第二十五話 現実への帰還
主にフィアリスがらみで大変だった部活動が終わり、僕たちは片山荘に帰宅した。
ちなみに、いま僕たちが集まっているのは南側にある和室。
いうまでもなく、宴会をやるときに使われる部屋だ。
宴会は、フィアリスの気分次第で行われる。
前もって開催日を告げられたことなんて、一度もなかった。
それでもちゃんと、ご飯やらお酒やらを用意できている梢ちゃんと黒江さんは、本当にすごいと思う。
「あれ? あすか、今日は力也の隣に座るんだ?」
いつもは僕が座っている場所に腰を下ろした少女に、僕は少しだけ驚きの目を向けてしまった。
「ダメか?」
「別にダメってことはないけどさ。いつもは梢ちゃんの隣に座ってるから、珍しいなって」
と、そこで横からポンと肩を叩かれる。
そちらに顔を向ければ、少しニヤついた美花ちゃんの表情が目に飛び込んできた。
「理緒くん理緒くん。そういう気分になる日もあるんだって、女の子には」
彼女の言いたいことはわかるのだけれど……その言い回しはよくないと思う。
微妙にエロいというか、なんというか。
同じことを梢ちゃんが言ったのならば、少しは受ける印象も変わってくるのだろうか。
つまり、悪いのは美花ちゃんの発音の仕方であって、言葉そのものじゃないということに?
ああ、ありえるかもしれない……。
「ねえ、なんか失礼なこと考えてない? 理緒くん」
「うん、ちょっとだけ」
「正直っ! そしてそれは酷いよ、理緒くん! 速やかな謝罪と賠償金を要求するよ!?」
「賠償金の支払いは拒否したいなあ。ちなみに、いくら?」
「え? いくらって……う~んと……」
「それくらいはちゃんと決めておこうよ。深く考えないうちに発言しちゃうのって、美花ちゃんの悪い癖だよ?」
「うっ……。そ、そんなことないし! 私、いつもいつも深く考えてから発言してるし! その証拠に、学校での成績もいいし!!」
「どうだか。あと、こういうことに学校の成績って、あんまり関係ないと思うんだよ、僕は」
「……うわあああ~ん! 梢ちゃあ~ん! 理緒くんが今日はいつにも増して冷たいよ~!!」
「わわっ!? み、美花さん! オレンジジュースを注いでいるところに、いきなり抱きついてこないでください!」
「ちょっ!? 梢ちゃんまで冷たい!?」
「いえ、そういうわけではないのですが。でも、服にジュースがかかっちゃったら困るでしょう?」
「そりゃ、困るけどね……。――ねえねえ、力也くん。力也くんからも理緒くんに言ってやってよ! あすかちゃんを隣に侍らせて悦に入ってないでさあ!」
「悦になんか入ってねえよ! ……でもよ、理緒。確かにちょっと言いすぎだったんじゃね? まあ、昼にあったことがあったことだから、気分がささくれだってるのはわかるけどよ」
「いや、別にそれが理由じゃないからさ、力也」
「うん? なになに? 私がバイトに行ってる間に、部活のほうでなにかあったの?」
「……ええと、ノーコメントで」
「ダメ。黙秘権の行使は認められませ~ん。……って、なに見つめあっちゃってるの!? 理緒くんと力也くん! まさか二人は、禁断の関係に……!? ダメだって! 力也くんにはあすかちゃんというものが!」
「なんでそこで、あたしが出てくるんだっ!」
「あれ? あすかちゃんって力也くん狙いでしょ? 違った?」
「ち、違うわ、ぼけっ! あと美花は少し黙ってろ!!」
「が~ん。今日はあすかちゃんまで私に冷たい……。もしかして私、今日はアウェー? 究極なるアウェー・オブ・クイーン? そうなの? 理緒くん」
「いや、知らないけど。あと、なんでわざわざ怪しげな英語で言ったのさ?」
「もちろん、なんとなく。……って、それはいいよお! 誰か、この私に救いの手を! 理緒くんに対抗するために、私に力を! プリーズ! ヘルプミー!!」
「……まったく。今日はいつにも増してテンションが高いのう、美花は」
「うん、今日はバイト先で、久々にこの紫色の脳細胞をフル活用する機会に恵まれてね! そんなわけで、お菓子を食べて糖分補給っと」
「美花くん。紫色じゃなくて、灰色だ」
「ありゃ、そうだったっけ。黒江さん、訂正してくれてありが――」
「ああ! 素晴らしきはポアロ! ミステリ! 長らく活動を停止していた私の灰色の小さな脳細胞も、これを期に活発に動きだしそうだ!」
「私の話を聞いてないわね、黒江さん」
「どれ、あとで久しぶりに本格ミステリでも読んでみるとしよう」
「はあ、まあ、どうぞご自由に。――それはそれとして、フィアリスちゃんは随分とテンション低いね?」
「そう見えるか? まあ、今日は厄日じゃったからの。仕方あるまい」
「厄日? なにがあったの?」
「それがの……ぶっ!? なんじゃこの酒は!? 辛い! 辛すぎるぞ黒江!!」
「当然だろう、フィアリスフォール。それはウォッカなのだから」
「なんで、こんなものを買ってきたのじゃ! ことと次第によっては……!」
「そう殺気立つな。他ならぬフィアリスフォールが以前に言ったのではないか。人間の志とアルコールの度数は、高いほうがいいと。だから買っておいてくれと。私はそれに従ったまでだ」
「ぐっ……。むう、そうじゃったか……」
「そうだったさ。――それはそうと理緒くん、一体部活のときになにがあったんだい? どうも、ただごとではないようだが」
「あー……。――どうしようか? 力也」
「いや、オレに判断を仰がれてもな……。でも正直に答えても、頭がおかしくなったって思われるよな、絶対」
「だよねえ……。僕、フィアリスみたいに電波扱いされたくないし」
「理緒、今日のお主の言葉には、微妙な棘があるの」
「……気のせいじゃないかな。――力也、ちょっと耳貸して」
「んあ? おうよ」
「えっ!? なになに!? 男二人で内緒話!?」
「うん、美花ちゃんはちょっと黙ってようか」
「うわあ! あすかちゃんに続いて、理緒くんにまでそれを言われたあ!」
「だから、うるさいから。……もう。ちょっと、あすかあたりに絡んでてよ。頼むから」
「う~ん……。理緒くんの頼みじゃしょうがないか。うん、しょうがないしょうがない。というわけで、あすかちゃ~ん、こっちに来て絡も~う?」
「なんでだっ!?」
「他ならぬ、理緒くんの頼みだから」
「なにいっ!? おい理緒! まさか、あたしを売ったのか!?」
「そういうつもりはなかったんだけど……。まあ、ちょっと行ってきてもらえる? あすか」
「おい、こらあっ!」
「――よっと! あすかちゃん、つ~かま~えたっ! さあさあ、お姉さんと一緒にあっちに行こ~う!」
「あっちって、どっちだあああああああああっ!?」
「…………。あー……、えっとよ、理緒。あれは放置しといていいもんなのか?」
「まあ、さすがの美花ちゃんも取って食べたりはしないでしょ」
「いや、食いそうじゃね? 色んな意味で」
「どんな意味でなのかが気になるところだけど……まあ、それは置いておこう。で、力也。ちょっと耳貸して」
「おう」
「……まず、昼にフィアリスがやったことには、絶対に触れない。で、ちょっと自爆することになっちゃうけど、僕が代わりになる話題を出して、なんとかごまかしてみるよ」
「わかったぜ。……あ、でもよ。もしフィアリス自身が昼間のことを言い出したら、どうすんだ?」
「そのときは……まあ、フィアリスの『いつもの電波発言』ってことにしちゃおう? 僕たちは『そんなことあったっけ?』って、素知らぬ顔をさせてもらうってことで」
「それは、ちょっとフィアリスに悪いような……。理緒、やっぱり今日はちょっと機嫌悪いだろ?」
「まあ、ちょっとだけね……。――美花ちゃん! そろそろあすかを放してあげて!」
「なになに? もう内緒話タイム終了? ちえ~っ」
「『ちえ~っ』じゃなくてさ。ほら、あすかをこっちに戻して」
「了解~。ほらほら、あすかちゃん。力也くんの元にお帰り~」
「ぜえ、ぜえ……。理緒、恨むぞ……」
「お帰り、あすか。なんかすごい息が上がってるけど、一体なにしてたの?」
「…………。言えない……」
「……わかったよ。ちょっと怖くなってきたから、僕も訊かない」
「マジで一体なにをされてたんだ、おい……」
「訊かないであげようよ、力也。絶対に知ってはいけないことっていうのが、この世にはあるんだよ。きっと」
「そんなもんか」
「そんなもんなんだよ。――それで美花ちゃん、昼間のことなんだけどさ。その、実は……深空ちゃんが『主人公とヒロインのキスシーンを追加しよう!』なんて言いだして」
「キスシーン!? うわあ、なんでそういう日に限ってバイトがあるかなあ! ぜひともその場にいたかった!」
「うん、絶対にそう言うと思ってた……」
「もう本当に心の底からその場にいたかったです! はい!!」
「美花ちゃん、テンション上がりすぎだからさ……」
「ちなみに、主人公とヒロインがってことは、キスするのは理緒くんと梢ちゃん?」
「うん、まあ……」
「そうなりますね。でも、キスとはいっても――」
「いやあ、梢ちゃんと役を交代しておいてよかったねえ、あすかちゃん! もしそのままだったら、理緒くんとキスすることになってたわけだし!」
「役を代わってもらえて助かっているのは事実だが、どうしてさっきからあたしにばかり話を振ってくるんだ? 美花は。しかも、そういう変なことばかり」
「え~、だってそりゃあ……ねえ?」
「『ねえ?』と言われても、あたしには全然わからないぞ?」
「う~ん……。じゃあ、もうこの際ぶっちゃけちゃうけどさ。あすかちゃんって、力也くんのこと好きでしょ? 愛しちゃってるでしょ?」
「――は……?」
「だからさ、好きでもない男の子とキスするとか、絶対に嫌じゃない、女の子としては。だから、そうならなくてよかったね~って話で」
「――ちょっと、待て……」
そこで、気づいた。
うつむき加減に座っている、あすかの膝の上。
そこに置かれている彼女の掌が、固く握りしめられていることに。
「そんな役割、あたしには課せられてない。人を好きになるのは、兄貴がすることだ……」
大きく見開かれた瞳。
わなわなと震えている唇。
けれど、あすかは一体なにを言っているのだろうか。
役割? 課せられてない?
それはどういう……?
やがて、彼女は勢いよく立ち上がって。
「だから、あたしは誰かを好きになんてならない。好きになんてなれない。親父から、それを望まれてないから。あたしに課されているのは、ただ『大いなる善』を手に入れることだけだ……」
けれど、激情にまみれた言葉を口にすることはなく。
ただ、あすかは寂しげな口調で、そうこぼした。
そんな彼女に、美花ちゃんが戸惑ったように声をかける。
「で、でもさ。人を好きになるのって、理屈じゃないでしょ? 誰かに言われたから好きになるとか、命令されたから好きにならないとか、そういうふうに理性でコントロールできるものじゃないでしょ?」
「そんなの知らない。あたしは、そんなこと教わってない」
「教わってないって……。でも、現実にあすかちゃんは力也くんのことが好きでしょ? じゃなきゃヤキモチなんか焼かないし、今日だって隣に座ったりなんか――」
「確かに、力也のことは嫌いじゃない。いい友達だって思ってる。……いや、思ってた」
美花ちゃんを見下ろしながら、あすかは語る。
その声に、わずかばかりの苛立ちを含ませて。
「最近、よくわからなくなってきてたんだ。ちょっと前まではそんなことなかったのに、いまは力也を見てるとムカムカすることがある。イライラすることがある。どうしてか、無性に蹴り飛ばしたくなるときだってあるんだ。力也が悪いわけじゃないって、頭ではちゃんとわかってるときもあるのに……!」
それは、きっと……。
ふと見れば、美花ちゃんは複雑な表情を浮かべながらも、口は開かず座ったままの姿勢でいた。
おそらくは、僕と同じことを彼女も思い、しかし、自分がわかったふうなことを言うべきではないと悟ったのだろう。
そして、僕は隣にいる力也を盗み見た。
この話題の、当事者のひとり。
その彼は、一体どう動くのだろうか、と。
「おい、あすか。そんなん気にすんな。別にいまに始まったことじゃねえんだから――」
「うるさい! あたしをムカムカさせてるのはお前だろ! そのお前がなんでなだめる側に回るんだ!」
「いや、なんでって言われてもな……」
心底困ったように頭をかく力也。
と、なにを思ったのか、唐突に美花ちゃんが力也の腕に抱きついた。
「あん? いきなりどうした? 美花っち」
「なっ!? おい美花!? なにしてるんだ!!」
平然と首を傾げる力也に、目を剥いて大声をあげるあすか。
美花ちゃんは彼女のその反応を確認してから、口を開いた。
「ほら、いま思わず動揺したでしょ? 大声あげたでしょ? あすかちゃん。これがあすかちゃんが力也くんを好きだっていう証拠――」
「うっさい、ぼけえっ! 二人とも……二人とも、大っ嫌いだーーーーーっ!!」
彼女の言葉を、最後まで聞くことなく。
身を翻して、あすかは和室から飛び出て行ってしまった。
あとに残されたのは僕たちと、重い沈黙。
「……えっとさ、美花ちゃん」
彼女があすかになにを教えたかったのかは、わかる。
だからこそ、僕は率先して重苦しい空気を破った。
「美花ちゃんがやりたかったことは、僕にもわかったよ。その……あすかにヤキモチを焼かせて、あすかが抱いている感情がどういう類のものなのかを、自覚させようとしたんだよね?
でもさ、その方法じゃ、やっぱりダメなんだよ。たぶんあすかは、そういうのを理解できないくらい、まだ、精神的に幼いんだと思う」
「……うん。口で言っても伝わらないだろうからって、思いきってやってみたことだったんだけど。どうも、あすかちゃんにはマズい刺激になっちゃったみたいだね……。
あはは、さっき理緒くんが言ったとおりだ……。あたしって、自分で思ってるよりも、ずっと浅い考えで動いてたんだなあ……」
しょんぼりと、うなだれて。
美花ちゃんが力也の腕から離れる。
それから、梢ちゃんのほうに目をやって。
「ごめん、梢ちゃん。あすかちゃんのこと、追いかけてあげて。たぶん、部屋に戻っただけだと思うから」
「……はい。――あの、あまり自分を責めないでくださいね? 美花さん」
「大丈夫。……もちろん、少しはへこんでるけどね」
そうして、梢ちゃんが和室を出て行ってから。
ぽつりと、つぶやく人がいた。
「……難儀なものじゃな、まったく」
フィアリスだ。
彼女は物憂げに嘆息して。
「人間同士の仲というものは、本当に些細なことですぐにこじれよる。――日々をただ過ごせるだけでありがたい、今日の命があるだけでも喜ばしい。そう思うことができれば、この程度の問題、瑣末事であるとわかるであろうに」
「愚かだ、とでも言いたいの? フィアリス」
「そう怖い顔をするでない、理緒。ただ、なにごとも単純にはいかぬものじゃな、と思っただけじゃ。今回の件には、『大いなる善』のことなどほとんど関係しておらぬ。じゃというのに、ここまで事態がこじれるとは、とな」
「そういえば、あすかも『大いなる善』がどうこうって言ってたね。それにその『大いなる善』っていうの、僕も以前に聞いた覚えが――」
「――うおおおあああああああっ!」
唐突に、響き渡った涙声。
なにごとかと目を向ければ、そこには畳の上にうずくまって号泣している力也の姿があった。
「ちょっ、いきなりどうしたのさ!? 力也!」
「あすかが、あすかがオレのこと嫌いって……! いや、大嫌いって……!」
腕でごしごしと目元を拭いながら、しゃくりあげる。
「いままでよ、どんなに怒らせちまったときでもよ、あいつは、そんなこと言ったことなかったんだ……! なのに、なのに……!」
「言ったこと、なかった……? 『大嫌い』って……?」
「――うああああああああああああああっ……!!」
いまのはさすがに失言だった、と思わず手で口を塞ぐ僕。
そうして、声をあげて泣く力也を視界に収めたそのままで、僕はいままでのことを思い返す。
言われてみれば、そうだった。
あすかはどんなに怒っても、誰かに『嫌い』と言うことだけはなかった。
もちろん、力也を蹴飛ばすことは何度となくあったけれど、それでも『嫌い』と口にすることだけはなかったのだ。
そして、それを初めて言われて。
力也は、いままでの友情が壊れたと、思ったのだろうか。
本当に、心底嫌われてしまったと、感じているのだろうか。
もちろん、あすかの『嫌い』は『好き』の裏返しだろう。
それは、僕を含めた誰の目にも明らかであったはずだ。
本心では、絶対にない。
でも、力也にとっては……。
「……大丈夫だよ、力也」
「うっうっうっ……。大丈夫って、なにがだよ? 理緒……」
「あすかは、力也のことを嫌いになんかなってないよ。だから、大丈夫」
「でも、確かに『大嫌い』って……」
「勢いで口にしちゃっただけだよ。絶対、明日には仲直りできるって」
「ほ、本当か……?」
「うん、本当。どうしても気まずいようなら……僕が、力になるから」
友達として。
いや、親友として。
僕が、力也の力になるから。
僕がここに越してきたその日から、いつも力也が、そうしてくれていたように。
「だから、力也。泣かないで。……大丈夫だから。絶対に、大丈夫だから」
「り、理緒ぉ……」
流れる涙を拭おうともしなくなった力也の背中を、僕は優しく撫でる。
そして、そうしながら、僕は。
きっといまごろ、梢ちゃんもあすかに似たようなことをしてるんだろうな、なんて。
そんなことを、考えるでもなく思い浮かべていた――。
ずいぶんと久しぶりになりました。
『天王寺あすか編』、ようやくスタートです!
今回は、前半は宴会パート。後半は『あすか編』の本格始動というふうにしてみました。
また、宴会パートでは『会話文のみで物語を進める』ということにも挑戦!
ちゃんと、誰がしゃべっているのかをわかってもらえるのかが、ちょっと心配でもあったり。
力也のところは、『強い人間の弱いところ』と見るか、『情けない男』と見るかで、かなり印象が変わってくると思います。
僕としては前者として見てほしいところなんですけどね(苦笑)。
それでは、また次回!




