第二話 暴力と恥じらいと謝罪と
梢ちゃんのいる炊事場を目指して、木張りの廊下を三人で進む。
このアパートは正方形に限りなく近い形をしていて、西には大家の部屋と炊事場が、北にはあすかの部屋である一号室と、二号室と三号室が、東には僕の自室である四号室と力也の使っている五号室が、そして南には六号室と物置き、それと宴会用の和室が、という具合に部屋が並んでいた。
廊下に囲まれた、片山荘の中心に当たるところにあるのは中庭。お風呂は玄関口のすぐ近くだ。
一階建てだから貸せる部屋はたったの六部屋しかないけど、十六歳の女子高生が大家をやっているということを考えれば、ちょうどいい大きさの物件なのかもしれない。
あすかと梢ちゃんの部屋の前を通りすぎ、炊事場に到着。
僕の部屋に乗り込んできたときとは違い、あすかは静かに炊事場の扉を開ける。
「ごめん、梢。遅くなった」
「あ、あすかちゃん。大丈夫、そんなに待ってはいないよ」
「あすかちゃん、お帰り~。そしてただいま~」
予想に反し、中には梢ちゃんの他に、もうひとり女の子の姿があった。
まず目がいってしまうのは、すれ違う人が男女問わず振り返ってしまいそうな美貌。
緩やかなウェーブを描いている栗色の長い髪は、いかにも柔らかそうで、見る者に清楚な印象を与える。
けれど表情はどちらかといえば活発で、そこからは彼女の元気のよさが感じられた。
岩波美花。
それが六号室に住む、彼女の名前だ。
頭に『絶世の』をつけてもおかしくないくらいの美少女。
もちろん、あすかだって美少女なのだけれど、彼女と並ぶと、どうしたってかすんでしまう。
しかし、そんなことは気にならないのか、あすかは気後れせずに美花ちゃんのほうに寄っていった。
「ただいま。そしてお帰り」
聞く人が聞けば、ちょっと素っ気ない口調に感じるかもしれない。
でも、力也と口ゲンカしていないときの彼女は割とこんなものだ。
僕も美花ちゃんに声をかけてテーブルの奥のほうにつくことにする。
「お帰り、美花ちゃん」
「ただいま、理緒くん。そしてお帰り。力也くんもお帰り~」
「おう、ただいま。美花と梢っちもお帰り」
そう返し、僕の隣にイスを持ってきて腰かける力也。
ちなみに、彼が美花ちゃんのことを呼び捨てにしているのは、僕がここに来る前からだけど、僕が美花ちゃんのことを『ちゃん』づけで呼ぶようになったのは、本当につい最近のことだ。それまでは、僕のほうが彼女よりもひとつ年上だというのに『さん』づけをしていた。
それは別に、彼女のことが嫌いとか苦手とかいう理由からじゃなくて、単に美花ちゃんの美貌に気後れしてしまっていただけだったのだけれど、どうもそれが彼女にはすごく不満だったようで、先日、ついにそれが大爆発。
彼女がアルバイトをしているファミレス『満員御礼』に招待されて、そこでかなり強引に『ちゃん』づけに改めさせられてしまったのだ。……ああ、いま思いだしただけでも震えが走る。それくらい、あそこの店長さんの見た目は怖かった。
「……あの、お帰りなさい、理緒さん」
と、少しばかり自分の思考に気をとられすぎていたらしい。
ちょっとだけ心配そうな表情で、対面に座っている梢ちゃんが僕のほうをうかがってきていた。
顔を傾けると同時にさらりと揺れる、彼女の黒いおかっぱの髪。
「うん、ただいま、梢ちゃん。そしてお帰り」
「はい、ただいまです」
返した僕に、梢ちゃんから笑顔が向けられる。それにちょっとだけ見とれてしまった。美少女度合いでいえば、彼女はこの中で間違いなく最下位であるはずなのに。……って、我ながら失礼なこと考えてるな。
ちなみに梢ちゃんと美花ちゃんは、揃って学園指定のブレザー姿だった。
僕もブレザーのままだから人のことは言えないけど、ここにはどうも『帰ってきたら着替える』という習慣を持っている人間はいないらしい。
「痛てっ!」
隣であがったのは力也の声。見れば、あすかがぺチッと彼の手をはたいていた。
「お前は本当にお菓子のことしか考えてないのかっ!」
どうやら、話をするのもそこそこに、テーブルの上のお菓子に手を伸ばそうとしたらしい。
「話は食いながらすればいいだろうがよっ! 小腹減ってんだよ!」
「知るか、ぼけぇっ!」
今度はげしげしと力也を蹴る。
「ま、待て待て待てっ!」
へえ、彼があすかを制止するなんて、珍しいこともあるもんだ。
もちろん、普段から『やめろ』とか言ってはいるけど、それはいまみたいに本気で止めようとしてのセリフではないと、ここにいるみんなが知っているものだから。
「さっきも言ったが、お前はいま、下になにを履いている!? せめてオレが後ろ向くまで待――」
「うっさい、死ねえぇぇぇぇぇぇっ!!」
一歩、バックステップしてから、あすかの本気の蹴りが力也の顔面に炸裂する。
「ぐっぎゃあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
いまのはさすがに効いたのだろう、彼は手で顔を押さえて背中を折ってしまった。
たまに、本当にたまにだけれど、あすかの蹴りはエスカレートしすぎて、こういう事態を引き起こす。
これには、あすかであっても罪悪感を覚えるらしく、今回も少しだけ申し訳なさそうな表情になって黙り込んでしまった。
でも逆に言えば、いままでにこういったことがなかったわけじゃないし、以前のときも力也は彼女に悪感情を抱いたようには見えなかった。あるいは、彼の中ではこれすら慣れっこになっているのかも。
だから炊事場に落ちた沈黙は、わずかな時間で払拭された。
「そういえばさ、力也くんが言ってた『後ろ』がどうこうって、なんだったの?」
最初に口を開いたのは美花ちゃん。
ヤクザと見間違えるような外見の店長さんがいるファミレスで働いているからなのか、彼女の神経はなかなかに太い。
ともあれ、力也もあすかも答えられそうにない感じだったので、「それがね」と僕が説明することに。
話を終えると、「そっかー、なるほどねえ」と美花ちゃんは深くうなずいて、
「そっかそっか、ついに伝わったか。いや~、長かった~」
「同じ女子から教えてくれてもよさそうなものなのに……」
つい、呆れきった目を美花ちゃんに向けてしまった。
「男が注意することじゃないと思うんだよ、こういうことって」
「まあ、それはそうなんだけどね」
なんとか笑いを堪えてますって表情で、彼女はあすかを横目で見る。
当のあすかは顔を真っ赤にしてうつむいていた。
「私や梢ちゃんが注意したら、ああいう恥じらいの表情は見れなかったかもしれないから。だから理緒くん、グッジョブ!」
にこやかにウインクしながら、こちらに向かって親指を立ててくる美花ちゃん。
僕はそれに嘆息して返す。
「いや、気づかせたのは力也なんだけど」
「じゃあ力也くん、グッジョブ!」
今度は、力也へと親指を立てる彼女。……まったく、この娘は。
一方、声をかけられた力也のほうはというと、
「んあ? なにがだ?」
なんと、もうせんべいをバリボリやっていた。
その姿に、相変わらず回復が早いなあ、なんてことを思ってしまう。
ああもう、一体どっちに呆れればいいのやら、だ。
「でも真面目な話さ、男子って女の子が恥じらう姿が大好きでしょ?」
「ちょっと、美花ちゃん……」
なんてストレートな質問を。
そして、全然真面目な話じゃないよ、それ。
しかし、意外なことにあすかが食いついた。
「そうなのか!?」
それに美花ちゃんは深くうなずき、
「うん、そう聞いたことある」
「そうなのか」
「あ、でもでも、恥じらうあまりに暴力振るうっていうのは嫌われるかも」
「そ、そうなのか……」
あすかはイスを片手に梢ちゃんの隣へと移動しながら、ちょっと落ち込んだ表情になった。
失言だったと感じたのか、すかさず美花ちゃんはフォローの言葉をつけ加える。
「ああ、大丈夫だって。世の中には『マゾ』っていう人種もいるし、力也くんみたいにタフで寛容な人間もいるから」
「……力也は、寛容なのか?」
「寛容だって。寛容も寛容。力也と書いて寛容と読むといっても過言じゃないくらい、寛容」
聞いていて納得できてしまうあたりが恐ろしい。
そして『寛容』という単語が、頭の中でゲシュタルト崩壊を起こしそうにもなった。……まあ、どうでもいいことではあるけれど。
と、僕の隣で話を聞いていた力也が、唐突にテンション高く叫んだ。
「おっ!? もしかしてオレ、いま褒められたか!?」
「うん、褒めた褒めた」
「ひゃっほおぉぉぉぉぉぉっ!!」
軽くあしらうような美花ちゃんの言葉に本気で喜び、引き続きせんべいにかじりつく力也。
今回ばかりは、それにあすかがなにかを言うことはなかった。
ただただ「そうか、力也は寛容なのか……」とだけ、イスに座って呟いている。
それを面白そうに見て、美花ちゃんは「でさ」と足を組んだ。
「実際のところ、どうなの? 理緒くん」
「なにが?」
「だからさ、いいと思わないの? 恥じらう女の子。グッとこない?」
「ちょっ!? まだ流れてなかったの!? その話題!」
「うん、流れてない。というか、意地でも流さない」
こういうところ、この娘は本当にタチが悪い。
答えないと絶対に解放してくれないのだ。
なので、僕はため息をひとつ突いて、
「……まあ、それが嫌いな男性はいないと思うよ?」
「いやいや、私が訊きたいのはさ、そういう一般論じゃなくてね、理緒くん個人の嗜好というかなんというか」
「ええっ!? さっきは男子全般って訊き方してたじゃん!?」
「さっきはさっき、いまはいま。時間は常に流れ、万物は流転するのよ。諸行無常でも可!」
「可! じゃないよ!」
叫んで、もうさすがにたまらない、と隣に座る力也へと目を向ける。
伝われ、僕の思い!
「どうしたよ? 理緒。そんな、すがるような目をしてよ」
「すがってるんだよ……!」
「そうだったのか。気づかなかったぜ……」
そのとき、美花ちゃんの瞳がキュピーンと妖しく光った。
「そういえば、力也くんはどう? やっぱり恥じらう女の子は好き?」
「へ? オレか?」
……なんだろう、この罪悪感。
話の矛先は、僕の望んだとおり力也に向いてくれたというのに、なんか安堵感が湧いてこないよ。
ともあれ、彼は答える。それも、すごく平然と。
「そうだな……。オレはせんべいのほうがずっと好きだな」
「そうくるんだ……」
ガクッと肩を落とす美花ちゃん。
うん、まあ、こういう話を力也に振ること自体が間違いなんだよな。
しかし、今日はこれで終わりとはならなかった。
あすかがガタッと腰を浮かせ、
「なんじゃそりゃあぁぁぁぁぁぁっ! あたしはせんべい以下なのかっ!」
「は? いや、別のお前のことをどうこうは言ってねえだろ?」
「うるさい、ぼけっ! あたしの緊張を返せっ!」
「いつお前からそんなもんもらったよ、オレ! もらってたとしても、どうやって返せってんだ!?」
「黙れ黙れ黙れえぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
なんか、あすかが地団駄を踏み始めてしまった。
ああ、これって要するに……、と僕は梢ちゃんと顔を見合わせる。
そしてそこに、美花ちゃんの待ったの声が。
「はいはい、ストップ。こういうときは素直になったほうが可愛いよ? あすかちゃん」
「素直にって、なにがだ!?」
「あー……、まあ、どうもまだ自覚できてないっぽいところがあるもんねえ、あすかちゃんは。……それでも、さっき思いっきり蹴っちゃったことくらいは、素直に謝ってもいいんじゃない?」
それを言われると弱いのだろう、あすかの声のトーンが一気に下がった。
「うっ、それは……」
意気消沈したかのようにイスに座りなおし、しばしの沈黙。
どうやら、彼女の中ではかなりの葛藤があるようだ。
それを見て思うところがあったのか、力也は軽い口調で、
「別にいいっての。あんなの、いつものよりほんのちょっとだけ余計に力が入っていただけじゃねえか」
それは、とても彼らしい言葉で、力也のいいところでもあるのだろう。
けど僕は、ポカッと彼の頭を軽く叩いて口を閉じさせた。
「ん? どうした、理緒? お前、あすか化しちまったのか?」
あすか化ってなにさ。……いや、言いたいことはわかるけど。
力也が訝しげに僕を見ているうちに決意を固めたのだろう。「いや」とあすかが顔をこちらに向けてきた。
「やっぱり、悪いことは悪いことだ。……ごめん、力也」
「……殊勝なあすかっち、パート2かよ。調子狂うぜ……。気になんかしてねえからいいっての。それと、オレもごめんよ」
「……? なんで、お前が謝る?」
「お前が蹴りをいれたくなるようなことを、無自覚にオレもやっちまってるってことなんだろう? 相手に不快感を与えてるのがわかったんなら謝るなんてのは当たり前じゃねえか。……だから、ごめんよ」
「それは……別に、いい。……なんか、あたしのほうも調子が狂ってきたな」
ちょっとだけ頬を赤らめるあすか。
それに力也は微笑んで肩をすくめる。
「ああ。調子狂っちまってるからこそ、お互い、らしくねえこと言っちまってて、しちまってるんだろうよ」
「そうか。……そうか。ところで、さっきの、大丈夫か? もう痛くないか?」
「お前がオレの怪我の心配かよ。なんか、ちょっと本気で気持ち悪くなってきたぞ?」
ぶるっと身体を震わせる力也に、頬をふくらませてあすかが抗議する。……いつもだったら、間違いなく蹴り飛ばしている場面だろうに。それも、罵声も込みで。
「気持ち悪いとはなんだ。これでも本当に心配してるんだぞ?」
「ああ、そうかよ。……本当になんともねえって。むしろ、今日の授業であった面接練習のほうがよほど堪えた」
その彼の言葉で、ひとまずは落ちついたのだろう。あすかがいつものように無邪気に問いかける。
「面接練習? なんだ? それは」
「地獄の授業だ」
酷い回答だった!
けれど、力也の主観ではそれこそが真実だったのだろう。
彼のただならぬ様子に、あすかは身を震わせて、
「地獄の授業……。あたしも二年後には受けなきゃいけないんだよな?」
「そうとも。覚悟しておいたほうがいいぜ、あすか。あれは暗記だけでなんとかなるもんじゃねえ」
「あたし、暗記も苦手だ……」
「そうだったな。まあ、オレも得意じゃねえけどよ……」
「……苦手とはいったが、力也ほどじゃないぞ! もちろん勉強そのものも、だ!」
それには、さすがに突っ込まずにはいられなかった。
「いや、あすかは壊滅的でしょ、勉強。まだ力也のほうが見込みあるよ」
「なにぃ!? 理緒は力也の味方をするのか!?」
「別にどっちの味方とかじゃなくってさ、客観的な事実を述べたまでだよ。それに勉強教えるとさ、力也はなんだかんだで最後は自分で解くけど、あすかはそうじゃないじゃない」
「それは、そうだが……」
そこで梢ちゃんがポンと両の手を合わせて。
「あ、いまの会話で思いだしました。理緒さん、あとで勉強教えてもらえませんか?」
「もちろんいいけど、あすかはともかく、梢ちゃんが頼んでくるのは珍しいね」
「すみません。今日、授業中に居眠りしてしまって……」
「それはもう珍しいって域を超えてるよ! なんていうか、天変地異の前触れ……?」
「それはいくらなんでも言いすぎですよ」
梢ちゃんはそう言って笑ったけれど、力也とあすか、そして美花ちゃんの三人は耳を貸すことなく、口々に、
「間違いなく、天変地異の前触れだな」
「言われてみれば、確かに! どうして思い当たらなかったんだ、あたしは……!」
「まったくもって、同感ね」
「あの、なんでわたし、アウェーなんですか……?」
ちょっと涙目になってしまった梢ちゃんに、僕は苦笑を向ける。
でも無理もないと思うんだ。だって、こんなことはいままで一度もなかったから。
「まあ、梢ちゃんも人間だってことだよね」
「いままではなんだと思ってたんですか、理緒さん……」
「だって、高校一年生で大家業とかそつなくこなしてるものだから。……ねえ?」
そう振ると、三人からは無言で同意のうなずきが。
「そんなあ……」
ああ、今度は完全な涙目に……。
どうしたものかと必死に言葉を探してみるものの、残念ながら、もう弾切れだ。なので、
「まあ、梢ちゃんも人間だってことだよね」
当然のごとく、あすかから呆れた目を向けられた。
「お前、さっきも同じこと言ったぞ」
「弾切れだったんだよ。察してよ、あすか……」
「わかった、察してやる。その代わりに、あたしの勉強もみろ。範囲は梢とまったく同じところだ」
「また、偉そうに頼んでくるね、きみは。いいけどさ。……やっぱり、あすかも居眠り?」
十中八九そうだろうと見当をつけて尋ねたものだから、彼女が首を横に振ったのには心底驚いた。
「いや、起きてた。帰ってから教えてもらえばいいかと思って」
「起きてたなら、ちゃんとノートとろうよ。というか、頼むからとってよ……」
「わかった。次からはとる。でも正直、理緒や美花に教えてもらったほうがはかどるんだ。時間をかけてわかりやすく説明してくれるからな。先生は教え方が下手すぎる」
「それはたぶん、あすかの理解力が足りてないんだと思うよ?」
まあ、一対多数という形で授業をしている限り、こういう生徒が出てくるのは必然といえばそうなのだけど。
あすかが「なにぃ!?」と腰を浮かすけど、それにいちいちかまっていると時間がいくらあっても足りそうにない。
そんなわけで、軽く受け流して立ちあがり、一度自分の部屋に戻ることにする。もちろん勉強道具を持ってくるためだ。
「力也のも一緒に持ってくるね」
「え? なんでだ?」
「なんでって、僕たちは僕たちで宿題が出てるじゃない」
僕と力也は学園で同じクラスだ。
だから当然、僕に出た宿題は彼にも出ていることになる。
力也は記憶を辿るように目線を上に向けて、
「えーと……。……あれ? ちょっと待て。いつだったかお前、もう宿題は出ないって言ってなかったか?」
「いつだったか、じゃないよ。ついさっき、僕の部屋で言ったことだよ。……あと、あまり出なくなるって言っただけだからね? もう出ないなんて言ってないからね?」
「……え? じゃあ宿題と面接練習、両方ともやらなきゃいけない日もあるのかよ?」
「そうなるね。少なくとも、今日はそう」
「うっ……」
「うっ?」
「うあぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁああぁぁぁっっっっっ!!」
両手で頭を抱えて発された彼の大声に、その場にいた全員が思わず耳を手を塞いだ。
みんながみんな、なにごとかという顔をしていて、特にあすかの浮かべた驚愕の表情は、見ているこっちが気の毒になってしまうほど。
「そ、そんなに大声をだしてしまうほどの地獄に、いま、力也はいるというのか……」
あ、そっちにショックを受けてたんだ……。
「あたしも、二年後にはこうなる運命だというのに……」
そこに美花ちゃんの悪ノリが炸裂。
「あすかちゃん。私なんて来年だよ? それ」
「……同情する。心から同情する。……美花、いまのうちに別の学校に行っておいたほうがいいんじゃないのか!? いや、そうするべきだ!」
「あすかちゃん、残念ながら転校しても逃げられないのよ、『これ』からは。生きていく限りは、ね」
力也を指差しながら放たれたその言葉に、あすかの表情が絶望に染まる。
うわ、おまけに「来年、転校しようと思ったのに。いい案だと思ったのに……」なんてうわ言まで漏らし始めたよ。
もう、一体どこからどうやって誤解を解いていけばいいのやら……。
……まあ、いいや。放置しよう。面倒臭いから。
あすかにとっての面接練習が、力也にとってのそれと同じくらい辛く厳しいものになるのだとしたら、これもあながち誤解とも言い切れないわけだし。
「じゃあ、とってくるから。梢ちゃんとあすかも、勉強道具持ってきておいて」
「はい」
「わかった」
生ける屍と化してしまった力也から意識的に目を逸らし、二人が同時にうなずいてくる。
それから「ところでさ」と美花ちゃんが口を開いた。
「みんな、今日はなんでここに集まることにしたの? あすかちゃんが理緒くんたちを呼びに行ったのは梢ちゃんから聞いて知ってるけど、それってすごく珍しいことじゃない」
その言葉に。
彼女を除く全員が「あっ!」と声を重ねた。
そう、直前まで死人のようになっていた力也も、だ。
「すっかり忘れてました。理緒さんたちに相談したいことがあったんです。……いえ、頼みたいことといったほうが正確なのかもしれませんけど」
「それ自体は、僕もあすかから聞いてたよ。……うわあ、どうして失念してたかなあ」
「なんてことだ! あたしもすっかり忘れていた! お菓子をエサにしてまで力也を連れてきたのに!」
「話をしながらせんべい食ってたっていう字面だけ見れば、まあ、やることはやってたとも言えるんだけどな。本題忘れるとか、どんだけバカなんだよ、お前ら」
まさに、四者四様の反応。
そして力也の『お前ら』を梢ちゃんと自分のことだと受けとったのか、あすかが彼に罵声を浴びせる。
「あたしはともかく、梢にまでバカって言うな! バカ! ……あっ! だからって、あたしのことならバカって言っていいって言ってるんじゃないからな!」
「わーってるよ。あと、バカって言うほうがバカなんだぜ?」
「なら、先にバカって言ったお前のほうが、やっぱりバカなんじゃないか! このバカ!」
「回数の違いも考慮に入れるべきだと、オレは思うんだがな……。それにオレは自分で自分が大バカだって知ってるから、別にバカって言われても痛くもかゆくもねえぜ?」
「あたしだって痛くもかゆくもない! ……あたし自身は、バカじゃないけど」
「認めちまえって。バカだと気づいたとき、人はバカじゃなくなるんだぜ?」
「うるさい! あたしはバカじゃない! 梢だってバカじゃないぞ!」
「いや、この下らねえ言い合いに梢っちを巻き込んでやるなよ……」
あすかのほうはまだ言い足りないようだったけど、力也のほうが嘆息して矛を収めたからか、彼女も仕方なさげに黙り込む。まあ、まだ「うーっ……!」とうなってはいるけれど。
というか、さっきまでのしおらしかったあすかは一体どこに……?
……まあ、それはいいや。いい加減、本題に入る頃合いだろう。
「えっと、あすかから聞いたんだけど、なんか演劇部の人に『救世主になってほしい』って言われたんだって?」
しかし、梢ちゃんから返ってきたのは否定の言葉。
「いえ、救世主だなんて、そんな仰々しいことは一言も……」
やっぱりか。
あすかが曲解しているだけだろうって思ってはいたけれど、あまりにそのとおりすぎて、呆れるのをとおり越して笑えてさえきてしまう。
まあ、笑いの種類は苦笑なのだけれ――
「ただ単に、救いの手を差し伸べてほしいって言われただけですよ」
「充分に仰々しかった!」
「え!? なにがですか!?」
心の声を思わず口にだしてしまった僕に、梢ちゃんが驚いてしまっていた。
それには悪かったと思うけれど、口許が勝手に苦笑の形になってしまうのは抑えられない。
「いや、なにがって……。救いの手って、なにさ」
「なにさ、と言われましても……」
もちろん、本当はちゃんとわかってる。
そう表現するほど、あすかという人材が演劇部にほしいということなのだろう。
でも、やっぱり『救世主』だの『救いの手』だのって言い方は大げさすぎるって。
「うーん……」
それにしても、困った。
このまま話を続けても、グダグダと時間ばかりが過ぎていきかねない。
正直言って、それだけは勘弁願いたかった。……宿題も、今日中にやらなきゃいけないわけだし。
そんなわけで、僕は炊事場の扉のほうに身体を向ける。
けど、別に二人を見捨てようってわけじゃない。
「とりあえず、僕は勉強道具持ってくるからさ。梢ちゃんとあすかも持ってきておいて。あと――」
「お前、さっきも似たようなこと言ってたぞ」
「そのあすかのセリフだって、さっき似たようなのを聞いた気がするけど? ――それはそれとして、二人の間で話をある程度まとめておいて。かいつまんで事情を説明できるくらいに」
梢ちゃんの「あ、はい。わかりました」という声を背に、炊事場を出る。あすかの「できるものなのか? そんなこと……」という呟きは聞こえなかったことにする。
それにしても、と木張りの廊下を歩きながら僕は思う。
ここの住人と話をすると、どうしてこうも脱線に脱線を重ねるのだろう、と。
まあ、脱線させてるのは主に力也とあすかの二人で、それが僕にとっては楽しくもあるから、あるいは、これでもいいのかもしれないけれど。
メインヒロインの梢、再登場。
そして美花も登場。
だというのに、なんてことでしょう! 脱線してばかりで、本筋がまったく進みませんでした!!
でもまあ、次回には進展が見られるんじゃない、かな……?