謝られた、そして思いついた。
◆
ハルと医月。
二人がお風呂から上がってまずしたこと。
「ごめん!」
「すみません!」
それはまず僕に謝ることだった。
なぜそのようなことをするのか。
それは、リビングで暖房をつけて毛布に包まりながら、ガクガクと震えている僕を見たからなのだろう。
彼女たちがお風呂に入っておよそ1時間。
僕は雨で濡れてしまった体や家をすべて拭いて、二人がお風呂から出るのを凍える体で今か今かと待ち続けた。
途中、医月のただならぬ悲鳴が聞こえてきたが、ここで僕が駆けつければ新たな問題が発生しかねない。
ゆえに、ただ待った。
ひたすらに待った。
苦痛な時間を耐え抜いて、やっとの思いで入ったお風呂は格別に気持ちが良かった。
体の芯まで温まり、僕がお風呂からあがるころには、すでに時計は夜の7時を回っていた。
なおも雨は降り続き、とても外にはもう出られそうにないので、医月はこのまま我が家に泊まることとなった。
異性の後輩が家に泊まる。
とは言ってもハルもいるから、なんの抵抗もなくすんなり決まり、医月の両親に連絡を済ませた。
「おばさんたちも、この天気で帰ってこられないんだって」
僕の両親と連絡をとったハルが言う。
「ということは僕たち三人だけか……。ご飯どうする?」
「鍋でしょ! あったまるし!」
言うやいなや、ハルはすぐに冷蔵庫を確認して、食材をほいほいと取り出す。
あの様子だと買い物に出かけなくても済みそうだ。
「先輩、こういうことってよくあるんですか?」
「こういうこと?」
「先輩の両親が帰ってこないこと……」
あぁ。僕たちが手馴れてるからそう思ったのか。
僕の両親は仕事大好き人間で、遅い時間に帰ったり、家に帰らない日もたまにある。
そういうときは、ハルと夕食を済ませるが、外食しに行くよりもハルが料理をすることが多い。
というか、それを想定して母さんも食材を事前に用意している。
そう説明してあげると、医月は、
「それって……もはやお二人は夫婦みたいですね」
「いやいや、そんなことは―――――」
「―――えっへへぇ~、そうだよねぇ。そうなっちゃうよねぇ~。コウの味の好みを把握してるし、コウの胃袋はあたしの手のひらの上だよ!」
「踊らされてるのかよ」
頼むからそこは掴んでくれ。
「それはそうと沙織ちゃんは何鍋が好き?」
「私ですか? 私はこう見えてキムチ鍋が好きです。辛口の」
「どう見えてかわかんないけど……。医月って辛党なの?」
「まぁ、嗜む程度ですよ」
なぜ、謙遜を見せる。
「あたしは断然、豆乳鍋かなぁ。おいしいうえにお肌にもいいし」
ハルは牛乳より豆乳派だしなぁ。
『たんぱく質を摂るためだ』って言ってよく豆乳飲んでいる。
「先輩は何が好きなんですか?」
珍しい。
医月がこういう質問をするなんて。
先ほどから思っていたが、僕に対する”角”というか”棘”というか、そういうものがなくなっている気がする。
良い変化だ。
「僕は水炊きかな。いろんな味で食べられるし、僕でもなんとか作れるしね」
「食材切って煮るだけですもんね。先輩でもそれくらいはできますか」
……あれ、ホントになくなってるよね?
そんなこんな雑談をしつつ、医月の好きなキムチ鍋を食べ終えた。
そして、食後のコーヒーを準備して、そのまま食卓で医月と僕で鳴芽についての情報交換をすることとなった。
「ふむふむ。だから、その数年前の交通事故のせいで鳴芽ちゃんって子は記憶喪失を起こすようになったわけだね」
何も知らなかったハルもここでようやく事情を知る。
よくそんな状態で医月を元気づけられたものだと改めて僕は感心する。
「鳴芽とはいつ出会ったの?」
まずは医月の話を訊こうと、当たり障りのなさそうなことから尋ねてみる。
「初めて同じクラスになった中学3年です。それまで、なんとなくでしたが事故のことは噂程度には知っていました。脳に障害が残っていることも」
「友だちになるきっかけとかは?」
「別に。特別なことはありません。ある日の授業の活動で同じ班になったときに初めて話をしました。妙に馬が合ったので、よく接するようになったってだけです」
たしかに。よくある話だ。
「初めて忘れられたのは、二人で休日に遊びに行った帰り道でした。急にあの子が激しい頭痛に襲われて……、私も無我夢中で声をかけたり、救急車を呼んだりしました。しばらくすると鳴芽は眠ったように気絶をしました」
「それは僕も経験したよ」
僕が初めて忘れられたあの病室で起きたのと同じだ。
「おそらく鳴芽が忘れるまでのプロセスは、”誰かと親しくなる→激しい頭痛→気絶→目覚めて忘れる”」
「忘れたらその人に関することだけすっぽりと記憶から抜け落ちる、と」
そこに違いはなさそうだ。
「ちょっと待ってよ!」
しばらく静かに話を聞いていたハルが勢いよく手を挙げる。
「そんな器用に大事な人の記憶だけ忘れられるものなの? 沙織ちゃんもコウも、そのときの鳴芽ちゃんにとってよく一緒に過ごす相手なんだから、記憶が"穴"だらけにならない?」
「それが大丈夫なんですよ。鳴芽は、本当に私との出来事すべてを忘れているし、それで不都合を感じてる様子もないんです。……おそらくですが、私たちと同じように眠っている間に記憶の整理がされているんじゃないかと」
確かにそうだ。
実際、忘れた状態の鳴芽と会っても全然平気そうだった。
ふつう、記憶が抜け落ちていれば違和感が残るはずだ。
しかも、鳴芽の記憶喪失は一回や二回じゃない。
トータルで考えれば、何か月か分の友だちとの記憶を失くしていることだってあり得る。
それなのに、鳴芽は普通に生活ができている。
祈梨ちゃんと家に行ったときもそうだ。
母親である泉美さんですら、鳴芽がいつ何を忘れたのか把握できていなかった。
それくらい記憶を失くしても、自然に生活できているのだ。
それはつまり、鳴芽自身も自分が記憶を失くしていることに気づいていない、のかもしれない。
「………忘れていることすら忘れている」
「そうです。それが鳴芽の実態だと思います」
曜さんと話したことと結びついたからつい呟いてしまったが、医月は肯定する。
「コウは、そんな子の記憶を取り戻そうとしてるんだよね? 今の今まで無関係だったあたしに言われたくないだろうけど、それってとっても難しくない?」
「ごもっともだよ。だから僕は、鳴芽に記憶を思い出させる方法……は、無理でも手がかりだけでも見つけたい。だから、医月の力を借りたいんだ」
「それは私もですよ、先輩。絶対、鳴芽に私たちを思い出させましょう」
かつてなかった、と思う。
今まで、力を借りたり、助言を与えたりしてきたものだが、初めてだ。
僕と医月が初めて足並みそろえて、同じ問題に向かって進もうとしている。
心強い。
そう思った。
「独学ながら、様々な専門書で調べてみての私の見解なんですが……人というのは、何かを思い出すと脳が活性化するらしいんです」
「活性化………?」
「ええ、つまり脳の働きを向上させることで、脳の記憶領域が回復するのではないかと」
「でも沙織ちゃん、素人のあたしたちにそんなことできるのかな……」
不安に思うのも無理はない。
しかし、それに対して医月は別段、臆さずに返す。
「失くした記憶全てじゃなくても。私は一番最初に失くした記憶が重要だと思うんです」
「鳴芽ちゃんが最初に失くした記憶って……ああ! 沙織ちゃんとの記憶か!」
「去年の私はそういった考えのもと、なんとか自分のことを鳴芽に思い出してもらおうとしていました。結果はまぁ………、散々でしたけれど」
少し俯く医月。
昔のことを思い出しているのだろう。
それでも、今の彼女にはその過去に向かい合おうとする気概が感じられた。
公園での投げやりな姿はもう感じられない。
やっぱり強いよ、医月は。
「先輩はどうなんですか?」
自分のことは話し終えたとばかりに、今度は僕へ問いかける。
「僕は………、申し訳ないけど、医月みたいに何か考えがあって鳴芽と何度も友だちになってたわけじゃないんだ。ただ、鳴芽の症状についてもっと深く調べられればいいやくらいだったね」
「そうですか………」
「でも、気になることならある」
そう。それは、なぜ『大事な人の記憶を失くす』という鳴芽は自分の母親のことを忘れないのか、ということだ。
「それって、つまり鳴芽ちゃんはお母さんのことを良くは思っていないってことなんじゃあ………」
「いいえ。ハルさん、それは違います。一度でも鳴芽の母親に会えばわかります。あの母親は、鳴芽のことを娘として愛していますし、鳴芽もそんな母親のことを大事に思っているはずです」
「それには僕も同感だ。なんなら、証拠―――もとい証言だってある」
あれは、僕が鳴芽に初めて忘れられた日のことだ。
鳴芽からいきなり好きな人についての話題をふられたときに、
『………わたしには、お母さんしかいないの』
と、言っていた。
そして、その直後に鳴芽は”発作”を起こした。
「………………?」
あのときの出来事を医月に伝えると、彼女は首を傾げて、なんだか不思議に思う様子で黙ってしまった。
「どうしたの?」
そんな様子にハルもまた不思議がった。
何かおかしいところがあっただろうか、僕とハルは顔を見合わせる。
「………先輩のその話から、ふと、思ったことがあって」
医月は続ける。
「私は少なくない時間を鳴芽と過ごしましたが、あの子から父親の話って聞いたことないなと思いました」
「事故で亡くなったっていうお父さんのこと? そりゃあ亡くなった家族のことをあまり自分から話すことってないんじゃない?」
「それは大いにあると思います。なにも不自然なことではありません。でも、鳴芽が言ったらしい『わたしにはお母さんしかいない』という言葉から思いついちゃったんです―――――」
医月が思いついたとされるその考えには、僕は賛成と言えなかった。
なぜなら、もし、その考えが正しかったら、あまりに泉美さんが不憫だからだ。
いや、だって、そうだろう?
「―――――鳴芽が父親のことも忘れていないか確かめてみませんか?」
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