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第二十七話 人形として/人間として

「――兄貴に言わせれば、あたしは『人形のよう』らしい」


 どこから話し始めたものか、としばらく考え込んでいたあすかは、まず、ぽつりとそう漏らした。


「人形の……よう?」


「言われたことは、ちゃんとやる。言われなかったことは、絶対にやらない。なにをして、なにをしないのかを、自分で決められない。親父や先生に言われたとおりにしか、動かない。そんなあたしは、まるで人形みたいだって」


「ああ、なんとなくわかるかも……」


 人を好きになることを望まれていない。


 あすかは、確かにそう口にしていた。

 僕だって、それを聞いて思わなかったわけじゃない。

 命令されたことだけを忠実にこなす、人形ロボットのようだ、と。


「それじゃいけないんだと、兄貴はよく言っていた。『天王寺は天王寺、俺は俺だ! 俺は天王寺グループを動かすための部品じゃねえんだ!』っていうのが、兄貴の口ぐせだった。そして、それはあたしにだって言えることなんだって」


「あすかも、グループを動かすための部品なんかじゃないんだって? いいお兄さんじゃない」


 実家にも、ちゃんと彼女の味方はいたんだ。

 そう感じられて、僕は明るい声を出した。

 けれど、あすかはそれに首を傾げて、


「そう……なのかもしれないな。天王寺の長男として育てられた義務は、ちゃんと果たすとも言っていたし、確かに、いい兄貴といえたのかもしれない」


「なんか、奥歯にものが挟まったような言い方だね。それに、なんで過去形?」


「兄貴とは、あたしが片山荘に住むようになってから一度も会ってないんだ。もちろん、兄貴にも兄貴なりに課せられたものがあるわけだから、それはしょうがないことなんだろう。……それに、親父と兄貴の言うことは、大抵が真逆だったんだ。

 親父が『外のことなど気にかける必要はない。『大いなる善』を手に入れることだけを考えろ』と言えば、兄貴は『もっと外のことにも興味を持てよ! そのほうが絶対に楽しいぜ!』と言い、親父が『他人に思い入れるな』と言えば、兄貴は『たまには家の外にも出ろよ! そりゃ面白くねえこともあるけどさ、その分、楽しいことだって多いんだから!』と言う。

 ちゃんと親父の言うことを聞こう、と頑張っていた当時のあたしは、兄貴のことをうっとうしく感じてもいたんだ」


「わからなくはないけど……。でも、僕はあすかのお兄さんの言うことのほうが正しいと思うかな。だって、どっちがあすかのためを思ってくれてるのかなんて、明白だもん」


「わかってる。だから、『当時のあたしは』って言ったんだ」


 嘆息するあすか。

 僕は空を見上げて、「それにしても」と軽い声を出す。


「あすかのお兄さんって、ちょっと変わってるよね。天王寺グループの跡取り息子っていう肩書きから連想できない性格してるっていうか。……あ、ちょっと力也に似てるかも?」


「言われてみれば、似てるな。そっくりかもしれない。……兄貴の性格がアレなのは、別に問題でもなんでもないんだ。兄貴に課せられていたのは、天王寺グループを継ぐことと、お嫁さんをもらって、ちゃんと子孫を残すこと。それと、あたしが手に入れた『大いなる善』を管理することだったから。それ以外のことは求められてなかったんだ、兄貴は」


 それはそれは……よくグレなかったなあ、あすかのお兄さん。

 いや、もしかしたら、いまはグレてるかもしれないのか。あすかはもう、何年もお兄さんと会ってないわけなんだから。

 あと、自分のことを棚に上げて『性格がアレ』とか言うのはどうかと思う。

 言いたくはないけど、あすかの性格だって充分にアレなんだから。


「――いまになって思えば、あの頃のあたしは、苦労なんてひとつもしてなかった。たびたび兄貴がうっとうしいことを言ってはきてたけど、親父や家庭教師の先生が言うとおりに『大いなる善』や『片山荘の性質』、『希術きじゅつ』のことを勉強してさえいれば、欲しいものは外に出なくても手に入った。

 友達がいなくても、遊ぶものはたくさんあったし、当時のあたしはそれで充分満足していたんだ。天王寺の大きな家にある、大きな部屋。そこが、あたしにとって唯一の『世界』だったんだ」


 そこは、当時のあすかにとっては、『楽園』だったのだろうか。

 閉じ込められてるだけなのだと理解できなければ、『楽園』と呼ぶこともできるような、幸せなことに満ち溢れた『世界』だったのだろうか。

 マンガを読めば、あるいはゲームをすれば、自分の置かれている環境は異常だと、すぐにわかりそうなものなのに。


 ……いや、違う。

 きっと、あすかは意識して考えないようにしていたんだ。

 友達を作れない寂しさを、自分の置かれている環境の異常さを。

 そういったものをすべて、非現実的な現象を学ぶことで紛らわせていたんだ。

 マンガを読んだりすることで、『普通の女の子』を疑似体験したりして。


「あたしの勉強っていうのは、基本的に暗記だった。家庭教師の先生が言うことを、繰り返し声に出して、ひたすら憶えた。それ以外のことは教わらなかった。余計なことは考えないよう、言われたから」


 その言葉に、違和感があった。

 本を読んでの勉強じゃ、ないのか?

 まさかその先生は、彼女に読み書きや計算すら教えなかったのか?


「あたしの手が届くところには、いつもお菓子が用意されていた。それを、あたしが欲しいって言ったから。兄貴は『それじゃいけねえんだよ!』って言ってたけど、当時のあたしには、なにがどういけないのか、わからなかった」


 ああ、そういうことなのか。

 あすかが欲しいと望んだものは、美味しいお菓子。

 マンガでも、ゲームでもなくて、美味しいだけのお菓子だったのか。


「……それで、よく虫歯にならなかったね」


 それでも、あすかの言葉にはまだ引っかかりがあった。

 そして、それは一体なんなんだろう、と考えながら。

 気づけば僕は、そんな間の抜けたあいづちをうっていた。


「そのことは、梢にも言われた。どうもあたしは、虫歯になりにくいタイプらしい。もし、そうじゃなかったらと考えると、ゾッとするものがあるけど」


 彼女の口が苦笑を形作る。

 なるほど、そこから覗くあすかの歯は真っ白で、虫歯なんてひとつも見当たらなかった。

 ――と、なにがきっかけになったのだろうか。

 不意に、なにが引っかかっていたのかが理解できた。


「ねえ、あすか。さっき『遊ぶものはたくさんあった』って言ってたよね? その『遊ぶもの』って、なんだったの?」


「うん? 変なことを言うやつだな、理緒は。あたしだって女の子なんだぞ? お人形さんに決まってるじゃないか。もちろん持ってる数は、百や二百じゃきかないくらいに多かったけど。それに、それが『多い』ってことも、梢に言われるまではわかってなかったけど」


「あ、なるほど。お人形さん遊びか。……って、それはかなり小さい女の子がすることじゃない? 天王寺の家で勉強してたのって、あすかが何歳の頃のことなのさ?」


「えっと……片山荘に住むよう言われたのが、いまから八年前のことだから……。……うん、八歳以前のことになるな、天王寺の家にいたのは」


「そっか。ならおかしいことでもないのかな、それも。……あれ? 僕が初めてマンガを読んだのって、何歳のときだったっけ?」


「おかしいもなにも、女の子なら誰でも通る道だ。実際、梢もお人形さんは持ってたぞ。で、こう手に持って遊ぶんだ。『スーパーパーンチッ!』、『ウルトラキーック!』って」


「うん、ちょっと待とうか、あすか。それは女の子のするお人形さん遊びとは、違うと思う」


「なにぃ!?」


「絶対にお兄さんに影響受けてるよ、それは。あすかのお兄さんなら、なんとかレンジャーとかの人形使って、そういう遊びしてそうだもん。……って、そういえばあすかのお兄さんって、あすかと何歳離れてるの?」


「二つだな。あたしが五歳の頃に、兄貴が七歳だったから」


 ということは、僕や力也と同い年か。

 で、あすかが天王寺の家にいたのは、七歳くらいまで。

 つまり、あすかのお兄さんは当時、最高でも九歳くらいということになるわけで。


「……ずいぶんと、大人びたお兄さんだったんだね。早熟というか、なんというか」


「なんだ? いきなり」


「いや、だって。九歳くらいじゃ言えないものだよ? 『天王寺グループを動かすための部品じゃない』だとか『たまには家の外にも出ろ。面白くないこともあるけど、楽しいことだって多いんだから』だなんて」


「そうなのか?」


「う~ん、たぶん……」


 いや、単に僕が幼すぎるだけ、という可能性もあるのだけれど。

 あ、天王寺グループを背負しょって立つ人間として教育を受けていたから、というのも考えられるか。


「まあ、そのことは置いておこう。それで、あすかは八歳のときに片山荘にやってきたんだね?」


「そうだな。それで、初めて学校にも通うことになった」


「それまでは、学校にも行ってなかったんだ……」


 あすかに期待されてるのは『大いなる善』とやらの入手のみらしいから、グループの権力を使って、学校に行かなくてもいいようにされてたのだろうか。

 あるいは、あすかに世間一般の常識というものを身につけてほしくなかったのかもしれない。

 ありうる話だ。家庭教師の先生がいたんだから、生きていく上で必要なことだけは教える、ということもできたのだろうし。

 そうか、だからあすかは……。


「こんなにも、世間知らずに育っちゃったのか。まったく……」


「なにがだ? 理緒」


「ううん、こっちの話。それで、あすかは『大いなる善』っていうのを手に入れられたの? 口ぶりからするに、まだっぽい感じではあるけど」


 案の定、あすかは首をこくりと縦に振って。


「ああ、まだだ。そもそも、片山荘に初めてきたときにフィアリスが言ってたんだ。『大いなる善』は、梢のひいお爺さんが亡くなると同時に失われたんだって。いまここにあるのは、『恵み』と『成功』の性質のみなんだって。

 それが正しいのなら、あたしに『大いなる善』を手に入れることはできない。天王寺グループが『希術』を発動させることもできない。あたしはこのとき、初めて親父の言うことに疑問を抱いた」


「疑問? どんな?」


「なんで、片山荘に住むよう言ったんだろうって。梢の――理緒たちの曾お爺さんが亡くなったのは、あたしが初めて片山荘にきたときから数えて、三年も前のことだったんだ。なのに、なんでいまになって、ここで暮らすように言われたんだろうって」


 どこかうつろな、あすかの声。

 けれど僕は、彼女が『何年前になにがあった』というのを、そこまで正確に把握できているという事実に驚いていた。

 でも、決しておかしなことではないのか。

 だって、彼女はそのためだけに、幼い頃から『教育』を受けてきたのだから。

 『大いなる善』を手に入れることが、彼女の中の最優先事項であるはずなのだから。


「もう『大いなる善』はないらしいって電話したあたしに、親父は言った。『『大いなる善』そのものはなくなっている。しかし、その残滓ざんしが残っている可能性はあるはずだ』って。

 どうして『大いなる善』そのものがあるうちに、あたしをここに来させなかったんだって、あたしは訊いた。返ってきた答えは、『お前の理解が遅すぎたからだ。お前の成長が間に合わなかったからだ』というものだった」


「そんな、そんな言い方って……」


「事実だ、理緒。親父がそう言ったということは、つまりは、そういうことなんだ。あたしがもっと一生懸命に勉強していれば、もしかしたら間に合ったかもしれないんだ。……でも、それももう、どうでもいいことだ。

 残滓とやらはどうやって探せばいいんだ? と訊いたあたしに、親父は言った。『それは、お前が考えることだ』って。その言葉を前に、あたしは途方に暮れるしかなかった」


 無理もない。

 あすかはそれまで、ずっと言われるがままに動いてきたんだ。

 生まれてからずっと、『不要な思考は持つな』と言われながら育ってきたんだ。

 『善悪の判断すら余計』とまで教えられて……。

 そんな彼女に、『自分で考える』なんてことができるはずもない。


「フィアリスは『恵み』と『成功』の性質はあるのだから、とりあえずはここにいて、それを手に入れることを考えてみてはどうか、と言ってくれた。

 そして、恵理と功一――梢のお父さんとお母さんは、これでひとりの人間として生きていけるようになったねって、微笑わらってくれた。

 二人はまるで、あたしの本当の親のようで、梢は姉のようだった。三人と過ごす時間は、天王寺の家での暮らしが嘘に思えるくらい、温かかった。そういう人たちがいるんだってことを、あたしはそのとき、生まれて初めて知ったんだ」


 それはきっと、あすかが『人形』から『人間』になった瞬間でもあったのだろう。

 人は、人の間に立って初めて『人間』になれるのだから。

 他者との間に起こる摩擦まさつ

 それを経験して、初めて『人間』になれるのだから。


 笑って。

 怒って。

 泣いて。

 そして、また笑って。

 いや、笑いあって。

 そんな摩擦を、片山荘にきて初めて、あすかは経験したのだろう。

 他人の温もりを、言葉を、『嬉しい』という感情と共に、初めて実感したのだろう。


 肯定するばかりじゃない。

 与えられるばかりじゃない。

 すべての願いが叶うわけじゃないけれど、それでも楽しいと思える時間を、彼女は初めて得ることができた。

 安らぎに満ちた場所を、本当の意味での『楽園』を、あすかはようやく見つけることができたのだ。


「幸せな時間は、二年後に力也がやってきてからも、変わらずに続いた。見た目も言動も怖いやつだったけど、暴力を振るってくることはなかったから。怖がってる者同士ってことで、むしろ梢との結びつきが強くなったくらいだ」


「ああ、なるほどね。そういえば、片山荘にやってきたばかりの頃の力也は荒れてたっていってたもんね」


「だから、状況が大きく変わったのは、それからさらに二年後。いまから、四年くらい前のこと」


「四年前……。なにがあったっけ……?」


「恵理と功一が、交通事故で揃って亡くなったんだ。梢は塞ぎこんでしまって、大変だった。あたしとフィアリス、黒江の三人でなんとかしたけどな」


「そう、だったね……。そっか、大家の仕事を任されることになったってことにばかり目がいってたけど……そうだよね。梢ちゃんが悲しまなかったわけがないよね」


「当たり前だ。仲のいい親子だったんだから。……もっとも、あたしのほうの問題は、梢の状態が落ちついてから起こったんだけどな」


「あすかのほうの問題?」


「恵理と功一が揃って死んでしまったんだ。そうなれば当然、片山荘にあった『恵み』と『成功』の性質だって消えてしまう。『大いなる善』が失われたときと同じように、な」


 加えて、『大いなる善』の残滓を探せ、などと無茶を言われてから、四年が経っている。

 天王寺グループの会長も、いい加減、『大いなる善』に固執こしつする愚かさに気づく頃だ。


「あたしは天王寺の家に戻るよう言われた。片山荘の性質は、大家となった人間の『血』と『名』によって決まる。そして恵理が大家になったときに、片山荘の性質は『大いなる善』から『恵み』にまでランクダウンしていた。次に大家になれる『純血』の人間は、まだ十二歳の梢のみ。性質の『格』がさらに落ちるのは、誰の目にも明らかだった」


「誰の目にもって……あすかの目にも?」


「当然だ。あたしは、生まれたときからずっと、そのことだけを勉強してきたんだぞ? これを理解できなかったら、あたしの七年間はまるっきりムダということになってしまうじゃないか。

 人間には、『光』や『愛』、『善』と呼ばれるエネルギーを受け入れる部位があるらしい。ちょうど、このあたりにな」


 とん、と彼女は自分の左胸――心臓のあたりを軽く叩いてみせる。


「もちろん、受け入れられる『それ』の許容量キャパシティには個人差があって、それが大きければ大きいほど、使える『希術』の数は多くなるし、その人間の『格』自体も高くなる。そして片山荘の大家は代々、その『光』とも『愛』とも『善』とも呼ばれるそれを、片山荘と、そこに住む住人たちに放出してきた。それが『大いなる善』であり、『恵み』や『成功』であり、『止まり木』。

 片山荘を継ぐ、代々の大家――天野本家の人間。それを、あたしたちは『純血』と呼んでいるんだけどな、この『純血』――天野家の一族というのは、わかりやすく言ってしまえば、地上最後の『魔法使い』の一族なんだ」


「魔法使いの一族……。あ、『止まり木』っていうのは?」


「梢の持つ性質だ。『恵理』という名だから『恵み』、『功一』という名だから『成功』、『梢』という名だから『止まり木』というふうにな」


「そっか。いまは梢ちゃんが大家をやってるから、片山荘の性質は『止まり木』なのか。当然、『大いなる善』や『恵み』よりも『格』は下なんだよね?」


 それは、確認のための問いでしかない。

 そして当然のように、あすかからは「ああ」と肯定のうなずきが返ってきた。


「こうなると、いよいよあたしが片山荘にいる意味がなくなってくる。四年も経てば、かつてはあったかもしれない『大いなる善』の残滓だって、いい加減なくなっているだろう。『恵み』や『成功』程度じゃ、残滓を手に入れてもたいしたことはできないらしいし。

 もともと、『楽園』の『候補地』でしかなかった片山荘だ。『大いなる善』が手に入る可能性があったから、あたしはここに住まわされていたんだ。でも、それはもう手に入りそうもない。だったら『楽園』にいる『希望の種ホープ・シード』や『均衡者バランサー』の手伝いでもさせたほうがよほどいいんじゃないか、と親父は考えた」


「『均衡者』のことはフィアリスから聞いたけど、『楽園』とか『希望の種』ってのはなにさ?」


「うん? なんだ、知らなかったのか。というか、『均衡者』のことだけは知ってるのか? ちぐはぐだな」


「文句ならフィアリスに言ってよ……」


「まあいい。『楽園』っていうのは、読んで字のごとく『楽園』だ。なんでも昔、『天上てんじょう存在』っていう『神さま』が、『地上に楽園を作る』という計画を立て、実行したらしい。ただ、どこにあるのかはあたしも知らない。『大いなる善』とは関係ないことだからな。

 それと『希望の種』に関しても、実はそこまで詳しいわけじゃないんだ。予備知識として、『均衡者』の補助を受け、『世界破壊者ワールドブレイカー』を撃破しうる存在、と教えてもらっただけだから」


 『世界破壊者』のことは僕も知っているというあたりが、またなんともちぐはぐだ。

 それにしても、なんだか話が違ってきている気がしてならない。

 いい加減、軌道修正しないと。


「それで、どうなったの? あすかはいま、片山荘で暮らせているわけだけど」


「以前、フィアリスも言ってたと思うが、梢が片山荘にもたらした性質である『止まり木』は、『いつか、ひとりで生きていけるようになるための祝福』なんだ。フィアリスは、梢が次の大家になることを見越して、あたしに片山荘に残ることを提案してくれた。あたし自身、梢のそばを離れたくなかったから、それは素直に嬉しかった」


 そういえば、いつだったか聞いた覚えがある。

 梢ちゃんと一緒に暮らしていたいと、あすかがワガママを言ったんだ、と。


「そのときに思いだしたのが、兄貴の言葉だった。兄貴の……口ぐせだった。『天王寺は天王寺、俺は俺だ! 俺は天王寺グループを動かすための部品じゃねえんだ!』っていう。

 あたしはあたしだ。恵理と功一が言ってくれたように、ひとりの人間として生きていけるようになったんだ。ひとり暮らしのスキルはまだまだだけど、片山荘は『いつか、ひとりで生きていけるようになるための祝福』を与えてくれる場所でもある。

 だからあたしは……あたしは、生まれて初めて、親父の言うことに逆らったんだ」


 そうしてあすかは、片山荘に残ることを許された。


「でも、完全に吹っ切れたってわけでもない、と。教えられたことは間違ってるんだとわかっていても、身体に染みついちゃったものっていうのがあるんだね」


「そうかもしれない。昨日も、さっきも、『それはしちゃいけないことだ』って反射的に思って、口にしてしまったんだ……」


 昨日も、さっきも。

 それは、『人を好きになるという行為』のことを指しているのだろう。

 そしてそれは、僕の抱いている『自分は、決して幸福になどなってはいけない』という脅迫観念と、どこが違うんだろう。

 違うところがあるというのなら、それはきっと。


「ねえ、あすか。あすかはさ、『大いなる善を手に入れることだけを考えろ』って言われたし、『子孫を残すことは余計』とも言われたわけだけど、でも『人を好きになってはいけない』とは言われてないんだよね?」


 それはきっと、詭弁きべんと呼ばれるものなのだろうけど。


「もっと言うなら、『佐野力也を好きになるな』とは、言われてないんだよね?」


 それでも、あすかが『言われたことを丸暗記し、鵜呑うのみにしているだけ』であるのなら。

 この言い方は、効果があるはずだ。


「……言われて、ないな。……確かに、それは言われなかった」


 あすかから、『考える』ということが取りあげられていて、助かった。

 『それ以外のことを考える必要はない』という言葉と結びつけて『考え』られてしまっていたら、この方法で説得することはできなかっただろうから。

 これでもう、あすかが過剰な反応を示すようなことはなくなった……はず。

 あとは、あすかの抱いている感情がどんなものであるのかを自覚してもらえれば、一歩くらいは前に進めるだろう。


 まだ『人形』のような部分を残している少女。

 そのあすかが、恋心というものを知れば。

 それの生み出す摩擦が、彼女をより『人間』へと近づけてくれるはず。

 いや、その摩擦はもう起こっているはずなんだ。


「でも、あたしは力也のことを嫌ってる……」


 もし、それがないというのなら、あすかの口からこんな言葉が出てくるはず、ないんだから。


「どうかな? あすかは力也に恋心を抱いているだけなのかもしれないよ?」


「それは……、でも……」


「『兄貴がすることだから』って? でも、『あすかがしてはいけない』とも言われなかったんだよね?」


「う、言われなかった……けど」


「けど、じゃないよ、あすか。『してはいけない』って言われなかったんだから、してもいいんだよ。だから――」


 と、そのときだった。


「筋トレ終了~っ! みんな! 次は部室のほうで発声練習だよ! ほら、駆け足駆け足!!」


 グラウンドに大きく響く、深空ちゃんの号令。

 それに僕は、思わず言葉を引っ込めてしまう。


 時間切れ、か……。

 仕方ない。話の続きは、片山荘への帰り道でさせてもらおう。

 ここから先は、梢ちゃんも交えて、三人で。

 いまのあすかになら、きっとそれが通じるだろうから。


 そう考えを巡らせながら、僕は立ち上がるように目であすかに合図を送った。

 彼女がうなずくのを確認して、僕もまた腰をあげる。

 そして、いまは大人しく、あすかと一緒に校舎へと向かうことにしたのだった――。

今回は、あすかの過去と『片山荘の秘密』のことに触れてみましたが、いかがでしたでしょうか?

僕は正直、書いていて『あまり重い事情じゃないな……』と思ってしまいました(苦笑)。


ただ、『大いなる善』関連のことにだけはやたらと詳しいという、あすかの二面性を出すことには成功したかな、とは思っていたり。

あと、今回の理緒の説得には、『え~? それだけの言葉で、そんなあっさりと~?』と思われただろうなあ、とも。

そう思われた方々には申し訳ないのですが、そのツッコミは『あすか編』終了まで待っていただければ、と思います。


本当、まだなにも解決していないので。解決したと、理緒が勝手に思っているだけなので。

ええ、いくらなんでも、そこまですべてを鵜呑みにはしていませんよ、さすがのあすかも。


あ、そうそう、口ではなんと言おうと、あすかはブラコンです。

彼に色々と影響を受けてますし、力也を好きになった一因にだってなっているのです。

まあ、そのあたりは『あすか編』の『鍵』になるんじゃないかな、と思ったり思わなかったり。

ええ、正直、かなり先行き不透明なのですよ。大筋しか決まってないと申しますか……。

ぶっちゃけ、なんで今回、こんなに早く投稿できたの? と思ってもいますし。

ああ、でもいい加減、ちょっとストックを作ったほうがいいかなあ。先の展開を少し多めに書いてストックしておかないと、こういうのは不安で仕方ないですよ(苦笑)。


話を戻して。

今回でようやく、『スペリオル外伝~絆はここに~』を読んでくださった方に、あの話を『あすか編』の前に執筆した理由を察してもらえたかな、と思っています。

もちろん『絆はここに』が未読の状態でも楽しんでいただけるように書いているつもりではありますが、『地上に楽園を作る』という計画が実行された、というあたりは、やっぱり『絆はここに』を読んでくださった方のほうが楽しめるだろうな、と思いますし。

他にも、まあ、色々と。


おっと、気づけば後書きがずいぶんと長くなってしまいましたね(汗)。

それでは、また次回。

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