美味しくない喧嘩
夫婦喧嘩は犬も食わない、なんて言うけれど本当だろうか?
「離婚だ、離婚! もうお前とはやっていけない」
興奮気味に父さんが怒鳴る。
「こっちだって、あんたみたいなダメ亭主はもうごめんよ!」
今度は母さんが、金切り声をあげた。
両親は互いに胸倉をつかみ合い、恐ろしい形相で睨みあっている。
どうしてこんな大喧嘩が勃発したのだっけ、思わず僕は首をひねった。
少なくとも数分前までは、どこにでもありそうな家族の食卓風景があったはずだ。その名残としてダイニングテーブルには、食べかけのカレーライスや飲みかけの水が並んでいる。
さらにテレビにはバラエティ番組が映されており、和やかな笑い声が絶えず響いている。だが不穏な雰囲気に包まれたリビングでは、その笑い声もいささか強張ったように聞こえる。
黙りこんだままの両親を、僕はただ静かに見守った。
やがて父さんは母さんの胸倉を離し、気持ちを押し殺すように歯を食いしばった。そして消え入りそうな低い声色で、父さんはつぶやいた。
「どうしてお前はこう、頑固なんだ……。幸一、お前もそう思わないか? 母さんのワガママに付き合わされる俺の気持ち、分かるよな」
僕が返答に困っていると、母さんはわざとらしい溜息をはいた。
「あたしがワガママ……? 冗談じゃない! こっちが主張しなきゃ、あなたは全部勝手に決めちゃうじゃない。次郎のことだってそうだし、桜子だって――」
父さんと母さんの闘いに拍車がかかる中、次郎のなき声が聞こえてきた。二度、三度、と繰り返しなき続けている。次郎は両親が争っている時、こうやって敏感に反応する奴なのだ。もしかしたら次郎なりに、喧嘩を止めようとしているのかもしれない。
だがその声も、両親の喧嘩を中断させるには至らなかった。
「ほうらっ、次郎のなき声が聞こえる! ママは悪くないよ、って加勢してくれているわ」
「ち、違うっ、あれは俺への声援だ。パパー、負けるなっ、ってな」
何だかアホらしくなってきた。それにこのまま次郎がないていたら、いいご近所迷惑だ。
僕が次郎のところに行こうとした時、父さんが驚くべき発言をした。
「離婚届だ、今から書くから俺とお前の実印、両方持ってこい」
離婚届、まさか父がそんなものまで用意していたとは知らなかったのだ。これがいつもの痴話げんかではないことを今更、身をもって知る。
母さんも予想外だったのか一瞬、顔をしかめたがすぐに余裕の表情になった。
そして隣の寝室に行ったかと思うと、判を持ってリビングへ戻ってきた。その目にはもう迷いがない、こちらも本気のようだ。
「持ってきたわよ。幸一、突然で悪いけど私たち離婚するから! どっちについてきたいか教えて、あなたの意思を尊重するわ」
何とも突拍子のない展開に、まったく現実感が湧かない。が、父さんと母さんの真剣な眼差しは間違いなく本物だ。
「ちょっと……。二人とも、本当に離婚すんの? ――やっぱり考え直してよ、あんな話で離婚なんてバカらし……悲しすぎるよ」
とうとう耐えきれなくなり、僕は本心を口にした。すると父さんが「あんな話とはなんだ!」と肩を震わせて怒った。
母さんは何も言わないが、僕を見る目が氷のように冷たい。おそらく父と同意見なのだろう。
「じゃあ先に、次郎と桜子をどっちが引き取るか決めるから。……幸一はそこでゆっくり考えなさい」
唇をわなわな震わせて、母さんは涙をみせずに言い放った。『そこで』と言われたからには自室に戻ることもできない。僕は黙って母さんの指示に従う。
「……どちらも俺が引き取る、文句は言わせんぞ」
父さんが静かな声で言った、すると母さんは目を丸く見開き、抗議の声をあげた。
「そんなの許せない。……次郎はまだ1歳、桜子はもう8歳! どっちもデリケートな時期なのに、あなたみたいなズボラ人に任せきれないわ」
「ぐっ、じゃあ次郎を俺が引き取る。それでどうだ?」
「わかった。次郎のこと、最後まで責任もって守り抜いてよ! ……私も桜子のこと、大事に育てるから」
「おう」
次郎のわんわんなく声が、唸るような声色に変わる頃。
とうとう両親は、離婚届を書き上げてしまった。――僕の親権を書き込む欄を除いて。
「さ、幸一。答えを聞かせて」
「大事な選択だ、慎重にな」
僕は両親に迫られ、逃げたい気持ちでいっぱいになる。
なぜうちの両親は、こういう時だけ仲がいいのだろう。
喉が乾き、額から大量の汗が流れていくのを感じる。僕はいまだに、これが夢だと信じたかった。じゃなきゃこんな状況、やっていられない。
「――ぼ、僕は」
意を決して口を開こうとした時、後方で物音がした。
家族総出で振り向くと、そこには寝室で寝ていたはずの桜子がいた。母さんが判を取りに行った時、寝室の扉を開けっ放しにしていたらしい。それも、父さんと母さんが激しい夫婦喧嘩をしていたのだ。目が覚めないはずがない。
桜子はひょこひょこと可愛らしい足取りで、僕たちの前までやってきた。心なしか、瞳がうるんでいる気がする。
そんな桜子から、父さんと母さんは気まずそうに目をそらした。しかし桜子にそんな小細工は通用しない。
桜子は純真無垢な顔で、二人の足にすり寄っていく。すると二人の顔は、少しばかり緩みかける。あと一歩だ。
僕は迷うことなく、桜子に向かって叫んだ。
「桜子! お前だって母さんと父さんが離婚するの、嫌だよな?」
その言葉に即座に反応したのは、桜子ではなく両親だった。先ほどまで二人の間に流れていた険悪なムードは、あっという間に払拭されていく。
もう、二人に争う理由なんてなかった。
「あなたっ!」
「ああっ!」
母さんが満足そうな顔で言い切った。
「犬種なんてダックスフンドでもプードルでも、どっちでも構わないっ!」
父さんも、うんうんと頷きながら嬉しそうな顔をしている。
「だってうちの桜子は、こんなにも可愛いのだからっ!」
外から聞こえてくる次郎のなき声も、いつの間にか遠吠えに変わっていた。
――夫婦喧嘩のきっかけは、ほんの些細なものだった。
次に飼う犬の犬種をダックスフントにするか、それともトイプードルにするか。
最初はそれを楽しそうに相談していた二人だったのだが、どうしてか夫婦喧嘩に発展した。
僕もまさか犬のことで、両親が離婚話を始めるなんて思ってもみなかったのだ。
だが今回の事件は、なかなかに奇妙なものだ。
まずは次郎。外の小屋で飼っている、雄のゴールデン・レトリバーである。
次郎の鳴き声による乱入で、夫婦喧嘩はより一層激しさを増してしまった。
そして桜子。室内飼いの雌チワワだ。
桜子の活躍があったからこそ、今回の件が解決したといえる。おそらく僕などでは、あの場を収めることはできなかっただろう。
無類の犬好きである両親が、犬も食わないような夫婦喧嘩をした。
しかしその喧嘩を収めたのも、また犬なのである。
それなのに「夫婦喧嘩は犬も食わない」などと、本当に言えるのだろうか?
ここまで読んでくれた方に、最大限の感謝を。
次郎も桜子も犬だった、という事実が伝わっていれば幸いです。