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彩桜学園物語~在りし日の思い出~  作者: ルーラー
嵐の前の静けさ編
5/29

第四話 始まりの日

 ――始まりは、いつだっただろうか。

 『僕たち』の物語の、始まりは。



 目の前に、小さな女の子がいた。

 年の頃は三歳ほど。

 僕より二つ年下の、女の子。


 そう状況を認識したところで、僕は気づく。


 ――ああ、僕はいま、夢に見ているのか。

 初めて片山荘を訪れたときのことを、夢に。


 僕は五歳。

 絵を描くのが大好きなだけの、この世界のことなんてなにも知らない、幼い子供。

 そんな僕は、目の前の女の子に挨拶した。


「はじめまして。ぼくは、りお。たちかわ、りお。……よろしく?」


 おかっぱの髪を揺らしながら、こくこくとうなずく女の子。

 それから、ぽつりとこぼれる言葉がひとつ。


「……こずえ」


「こずえ、ちゃん?」


 こくり、とうなずく。

 そっか、とつぶやき、僕は続けた。


「ぼく、おとうさんたちときたんだ。なんにちか、ここにいるんだって。だから、なかよくしようね」


 まるで、花が咲いたようだった。

 僕の言葉に、女の子は輝くような笑顔を浮かべて、勢いよく首を縦に振る。



 ……ああ、そうだ。

 これが、始まり。

 『僕たち』の、始まり。

 『僕たち』の物語の、始まりだったんだ。


 僕が笑って。

 梢ちゃんも笑う。


 梢ちゃんが笑って。

 僕はまた笑う。


 昨日の力也の話みたいだな、なんてことをふと思った。


 二人の浮かべている表情は、どちらも笑顔。

 それが段々、ぼやけてきた。

 夢の奥へと、消えていく。

 それに名残惜しさを感じないといえば嘘になるけれど。

 でも、不思議と寂しさは感じなかった。

 だって、すぐに次の場面が映しだされたから――。



 翌日は快晴。

 僕は中庭で絵を描いていた。

 梢ちゃんと並んで土の上に座って、お世辞にも上手とはいえない絵を。


 昔、親から聞かされたことだ。

 僕は赤ん坊の頃から鉛筆を握るのが大好きだったって。

 特に、色鉛筆が大好きだったって。

 そうそう、とりあげると大泣きして大変だったのよって言われたこともあったっけ。

 そんな僕が絵本作家になりたいと思ったのは、実に自然なことだったのだろう。


 スケッチブックに引かれていく、何本もの黒い線。

 真剣な表情と心持ちとで描き進めていく僕と、隣ではしゃいる幼い少女。

 それは、とてもとても穏やかで、温かな光景で。


「でーきたっ!」


 やがて、絵は完成し、僕はそれを梢ちゃんに見せた。


「どうかな?」


「あたたかい、え。クマさん、かわいい」


 その言葉に、幼い僕は困ったような表情になる。


「クマじゃなくて、タヌキなんだよ。それ……」


「え……? でも、クマさん。まっくろな、クマさん」


 ああ、やっぱり鉛筆じゃこれが限界なのか。

 詰まってしまった僕に、たどたどしく梢ちゃんが言葉を続ける。


「タヌキさん、なんだ……」


「そうだよ……」


 僕は肩を落として、すっかり落ち込んでしまっていた。

 同時に、色鉛筆を使えばこうはならなかったのに、なんて思ってもいた。

 そんな僕の様子に、少女はなにを思ったのか、


「……ごめん、なさい」


「えっ!? な、なんであやまるの!?」


「だって、これ、タヌキさん。……まちがえた。わたし、だから……」


 目尻には、わずかに光るものが。

 それを見て、僕は慌てる。


「こずえちゃんがあやまることないよ! ええと、ほら、その……。そう! こんどはもっとキレイなえんぴつをつかうから! もっとキレイなの、かいてあげるから!」


「うん……」


「えと……そ、そうだ。こずえちゃんは、こんど、なにをみたい? なにをかいてほしい?」


「……すん。キツネ、さん……」


 ちょっとだけ涙声になってしまった彼女に、僕は小指を立てて左手を突き出した。


「うん。じゃあ、つぎはキツネさん。やくそくだ」


「……うん。やくそく」


 約束という言葉の意味を、当時の彼女は果たして知っていたのだろうか。

 まだ三歳の女の子なんだ。知らなくても無理はない。

 でも、たとえ知らなかったのだとしても。

 僕たちはそのとき、確かに小指を絡めあって、約束を交わした。

 言葉の意味はわからなくても、きっと、心の奥底では理解できたに違いない。

 いまになってみれば、そう思えた。



 ――夢を見るのは、浅い眠りのときだ。

 だからこのあとは、目が覚めるか、夢も見ないくらいの深い眠りに移行するか、そのどちらかになる。


 いまは、前者。

 訪れるのは、目覚めのとき。


 ところで、と僕は思う。

 いま見ていたのは、かつて、本当にあったことなのだろうか。

 それとも、僕の心が作りだした、優しいだけの幻想だったのだろうか。


 その答えは、出ないまま消えていく。

 目覚めと共に、消えていく。

 夢とは、そういうものだから――。


 ◆  ◆  ◆


 布団の中、アラームが鳴る音で目を覚ました。


「……ん」


 手を伸ばし、枕元にある携帯電話に手を伸ばす。


「もう、朝か。――なんだろう。なんか、すごく……」


 寂しい、ような……。


 ときどき、こんなことがある。

 直前まで見ていた、夢の残滓ざんし

 そうとも呼べるものが、郷愁きょうしゅうじみた懐かしさを胸に残す。


「どんな夢を、見てたんだったかな……」


 もやがかかったようになっている、夢の中の記憶。

 それをたぐり寄せようと、ぼんやりしたままの頭で考えようとする。

 その、瞬間――。


『――起こったことよ セピアにかすめ』


 脳裏に、少女の姿が浮かびあがった。

 綺麗な金色の髪をポニーテールにした、十代後半の少女の姿が。

 いつ、どこで会ったのかもわからない、女神を連想させるような少女の姿が。


『――心の傷あと もう増えることのないように』


 頭の中で響く声。

 誰かに語りかけられているわけじゃない。

 昔、ここで暮らしていた頃のことに思いを馳せるその度に、頭の中で再生されるのだ。

 何度も、何度も。その少女の、美しい声が……。


 ……ああ、それは。

 なんだか、とても……。

 優しい……響きに、満ちて……い、て……。



 …………。


 ……………………。


 ………………………………。



 ……気がつけば、夢の中の出来事は遠いどこかに行ってしまっていた。

 そう、たぐり寄せることなんてできないくらい、遠くに……。


 十年、あるいは、それよりもさらに前。

 僕と梢ちゃんは、確かに同じ時間を共有していた。

 そういう過去が、確かにあったはずなのだ。

 でも当時の記憶は、とても曖昧。

 あやふやで、まるで雲のようにふわふわだ。


 思いだそうとしてみても、どこからともなく聞こえてくる少女の声に邪魔されてしまう。

 言葉を交わした記憶はおろか、見た覚えすらない彼女の姿に邪魔されてしまう。……でも、これは本当に『邪魔』なのだろうか?


 ふと、昨夜に力也とした会話を思いだす。

 宿題を終えて、自室に戻るときに彼に尋ねた話のことだ。

 僕が力也に訊いておきたくて、二人で廊下を歩きながらした会話のことだ。


 彼が炊事場で長々とした、過去語り。

 その中には、金髪の女性が登場していた。

 そう、まだ荒れていた頃の力也を改心させたという、彩桜学園の理事長のことだ。


 僕の知る金髪の少女と、彼の話に出てきた金色の髪の女性。

 その二人に、関係はないのだろうか。

 もっといってしまえば、同一人物だったりはしないだろうか。


 力也が答えてくれたところによると、理事長の髪は腰まであったという。

 それなら、十代後半の頃はポニーテールにしていた、という推測だって成り立つんじゃないだろうか。


 彼によると、理事長は二十代半ばの女性だったという。そして、それはいまから約二年前の理事長の姿だ。

 なら、僕があの少女と会ったのが、十年くらい前のことだったと仮定してもいいのなら、同一人物としてもおかしくないんじゃないだろうか。


 そこまで思考を続けて、急にそんなことはどうでもよく感じられた。

 だって、もし仮にそのとおりだったとして。

 理事長が、僕の脳裏にときどき浮かぶあの少女と同一人物だったとして。

 一体、それをどうやって確かめる?

 確かめて、それになんの意味がある?


 いますべきなのは、過去を探ることじゃない。

 遅刻せずに学園に行くことだ。

 布団から抜けだして、制服に着替えて、炊事場に行くことだ。

 そう思って携帯電話に目をやれば、なかなかにヤバい時刻を差している。


「……うわあ」


 跳ねるようにして起きあがり、僕は急いで布団を畳みにかかるのだった。


 ◆  ◆  ◆


「――おはようっ!」


 必死の形相で炊事場に飛び込む僕。

 それにまず、あすかが呆然とした表情を向けてきた。


「理緒がこんなに遅くやってくるなんて、珍しいこともあるもんだ……」


 それに追随ついずいするのは、もう朝食を終えた様子の力也だ。


「まったくだぜ。それ、いつもはオレの役割じゃねえか」


 美花ちゃんも、食パンをオレンジジュースで流し込むようにして、


「今日は力也くん早いね~って話してたら、これだもんね。さては、力也くんの寝坊菌が理緒くんに感染うつったとみた」


「オレ、そんなもん持ってねえよ! いや、サルモネル菌なら持ってるかもだけどよ!」


「力也、それを言うならサルモネラ菌だから。持ってたら寝坊じゃ済まないから。下痢げり起こすから」


 もはや日課となりつつある力也への突っ込みをしながら、自分の席につく。今日の朝食は洋風。食パンが二つに目玉焼き、それとサラダだ。

 「いただきます」と口にパンを運んだところで、あすかから文句の声が飛んでくる。


「食べてるときにゲリとか言うな、バカっ!」


「あ、ごめん。つい流れで……」


「……って、しまったあ! あたしも言ってしまっていたっ!」


「や、それは仕方がないかと」


 僕は苦笑しながら立ちあがり、冷蔵庫からミルクティーの2リットルペットボトルを取りだす。

 すると僕の隣、美花ちゃんの対面に位置する席から、


「理緒、わしにも回してくれ。お主がぎ終えたあとでよいから」


 という女の子の声が。

 「了解」と答えて、妙に年寄り臭い言葉を使う少女に顔を向ける。

 彼女は一号室に住む、彩桜学園の中等部に通っている一年生だ。名前はフィアリスフォール・アルスティーゼ・ド・ヴァリアステイル。

 いまはセーラー服を着ているけれど、いつも身につけているのは貴族が着るような紫を基調としたワンピースで、彼女自身も長い銀髪に綺麗な声色、と貴族と呼んで差し支えない容姿をしていた。


 でも一番目をひくのは、そのふたつの赤い瞳だ。

 いつからだっただろうか、それを見るたびに、僕は引っかかるものを感じるようになっていた。

 それは、いつだったか、確かにどこかで見たことのあるもの。間違いなく、どこかで……。


 ともあれ、コップにミルクティーをそそぎ終え、ペットボトルを彼女に渡す。

 ちなみに、この娘の名前は非常に長いので、僕も含めたみんなが、彼女を『フィアリス』という愛称で呼んでいたり。


「フィアリスフォール、私にも回してくれ」


 いや、ひとりだけ例外がいた。

 炊事場にいる人間の中で唯一、私服……というか、黒いスーツを着用している男性が、フィアリスに向かって手を差しだす。

 それに彼女は眉をひそめて、


「まだ注いでおらんのじゃ。しばし待て、黒江」


「承知した」


 短く、それだけを返す黒江さん。

 その顔には、いつだって絶えずに柔らかな微笑びしょうが浮かんでおり、それはもちろん、今日も変わらずそこにあった。

 いつも思う。

 彼の微笑は仮面のようだ、と。

 本性を隠すための擬態ぎたいのようだ、と。


 彼のフルネームは黒江くろえ栄太えいた。三号室に住む、二十七歳の男性だ。

 僕が初めてここにやって来た日に聞いたところによると、彼はこの片山荘に住んでいる人間の中では最古参で、幼い頃の僕とも面識があるらしい。

 もちろん、僕にその記憶はないわけだけれど。


 さらに、僕が梢ちゃんと疎遠になったのは、僕たちの共通の祖父――天野大善たいぜんが亡くなったときからなのだけれど、彼はその祖父の葬式にも出たし、それ以前にだって祖父と面識があったという。

 祖父とどういう親交があったのか、具体的には訊いてないけれど、まるで後見人こうけんにんのような姿勢で梢ちゃんに接しているのだから、よほど親しい間柄だったのだろう。


 そう、悪い人ではないのだ。

 それなのに。

 なぜ、なのだろう。

 僕は彼に苦手意識を抱いている。

 恐怖、とまではいかないのだけれど……。


 かすかに肌が粟立あわだつ。

 いつもそうだ。

 このことを考えると、頭のどこかで警鐘けいしょうが鳴らされるのを感じてしまう。

 誰が鳴らしている鐘なのかも、わからないというのに……。


「あっ! それ、あたしの目玉焼きっ!」


「いや、ちょっと足りなくってよ。あとお前、食べるの遅すぎだろ」


 声がしたほうに目をやれば、力也があすかの目玉焼きを口に入れていた。


「吐け、こらっ!」


 席を立ち、彼女は力也の隣へぐるりと回りこんでくる。

 なにかの拍子におかずでもひっくり返されちゃたまらないと、僕は急いで自分の席に戻った。

 そして、高く振りあげられるあすかの右脚。大きくひるがえるスカート。……って、昨日された注意をもう忘れてる!?


「こっ……のおっ!!」


「ぐはぁっ!?」


 ドスッと力也の顔面にめり込む、彼女のつま先。

 でも、今回責められるべきはあすかではないだろう。

 それに、だ。

 いま、彼女はスカートの下になにを履いていた?

 いつも履いている白いものは確認できなかったぞ?


 痛みに悶える力也と、呆然とする僕。

 それを横目で見ていた美花ちゃんが、勝ち誇ったように胸を張る。


「見た!? いまの!!」


「――見た、けど……」


「名づけて、ブルマガード! いまのがモロにそうだったけど、あすかちゃんが蹴りを入れるときってさ、なんだかんだで力也くんに非があることも多いからね。なので、蹴るなっていうのも酷かと思い、ちょっと防御策を講じてみました!」


「できれば、蹴らなくてもよくなるような策を講じてほしかったなあ。確かにいまのは、力也に非があったわけだけどさ……」


 でも、きっとそれは過ぎた願いなのだろう。

 うん、これで充分とするべきだ。


「でも、なんでブルマ? スパッツでもよさそうなものなのに」


「お? 理緒くんはスパッツ派?」


「そういうことを言ってるんじゃないよ!」


「ごめんごめん。……ほら、うちの学校って入学時にブルマかスパッツか選べるじゃない? 制服もセーラー服タイプとブレザータイプから選べるわけだけど。で、まあ、あすかちゃんはブルマのほうを選んでいた、と。ただそれだけの理由なんだけどね」


「なんだってそんな、絶滅寸前のものを選んだんだか……」


「さあ? でも、私としては大歓喜! 当時のあすかちゃん、グッジョブ!!」


「……まあ、そういう反応になるよね、美花ちゃんは」


 まったくこの娘は、と白い目を向けてしまう。


「あっ、なにその目! 本当は理緒くんだって大歓喜してるくせに!」


「してないから」


 軽く流す。ここで声を荒げたら彼女の思うツボだ。


「ちえ~っ。理緒くん、ノリが悪いんだから。……ちなみにね、ものすご~く迷ったんだよね。『ブルマ履いてるから恥ずかしくないもん!』と『下着履いてないから恥ずかしくないもん!』のどっちを勧めるか」


「迷うまでもなく前者でしょ!」


「いや、あすかちゃんだったら、あるいは……」


「無理だって! というかさ、後者を勧めてたら、僕は美花ちゃんに変態の烙印らくいんを押してたと思う」


 いや、あんな発想が出てきてる段階で、もう充分過ぎるほどに変態なのかもしれないけど……。


「相変わらずキツいね~、理緒くんは」


「普通の反応だって」


 そんな会話をしているうちに、食事が終わった。

 みんなで囲む食卓は、いつもこんな感じだ。

 口を開くのは、あすかと力也と僕で、たまに美花ちゃんやフィアリスも割って入ってくる。

 黒江さんは例の微笑を浮かべたまま聞き役に回り、梢ちゃんはというと、一口が小さいからか、ひたすら食べるのに必死になっていた。


 まあ、梢ちゃんの場合は、そんなに大声を出してエネルギーを使ってもいられないのだろう。夕方には片山荘の掃除をしたりとかもしてるわけだし。

 それに彼女自身、大声で突っ込みを入れるようなタイプでもないからなあ。


 ちなみに、朝食や夕食がこんな賑やかになったのは比較的最近のことで、それまでは各々、適当に食事をとっていた。

 それがこういう形になったのは、力也の金欠が原因だ。

 彼は実家から仕送りしてもらっているらしいのだけど、使い方に計画性というものがないのか、はたまた食べる量が多すぎるのか、月末になると『今月ピンチなんだよ~』と、いつもいつもこぼしていた。

 そして、こぼしついでに、あすかからお菓子を恵んでもらったりもしていた。


 月末は必ずこうなるので、半ば、あすかのほうはづけにも似た気持ちでお菓子を用意していたらしいのだけど、これじゃダメだと力也が僕に頼みごとをひとつ、してきた。

 いわく、


 ――オレに代わって家計簿をつけてくれ。


 最初はすげなく断ったのだけど、その場で土下座までされてしまい、しぶしぶながら引き受けることに。

 そして、ある事実が発覚した。

 力也はこれといった無駄遣いをしていなかったのだ。

 いやむしろ、娯楽にお金を使っていなさすぎだった。仕送りのほぼすべてが『食』にてられていた。

 月に十冊近く本を買い込んでいる僕とは雲泥うんでいの差だ。筋トレが趣味とのことだから、別に無趣味ってわけではないのだけれど……。


 こうなると、さすがにちょっと哀れにもなってくる。

 僕は片山荘の住人を炊事場に集めて、このことを報告した。

 そうするとあすかが、


『そういえばあたしは、自活できるようになるためにここに残ったんだった。力也と違って、自炊できるようにならなきゃいけなかったんだ。すっかり忘れてた……』


 とこぼし、続いて美花ちゃんが、


『だったらさ、朝と夜は女子が作るっていうのはどう? 男子は食費を納めるってことで!』


 と提案。

 そうして、いまの食事の形ができあがったわけである。


 まあ、そうはいっても、まったく手伝いをしないわけじゃない。

 僕と力也が、皿洗いぐらいならと申し出る日だってあったし、体調が優れないという美花ちゃんの代わりに台所に立ったことだってある。


 食費のほうは、力也が仕送りしてもらってるうちの実に八割近くを入れてくれていた。

 もちろん僕と黒江さんも入れているのだけど、梢ちゃんがもらしていたところによると、力也が入れてくれている分だけで全員の食事代がまかなえてしまっているのだとか。


 つまり、あれだ。

 力也は自炊を一切せずに、食事をすべてコンビニ弁当とかで済ませていたから、金欠に陥っていたのだ。

 ちゃんと自分で作っていれば、一ヶ月なんて余裕でもっていたのだ。

 というか、昼食は各自でとっているとはいえ、七人を一ヶ月も食べさせることができる額を納めてるだなんて……。


 余談になるけれど、美花ちゃんの提案に最初、あすかは不満そうにしていた。

 いまにして思えば、きっと力也にお菓子をあげる機会が少なくなるのが嫌だったんだろう。

 そんなことを思い、つい忍び笑いをもらしてしまったときだった。


「理緒、今日の放課後、頼んだからな」


 隣から飛んでくる、あすかの確かな緊張を感じさせる声。


 今日の放課後。

 演劇部からのスカウトを断りに行く件のことだろう。


「うん、大丈夫。あすかの先輩が三人もいるんだから、大船に乗った気でいてよ」


 それに力也も胸をドンと叩いて、


「そうだぞ、あすかっち! 目玉焼き食っちまった分の働きくらいはしてやるさ!」


「それは、逆に不安になるな……。目玉焼きひとつ分の働きなんて、あたしだったら部室の前まで行くだけで終わってしまうぞ」


「なに、オレの中での目玉焼きの価値は、もうちょい重い。やれと言われれば、いますぐ演劇部員を全員、叩きのめしてきてやるぜ?」


「やれ」


「よしきた!」


 勢いよく席を立つ力也。

 それには隣にいたあすかのほうが慌ててしまい、


「バカ! いくらなんでも冗談だ! 本気にするやつがあるか!」


「わーってるよ。オレのほうだって冗談だ。……暴力じゃ、なにも解決しねえからな」


 力也が言うと説得力あるなあ、その言葉。

 と、そこで朝食を終えた梢ちゃんが顔をあげた。


「ごちそうさまでした。――そろそろ、出る時間ですね」


 室内にある時計を見ると、確かにもうそんな時間だ。


「だね。じゃあ、行こうか」


「はい。――黒江さん、お留守番よろしくお願いします」


「任されよう。皆、思う存分勉学に励んでくるといい」


 黒江さんの言葉を受け、僕たちは一度解散。

 部屋に戻って、鞄の中身を確かめて。

 さあ、今日も頑張るぞ、と部屋から出る。


 玄関口に辿りつくと、そこにフィアリスと黒江さんの姿があった。


「黒江、よからぬことは考えぬようにな。ここは本来、イリスフィールの管轄地かんかつちじゃ」


「承知していますよ。実際、これといったことはしていないでしょう?」


 普段とは違い、なぜか黒江さんはフィアリスに丁寧語で応じている。

 彼女のほうも、それがさも当然であるかのような自然な態度で嘆息し、


「……まあ、の。じゃが十年ほど前のアレには、イリスフィールも腹を立てていたではないか」


「私としては、別に悪意を持ってやったわけではなかったのですがね」


「確かに、悪いことではない。……わしとて、あれからすぐ梢相手に似たようなことをやったしの」


「ではお互い、似た者同士ということで」


 黒江さんのその言葉に、心底うんざりした表情になるフィアリス。


「それはご免こうむる。わしはお主のような性質たちの悪い趣味など持ち合わせておらんのでな。そも、わしはお主の監視も兼ねて、ここに住んでおるのじゃぞ? そのこと、よもや忘れてはおらぬだろうな?」


「もちろん、重々承知していますよ。――と、そんなところに突っ立ってどうしたのかな? 理緒くん」


 呼びかけられて、ビクッと身体が竦んでしまう。


「あ、や、別になにも……」


 そこまで口にしたところで、ドタドタと廊下を走ってくる音が聞こえてきた。……助かった。

 フィアリスが口許に優しげな微笑を浮かべ、注意を促す。


「これこれ、廊下は走るでない。それに、急がずとも学園は逃げぬであろう?」


 それに返すのは、走ってきた力也だ。


「逃げなくても、遅刻はしちまうだろ! つか、逃げてくれりゃどんなにいいか!」


 まあ、確かに学園のほうが逃げてくれれば遅刻はしないですむけどさ。

 力也に遅れて、あすかと美花ちゃん、そして梢ちゃんも玄関口にやってくる。


「さあいくぞ! 赤信号、みんなで渡れば怖くない、だ!」


「放課後のことが不安なのはわかるけど、あすかちゃん、その合言葉はどうなのかな……」


「お待たせしました、理緒さん。では、行きましょうか」


 そうして、僕たちは並んで片山荘をあとにする。

 隣を歩くのは、年寄り臭い話し方をする銀髪の女の子。

 その姿を見て、先ほどのことを思い返す。


 捉えどころのなかった、さっきの会話。

 どうひいき目に見ても、友好的なやりとりには思えなかった、あの会話。

 あれは一体、二人にとってどういう意味を持っていたのだろう。


 それに、フィアリスは『十年ほど前』という単語を口にしていた。

 それは、僕の記憶があやふやである頃のことだ。

 悪意はなかったと言っていたけど、黒江さんは当時、一体なにをしたのだろう。

 フィアリスも、十年前の梢ちゃんに、なにをしたというのだろう。


 疑問に思うも、それを解く手がかりはなにひとつ見つからない。

 すぐ近くにありそうなのに、僕にはなにひとつ、見つけられそうになかった――。

今回は、作者である僕自身が前回の雰囲気を引きずりながら書いたせいか、序盤はなかなかにシリアスな感じでした。

まあ、中盤からは明るく賑やかにコメディをやっていましたが(笑)。

でも、最後の締め方はやっぱりシリアス。理緒たちの過去が、ほんの少しだけほのめかされました。


そうそう、サブタイトルである『始まりの日』には、色々な意味をもたせてあります。

話がもうちょっと進めば、それがわかってもらえるでしょうかね?

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