鹿な……」

「やっと気付いた様だな。聞こえるか? 木々の騒めきを、武器を取り出す仲間たちの足音を。それはお前が帰ってきた道から起きているんだぞ」


 静かなはずだった森がざわつく。誰にも知られない領域で、緊急事態が告げる意味はただ一つ、侵入者の到来であった。


■■■■■□□□□□


「魔族が来たよ! 数は大勢!」

「魔族が来たよ! どんどん増えてる!」


 いつの間にか、周囲のエルフ達が武器を手に取り、木々がしきりに交信を繰り返している。種族の防衛本能が、迫りくる外敵に全力での対抗を試みようとしている。


「一部区域では既に交戦が始まっている様です」

「森が燃える……竜がいるのか?」


 エルフの会話を聞き、俺は絶句した。


「これはお前が引き起こした戦いだぞ。黙って立ってないで、お前も戦いに備えろ」


 燃え盛る森林。魔王は黙って、膝を着くミノタウロスを見下ろした。彼の手から離れた巨大な戦斧には、エルフの血がこびり付いていた。


「スレタイ、やってくれたな……見事なまでの大炎上だよ」

「魔王様……」


 手順は理解していたはずだった。こちらが高圧的な態度に出ても、手を出させるのは必ず向こうから。そうすれば戦闘理由に「自己防衛」という建前が加わり、場合によっては交渉材料にもできる。スレタイはもちろん、血気盛んな部下達にも奇跡的にそれは伝わっていた。しかし……。


 ほんの少し前の事、睨み合うエルフの大軍と魔物の集団。「提案」を持ちかける魔王の一言一句に、エルフたちはみるみるうちに美しい顔を豹変させていく。ギリギリと弓を引く音が聞こえ、それに呼応する様に魔物たちの息遣いが荒くなる。


 水槽ギリギリに貯まった水の様に、些細な衝撃で殺意が溢れだす緊迫した空気。問題はそのきっかけとなる「戦犯」がどちらの陣営になるか、それだけの話である。


 やがて時間は動き出した。きっかけはエルフの粗野な野次。それを最初に受け止め、感情のおもむくままに斧を振り上げたのが、スレタイだった。


「理性で抑えきれなかったか」


 魔王は冷たく言い放つ。こういう事態は想定出来ていたものの、彼が我慢ならなかったのは、絶対の信頼を置いていた部下の、期待を裏切る様な失敗だった。


「申し訳ありません。しかし魔王様、私はあの様な侮蔑を浴びせられ、我慢出来る程……」

「話をすり替えるな。お前が簡単な挑発に引っ掛かる、有りふれたミノタウロスだという事がよく分かった」


 魔王は振り向く事無く、歩きながら告げた。


「残念だ。お前は右腕には出来ない」


 事実上の降格を告げると、魔王は燃え盛る森林に単身突撃する。そして取り残されたミノタウロスは、一人地面に両手を付けたまま、絶望に打ちのめされていた。

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