予定した、そして尊敬した。
◆
白城さん―――いや、輪花が将来の進路を決めようとしている。
これを知った時、僕は冷や水を浴びせられたかのような衝撃を受けていた。
僕はこれまでに様々な困難と向き合ってきた。
世知原くんの依頼、閑谷会長からの問題、曜さんの説得、茜音さんへの協力、自分自身の不始末、ハルとの仲違い。
これらは全て、"今"をどうにかしようとしていた。
しかし、輪花の話で僕は『自分が何になりたいのかわかっていない』ということがわかってしまった。
あまりにも自分のやりたいことや興味があることについて無頓着だった。
輪花が言っていた『教師になりたい』というようなものが、僕には全くと言っていいほどにないのだ。
そろそろ考えなければならない。
もう三年生はセンター試験に向けて追い込みの時期だ。
来年の今頃はすでにそういった目標を決めておかなければお話にならないだろう。
僕は将来、どんな人間になりたくて、どんなことをやっていきたいのか。
今さらながらに"未来"に対して向き合わなければならないことに気付いた。
とりあえずは。
将来へと繋がる来週の期末テストを乗り切ることから考えていこうと思う。
「ねぇ、コウ。ここの……ベクトルの問題なんだけど」
「ん? どれどれ?」
輪花と呼ばされ、家に帰ると親はまたもや仕事に出かけて不在、夕飯の用意はされていたので、ハルが帰ってくるのを待って一緒に食べた。
そのときにハルから「勉強を教えてほしい」と頼まれてしまった。
聞いたところによると、ハルの成績は中の下らしい。
これではキャプテンとして後輩への威厳に欠けるということでものすごく必死だった。
僕はもちろん快諾し、お互い入浴を済ませたあと僕の部屋で肩をくっつかせ勉強をしているというのが今の状況である。
「なるほど! さすが進学校に通っているだけあるね! わかりやすい」
「空間ベクトルはとにかく問題の図に与えられた情報を書き込むのが鉄則だよ。それで見えてくるものもあるから」
「へえぇ。ありがとう! これで苦手な数学もなんとかなりそう!」
「うん……それはいいんだけど………ちょっとくっつき過ぎじゃない? もう抱き着いていると言っても過言じゃないと思うんだ」
「だ、だってさ、寒いんだもん。このぐらいしないと寒くて手が震えて字が書けないよ?」
「ちゃんと暖房もつけてるし、ハルから十分に体温も伝わってくるからそんなわけないよね?」
普段はしないのに、なぜこんなことをするんだ! と言うほど僕は鈍感ではない。
そこまで愚鈍ではない。
「あたしは自分で言ったことを実践しているだけなんだからっ! イヤなら突き放してもいいんだよ?」
「ズルいなぁ。僕がそうしないってわかってるくせに」
「えっへへへ」
何度も思う。
ちょっと前まではなかったこの二人だけの穏やかな時間が帰ってきてくれたことが何にも代えがたいほど嬉しい。
僕にとってハルはやっぱり大事なんだと思い知る。
「……正直なところを言うとね」
さっきまで笑っていたハルが急に影を落としてポツリと零した。
「コウに受け入れてもらえなかったらどうしようってずっと思ってたの」
「ずっと、って……?」
「ずっとはずっと、だよ? 自分の気持ちに気付いた小学校から今までずっと。不安だったんだぁ……こんなあたしのことをコウが嫌わないかって」
ハルは長い時間をかけて自分の気持ちを隠して、押し殺して、偽ってきた。
それがどれだけ途方もなく辛いことなのか、今の僕にならわかる。
僕もハルと少しだけ似ているから。
親友の恋人のことが好きな僕と。
相手に自分の気持ちを気づかれてはいけない。
自分の恋が報われてはいけない。
それが、どれだけ辛いことなのか。
僕は知っている。
「忘れたいと―――」
僕の脳裏にはある女の子が浮かんでいた。
「そんな苦しいだけの気持ちを忘れたいとは思わなかったのか?」
忘れたいと思ってもそう簡単に忘れられるものではないことはわかっている。
病気でもない限り。
しかし、僕は知りたかった。
今なお現在進行形で、自分の中にある恋心をひた隠している僕が今後どんなふうに彼女と接していけばいいのか。
そんなことを他でもないハルに聞いている時点で僕の人間性もまだまだ高が知れているが、当のハルは嫌な顔一つせず真っ直ぐに答えてくれた。
「思わない。だって、あたしにとってコウは大事だもん」
「…………は、はは」
あまりにもはっきりとした物言いにあっけにとられてしまう。
そっか、大事だからか。
大事だから忘れたいって思わないのか。そりゃそうだ。
「……………」
そこで僕は気づいてしまった。
なら、鳴芽はどうなんだ?
あの子は自分で忘れたいと思って忘れているわけではないはずだ。
医者や看護師さんが言っているようにあの子の記憶喪失は"発作"である。
それは偶発的なもので、故意的なものではない。
そして。
僕は何度か忘れらてしまうことで失くす記憶に法則性があるのではないかと考えていた。
僕が知る限りでは、鳴芽は僕、そして祈梨ちゃんや曜さんのことも忘れてしまっている。
親しくしている、または親しくしようとしている人物の記憶を失くしてしまう。
親しい人物、これは大事な人と言い換えてもいいだろう。
『空森鳴芽は大事な人の記憶を突発的に失くしている』
というのが素人ながら僕の経験則に基づく見解だ。
しかし、これにはまだ自分自身で腑に落ちない点が一つだけある。
何かが、前提が違う気がする。
そんな違和感にはっきりと気づいてしまった。
「――――ねぇ!」
「うおあっ!」
すっかり考え込んでいるところに急に大声を掛けられ心の臓が驚いた。
「どうしたの? なーんか笑ったと思ったら、今度は真剣な顔して黙っちゃってさ」
あまりにも突然僕が思考を始めてしまったものだからハルに心配かけてしまったようだ。
自分の気持ちもそうだが、いい加減鳴芽についても何か光明を見つけたいという願望も多分にしてあるようだ。
約束をしているんだ。自分のことよりもまずはそちらを果たすことを考えないとな。
「もう夜も遅いからかな。ボーッとしてたよ」
「それじゃあ、もう勉強会はお開きにしましょうかねー」
明日もよろしくね、とハルは言いながらいそいそとノートや問題集を片付けてしまう。
僕も明日の学校の準備をしていると、ハルは部屋から出ると思いきや引き返してきた。
カバンに教科書を入れる僕の手を掴んでは、少しもじもじとして言いづらそうしている。
意を決したのか顔を近づけては囁いてきた。
「あの、……コウ? クリスマスなんだけどさ―――――」
◇
クリスマス。
それはキリストの誕生を祝う日だ。
とは言っても日本において本当にキリストを祝っている人なんていないのかもしれない。
子どもにとっては、欲しいものが手に入る絶好のチャンスくらいにしか思っていないだろう。
その一方で、ある程度大人に近づいた人にとっては、恋人や好きな人と過ごしたくなる日だと僕だって知っている。
だからこそ、悩んでしまう。
こうも同じ日に、クリスマスについて相談を持ち掛けられるとは思わなかった。
女の子から、こんなお誘いされるなんて経験したことがない。
『受け入れる』どころではない。
どちらか片方を選べば、もう片方を切り捨てるということだ。
僕の中で、明らかな恋愛的な意味での優位性をどちらか一方につけるということだ。
こんなもの今の僕に答えを出せるわけがない。
だから僕は―――――
「返事を待ってもらうことにしたんだ!」
「さいってー、だね。お兄さん」
そう冷たく言い放つは小学六年生。
飛鳥田祈梨その人だった。
今現在は学校が終わった放課後の帰り道。
偶然出会った祈梨ちゃんとともに歩きながら、昨日の出来事を話していたところだった。
「いいかい、お兄さん。いやさ、向介」
「呼び捨てだと……」
こんな腑抜け呼び捨てで十分だよ、とさらに冷たく返される。
「女の子にとって、クリスマスに男の子を誘うなんて一世一代の大一番ってくらいに勇気を振り絞って決心するもんなんだよ」
「祈梨ちゃんはまるで経験があるみたいな言い方だね……」
「……ある予定だったよ」
「?」
予定?
「そんなことはどうでもいい。どうだっていい、んだよ。問題は向介のそのデリカシーのなさについてさ」
気づけば二人とも道端で立ち止まり、祈梨ちゃんは僕に詰め寄る。
無表情で。
「クリスマスはボクと遊ぼう」
「えっ、祈梨ちゃんと?」
「何か不満かい?」
「い、いいえ! 滅相もございません! むしろ、僕なんかと過ごしていいのかな~、……なんて。 ほら。普通、家族と一緒にお祝いするんじゃないの?」
「今年は両親ともに、用事が入ったらしいからね。お姉ちゃんがボクの面倒見る予定なんだけど、姉ちゃんだって……友達と過ごしたいだろうし」
そうか?
むしろ、あのアスカお姉ちゃんなら、祈梨ちゃんと二人っきりで過ごすことを最重要事項に設定しそうなものだけれど。
「………………」
いや。違うな。
祈梨ちゃんがアスカの邪魔をしたくないのか。
“友達”と過ごすお姉ちゃんの邪魔を。
「……よし! わかった!!」
「っ……! な、何がわかったんだよ、お兄さん?」
「クリスマスはみんなで過ごそう!」
「みんなって……まさか、お兄さんを誘った女性全員とかい!?」
「違う。祈梨ちゃんと……鳴芽とだよ」
「それって……」
そう。
これは宣言だ。
クリスマスまでに鳴芽の記憶のことを何とかするという無謀な宣言だ。
でも、これくらい自分を追いつめておかないといつまでも解決しないという予感があった。
祈梨ちゃんとの約束をずっと果たせないまま年を越したくはない。
「『ダメだったね』で終わらせない。また、あの時みたいにみんなで笑って過ごすんだ。……僕らの大事な友達を取り戻そう」
「……わかった」
そう言うと、祈梨ちゃんはランドセルから何やら手帳サイズのノートを取り出し、何かを書き出した。
「スケジュールに書いちゃったからね、お兄さん。クリスマスの予定はこれで埋まった。……姉ちゃんを説得するのには骨が折れるだろうけど。これだけは……絶対に」
再びランドセルにノートを入れ、僕の顔をじっと見つめる祈梨ちゃん。
覚悟が決まったかのように、その目はぶれることなく真っ直ぐと僕を射抜いてくる。
「ボク……にげちゃったけど、ボクも協力するよ。お兄さんと一緒にナルさんの記憶を取り戻す」
鳴芽が祈梨ちゃんのことを忘れたと聞いたとき、彼女は傷つく自分を守っていた。
自分のことを忘れた友達に“会わない”という選択をした。
それ自体が悪いことだとは思わない。
自分が傷つくとはっきり分かっているにも関わらず、飛び込んでいける人というのは果たしてどれくらいいるだろう。
僕には『性質』がある。でも、祈梨ちゃんは違う。普通の女の子だ。
そんな彼女が勇気を出した。
だったら、僕もそれに応えよう。
「……尊敬するよ、祈梨ちゃん」
「ん? 何か言ったかい、お兄さん?」
思わず漏れた本心が届くことはなかったようだ。
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