撫でた、そして忘れられた。
◆
空森鳴芽という不思議な少女と出会ってから一週間が過ぎた。
そろそろお盆の時期になるこの頃。
僕の病室は随分と賑やかになっていた。
「なんだよ、ナルさん。『WORLDS』も知っていたとはびっくりだよ」
「………この前ネットで……話題になってたから、読んでみたかった」
「じゃあこの漫画、貸してあげるよ。全部で十巻くらいだからきっと読み切れると思う」
「うん……うれしい………」
何の縁が結ばれたのか鳴芽も僕のところに来るようになった。
なんでも彼女は検査入院というやつでしばらく病院にいなければならないらしい。
この前会って別れたときに病院に戻って行ったのはこういう理由だったわけだ。
「お兄さん、何を呆けているんだよ。早く読んでくれないと持って帰れないだろう」
祈梨ちゃんは当然のようにいる。
というか鳴芽と結構仲良くなっている。
友達が少ない祈梨ちゃんに親しい人間ができるのは単純に嬉しく思うけれど、僕はなにかの義務かのように病室に本屋のように平積みされた祈梨ちゃんの漫画を黙々と読まされていた。
今読んでいるのは少女漫画『胸がキュッと』。
ドラマ化、アニメ化など様々なメディアミックスされている人気作品だ。
祈梨ちゃんは有名無名に関わらず色んなジャンルを好み乱読するタイプらしい。
この部屋に置いてある漫画のタイトルを見ても誰でも知っているものから、なんだこれはと思うものまである。
さすがにお盆の時期に差し掛かっており、そろそろ漫画を片付けなければ僕も病室を移動するし、祈梨ちゃんも夏休みが終われば今のように毎日は通えなくなる。
ため込んでいた僕が悪いのだが、こうも急かされるとかえって内容が頭に入ってこない。
もちろん面白いんだけれども。
「お兄さんって読むのが遅いよね。漫画とか普段は読まない人?」
「まぁ、昔ほどじゃないけどね。今は人の気持ちとかわかってきて、登場人物に感情移入とかできるようになったから嗜む程度には読むんだけど」
こうも一度に一つの作品を始まりから終わりまで読んだことはさすがにない。
熱中できるけど、一気読みはなかなかに疲れる。
「あ。昨日読むように言っていた『プラチナライフ』は読んでくれた?」
「消灯時間に見回りの看護師さんにビクつきながらも頑張って読み切ったよ」
「斬新だよね。ヒロインは主人公に嫌われたがるし、その主人公は自分のことを同性愛者だと思い込んでいるしさ」
確かに新しいと言えば新しい。
ヒロインは周りから好かれ過ぎて唯一自分を嫌ってくれる主人公のことを好きになったり、異常と知りつつ親友に好意を寄せる主人公たちの話の行方は引きつけるような絵も相まって僕は好きな部類だった。
やはり祈梨ちゃんとは気が合うのと同時に趣味趣向の部分でも似たようなものみたいだ。
「ねぇ……向介。同性愛者って………どういうこと……?」
今さっき祈梨ちゃんから借り受けた漫画から顔を上げて鳴芽は真っ直ぐに僕に訊いてきた。
僕が答えようとすると祈梨ちゃんが遮って、
「つまりホモってことさ」
「……なるほど」
「なんでそれでわかるんだよ、鳴芽」
一体、どんな教養を受けているんだよ。
怖くて聞けないよ。
「そういえばさ、鳴芽はなんで検査入院してるんだっけ?」
「知らないよね、そういえば」
僕は話を変えたい思いで出した疑問だったが、祈梨ちゃんも気になっていたことだったみたいだ。
僕たちが鳴芽について知っていることと言えば漫画好きで好奇心旺盛で大人しいくらいのものだ。
検査入院と言うからには体のどこかが異常なのか、なにかの持病なのか。
あまり知り合って間もない他人が訊いていいものかどうか判断しかねていたが、ついに訊き出そうと思った。
僕、というよりも祈梨ちゃんとこの子のためにも。
「………………」
訊かれた鳴芽は黙って自分の頭を指した。
ということは脳の障害かなにかだろうか。
これ以上は何も教えるつもりはないようで鳴芽は再び漫画の方に目を落とす。
何か事情でもあるのかと僕と祈梨ちゃんは顔を見合わせる。
これより詮索しないで置こうと言葉を交わすことなく二人で決めた。
しかし、脳の障害とは思ってもみなかった。
たかだか一週間程度だが、鳴芽とは普通に何の支障もなく過ごしていたというのに。
訊くことで疑問が大きくなってしまった。
まぁ、友達になれたのだからこれからわかることだろう。
微妙な空気の中、三人は三人とも黙々と漫画を読んでいた。
部屋にはページをめくる音だけが溶け込むだけだった。
しばらくすると、
「そろそろボクは帰るよ。今日から里帰りするんだ。お土産も買ってくるからナルさんとお兄さんは期待してていいよ」
と言って僕が読み終わった単行本を持ってきていた白いトートバックに入れて病室から出て行った。
里帰りということはしばらくここには来ないのだろう、少し寂しくなるな。
二人きりになったところでどうということもないが、時間はまだまだ昼時だし鳴芽まで帰ることもなかった。
突然、彼女が本を閉じて祈梨ちゃんが座っていた椅子に座った。
「どうしたの?」
「………なんとなく?」
なぜそのような行動をしたのか鳴芽自身がわかっていないようで、首を可愛らしく傾げる。
「………ねぇ、向介?」
「ん?」
「……すきな人………いる?」
「んえぇ!?」
唐突になにを訊いてくるんだこの子は。
理由を訊くと僕が読んでいた少女漫画を指さす。
どうやら僕が恋愛ものを読んでいるから話題として選んだみたいだった。
「好きな人、かぁ。わからないというのが答えじゃあダメかな……」
「わからない………?」
「今までこういった気持ちになったことがなくてさ。彼女のことを特別に思っているのか、これが果たして恋なのかよく、わからないんだ」
「なる、ほど………」
無理矢理納得するかのように、なんだか難しい顔をする。
理解しがたいだろうな、そりゃあ。
それこそ漫画じゃあるまいし、恋が何なのかわからないなんて。
「逆に鳴芽にはいるのかい? 好きな人とか」
聞くところによるとこの子は僕より年が一つ下の高校一年らしい。
小柄ではあるが、祈梨ちゃんよりも背は高いし言われてみればそう見えなくもない。
十五年も生きている女の子が恋の一つもしていないとは思わない僕はまさに少女漫画の影響を受けている。
「………わたしには、お母さんしかいないの」
それは……今は思いを寄せる相手はいないということだろうか。
僕のその考えはすぐに間違いだと気づかされる。
「友達とか、そういうの………わたしには……いない。唯一話をするのは今はお母さんと病院の先生くらいのもの」
「………………」
僕はとっくに鳴芽のことは友達だと思っているし、祈梨ちゃんだってそう思っているはずだ。
だから、いつもの僕ならばここで「友達なら僕たちがいるじゃないか」と返すのが僕の中の当然だ。
しかし言えなかった。
彼女を見ているとなぜだか不意に曜さんのことを思い出してしまったのだ。
六月の頃、白城さんと一緒にあの人の家であの人の話を聞いた時と同じような感覚を僕はこの鳴芽から感じてしまって、言葉が出てこなかった。
鳴芽は何度も言うように小柄で、女性にしては身長が高くて体つきの良い曜さんとは似ても似つかないだろう。
でも、自分には母親しかいないと言った鳴芽の表情はあの時の曜さんと同じだった。
何もかも諦めているような、自分ではどうしようもない現実と向き合っている。
そんな感じの雰囲気が僕に曜さんのことを想起させた。
「ねぇ鳴芽。君は一体どんな―――――」
僕は祈梨ちゃんと決めたことを破って彼女の病気がなにかを訊きだそうとした。
何がこの子をそんな顔にさせるのか、曜さんみたいな事情があるのか、僕は踏み込もうとした。
でもできなかった。
「うあ、ああああああああああああああああああ」
「どうしたの、鳴芽!?」
突然、鳴芽は頭を抱えて大声を叫び始めた。
酷い痛みがこの子を襲っているようで、あまり表情の変化を見せない彼女が今は筆舌しがたいほどに顔を歪ませている。
僕は慌ててベッドから降り、彼女に駆け寄る。
「どうしたっていうんだ、突然!? おい、鳴芽! しっかりして! 僕がわかる?!」
依然として髪を振り乱して痛みに耐えているが、僕の声が届いている様子はない。
遂に彼女は積まれた漫画を蹴り飛ばしながら部屋を駆け回るまでになった。
このままでは埒が明かない。
こういうときはどうすれば………って!!
「ナースコール!!」
僕はこのとき初めて白いボタンを押した。
どうか彼女を助けてくれと願いながら。
「鳴芽!」
僕は人が来るまでに何かできることがないかと思考したが、苦しむ彼女を取り押さえることしか思いつかなかった。
正直、傷に響きまくって息が詰まりそうになったが、鳴芽を助けたいという思いで無我夢中だった。
何度も僕は彼女の名前を呼び続け、正面から抱きしめる。
医学になんて当然精通していない僕にはもうこれくらいしかできなかった。
何回も痛みに暴れる彼女の肘や頭が僕の折れた骨を容赦なく刺激する。
意識が飛びそうになる。
だけど、声だけはかけ続けよう。
それが"友達"にできることなら。
たとえ相手がそう思っていなくても。
「鳴芽!!」
別に意識をしてやったことではなかった。
つまりは無意識での行動だったと思う。
気が付いたら僕は彼女を抱きしめながら頭を撫でていた。
少しでも痛みが和らいでくれたらとかそういう思いでやったことだろう。
意味があると思ってやったことではないのは確かだ。
しかし。
それが効を奏したのかはわからないが、みるみる内に鳴芽の苦痛を帯びた声は治まっていった。
結果残ったのは気を失った鳴芽と憔悴した僕だった。
何分必死だったから看護師が来るまで僕はずっとそうして撫でていた。
「…………さん」
なにやら鳴芽が呟いた気がしたが、あとは専門の看護師に任せて僕も意識を手放した。
◇
あの後、鳴芽は自分の病室に運ばれ僕も無茶をしたせいで快方に向かっていた傷がまたもやズキズキと痛みだした。
僕の担当の看護師が痛み止めをしてくれながら、鳴芽についての事情や今回の事態の説明がお互いになされた。
そこで聞いた情報によると、
「あの子……空森さんはある特殊な記憶障害なの」
「とある交通事故で父親と巻き込まれたことが原因らしくてね」
「残念ながら父親の方は亡くなられ、空森さんは突発的な記憶喪失を起こすようになったらしいてね」
「今回もその"発作"が起きて記憶を失くしたと彼女の担当医が言っていたわ」
とのことだった。
彼女が自分の頭を指さした理由がこれで判明した。
だからなんだと僕は思った。
鳴芽が無事であればそれで良いとただそれだけで僕は安心した。
部屋はその担当の看護師さんが片付けてくれて、何か鳴芽についてわかったことがあれば教えてくれるという約束をして、再び僕は一人になった。
「祈梨ちゃんが帰ったあとで良かった」
彼女には黙っておこう。
整理して事情が上手く話せるまで。
まるで嵐が過ぎ去ったかのような静けさを感じながら僕は考える。
看護師さんは鳴芽の激しい頭痛を"発作"だと言っていた。
ということは今回のようなことは初めてではないってことか。
突発的な記憶障害だと言っていたが、それは今回のように突然頭痛が襲ってきてそして記憶を失くすあるいは混乱が起きるということなのだろうか。
如何せん素人考えの浅はかな考察だからというのもあるし、わからないことが多すぎる。
これは看護師さんの知らせを待つ他ないみたいだ。
今の自分にできることはないみたいなので、大人しく漫画の続きでも読もうと思っていたら突然病室の扉から「コンコン」とノックの音が聞こえる。
突然じゃないノックもないかとか益体もないことを考えながら僕は「どうぞ」と返す。
また看護師さんかなと思っていたら違っていた。
そこにいたのは僕の後輩だった。
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