第十話 かみさまのすまうところ
――夢を見た。
初めて梢ちゃんと出会ってから、何日かが経った日の夢を。
幼い彼女との別れが、目前に迫った日の夢を。
そして、夢の中の僕たちは、その事実をまだ知らずにいた。
その日も、いつもと変わらぬ快晴。
翌日の別れなんて知らない僕たちは、その日も変わらず中庭で遊んでいた。
無邪気に、朗らかに、とてもとても楽しそうに。
そこに、女の人の声が投げかけられた。
「――楽しそうね」
それは、とても柔らかい声。
同時に、充足感にあふれた声でもあった。
目の前には、金色の髪をポニーテールにした、十代後半の女性の姿。……いや、この場合は少女と称したほうがいいのだろうか。
くすりと笑い、彼女は僕たちの前に屈み込んできた。
「名前は確か、リオとコズエだったかしら?」
僕たちは同時に無言でうなずく。
それに彼女はうなずきを返してきて、
「コズエの名が片山荘にもたらす性質は『止まり木』ね。次代のエリは『恵み』、上手くいけばコウイチの『成功』も付加される。それでもタイゼンのもたらした性質、『大いなる善』には到底、及ばないわけだけれど」
少しだけ口惜しそうに、彼女の口から言葉が紡がれる。
それが意味するところなんて、もちろん僕にはわからない。
わからなかったけれど、夢はそのままに続いていく。
「当たり前のことだけれど、どんな大樹も、太いのは幹だけなのよね。枝のほう、それも先のほうまでいけばいくほど、木というものは細くなっていってしまう。もちろん、それは仕方のないことなのだけれど」
嘆息。
立ちあがって、彼女は右手を空に向けて伸ばした。
まるで、そこにあるなにかを掴むように。
「――ほら」
少しして、その掌が僕のほうに差し出された。
そこにあったのは、金色の色鉛筆。まだ少しも削られていない新品だ。
「わあっ……!」
無邪気に喜び、色鉛筆を受け取る僕。
その現象に、なにひとつ疑問など抱かずに。
「リオ、人から物をもらったときは、なんて言うのだったかしら?」
たしなめるように人差し指を立てる彼女に、幼い僕は「あっ」とこぼして、
「……ありがとう?」
「ええ、よくできました。……疑問系じゃなければ、もっとよかったかもね」
曲げた人差し指を口許に持っていって、彼女はクスクスと笑った。
「――そう、いまはまだ、ここでも『こういうこと』ができる。他にも、記憶を封じたり、時間の流れを速めたり、遅くしたり、『アーカーシャー』にアクセスして、過去や未来を知ったりすることもできる。『希術』の力の源――『大いなる善』が、ここにはあるから。
でも、それもあと二年ほどで失われてしまう。人間には、寿命というものがあるから。それは、タイゼンであっても例外じゃない。やっぱり、ここは『候補地』止まりのまま……」
先ほどから何度となく出てきている『タイゼン』というのは、僕と梢ちゃんの祖父、天野大善のことなのだろうか。
その祖父の存在が、片山荘にとってはそこまで重要なのだろうか。
「おねえさんは、だれなの?」
幼い僕が問いかける。
それは、色々な意味が込められた質問で。
だからこそ、彼女もどう答えたものか、迷ったのだろう。
金色の髪の少女は、ちょっとだけ苦笑して、
「一応、今日までに何度か顔を合わせてはいるのだけどね。――誰なの、ねえ……。名乗ってほしいってわけじゃ、ないわよね……」
う~ん、と彼女は空を見上げながら少し考えて、ようやく適切な言葉が思い浮かんだのだろう、顔を僕たちのほうに戻し、ふんわりと微笑んだ。
「神さま、かしらね」
『かみさま?』
声を揃えて首を傾げる、僕と梢ちゃん。
それに笑みを苦笑の形に変え、彼女が補足する。
「ええ、神格を得ているのだから、私だって一応は神さまのひとりよ」
「ほかにも、いるの?」
続けざまの僕の質問に、彼女はちょっとだけ瞳に憂いの色を宿らせて、
「そうね。ただの『候補地』とはいえ、ここには『大いなる善』があるのだもの。一概に悪いこととはいえないけれど、『造物主』という厄介なのに目をつけられてしまったわ」
「くり、えいた……? それも、かみさま?」
「一応、神格を得ているからね。もっとも、私よりは下級だけれど」
「かきゅう?」
「私よりも……う~ん、なんていったらいいのかしらね。私よりも権限が弱いわけだから……。うん、私のほうが造物主よりも偉い、と言えばわかるかしら?」
「えらいの?」
「偉いとか偉くないとかの物差しで測ること自体、本当はするべきじゃないのだけどね。でもまあ、この言い方が一番わかりやすいかなって。……ここだけの話、造物主のことは私、あまり好きじゃないし」
「すきじゃない? なんで?」
「……愚痴っぽくなるから言いたくないんだけどね。性格が苦手というか、なんというか……。とにかくウマが合わないのよ。彼には、人が悩んだり苦しんだりするのを見て楽しむ悪癖があるから。まあ、彼がいつまで経っても下級なのは、だからなのでしょうけど」
再び嘆息し、彼女は「ああいうのがいるから『神は無慈悲だ』とか言われるのよね……」などとつぶやく。
それで中庭にやってきた目的は果たしたのか、僕や梢ちゃんがこれ以上口を開こうとしないのを確認すると、彼女は僕たちに背を向けた。
それに、今度は僕のほうから言葉を投げる。
「あっ、おねえさん! なまえは!?」
彼女はポニーテールを揺らして、顔だけをこちらに向けた。
「そういえば、名乗るのを忘れていたわね。……私はイリスフィール。イリスフィール・トリスト・アイセル。あなたが憶えるには長いでしょうから、イリスでいいわ。もっとも、憶えてもらったところで、しばらくは会えなくなるわけだけれど」
「あえなくなる? なんで?」
「なんでって……。だって、あなたは家に帰るのでしょう? 明日」
「あし、た……?」
幼い僕は、呆然としてつぶやいた。
その心境に連動するかのように、見えている景色が少しずつ黒く染まっていく。
夢の終わりが、近づいてくる。
『――起こったことよ セピアにかすめ』
浅い眠りは、深い眠りへ。
夢として再生されていた過去の記憶も、心の奥深いところへと仕舞われる。
思いだすことなんて絶対にできない、深い深い心の奥へと。
奥底にある、ひとつの部屋へと。
『――忘れてほしいと私は願う』
記憶はその部屋に封じられ、ガチャリと扉に鍵がかかる。
それで、扉は僕には開けられなくなった。
もちろん、開けようなんて思いもしなかった扉だ。
だから、それを開く鍵が欲しいと望んだことは、一度もなかった。
そう、いままでは。
けど、いまは――
『――心の傷あと もう増えることのないように』
いまは、欲しいと望んでしまう。
扉を開く鍵が欲しいと、思ってしまう。
それが『彼女』の『願い』に、背くことであったとしても。
――ああ、でも。
僕が欲しいと願うその鍵は、一体どこにあるのだろう……。
◆ ◆ ◆
十月七日、日曜日。
僕たちは今日も朝から学園にやってきていた。
「理緒くんたちにとっては二日目になるわけだけど、私にとっては練習初日! そんなわけですから、お手柔らかにお願いしま~す!」
美花ちゃんが元気よく声を張りあげる。……そう、今日は美花ちゃんも練習に参加するのだ。
あすかもそうだけれど、美花ちゃんだって深空ちゃんがスカウトしようとしていた人材。
その彼女の練習参加に、深空ちゃんのテンションが上がらないはずもなく。
「じゃあ、まずは着替えてグラウンドに行くとしようか! あ、男子は昨日同様、更衣室で着替えてきてね」
昨日の夕食時に、僕たちから練習の内容を聞いているから、美花ちゃんが深空ちゃんの言葉に驚くことはない。
そして部長の号令を受け、部室を出る男子一同。
着替えを終え、力也に教えてもらいながらストレッチを軽くやっているうちに、女子たちも姿を現す。
美花ちゃんは……よかった、スパッツだ。
でも彼女は片山荘でも抜群のスタイルのよさを誇っている。そして、この集団の中でも美花ちゃんに敵う者はいなかった。
そんな彼女は来るやいなや、梢ちゃんを横目で見ながら、僕の肩をツンツンとつついてくる。
「お兄さんや、どうですかな? あれは」
「……うん、予想どおりすぎる行動をありがとう、美花ちゃん」
向けるのはジト目。
美花ちゃんはというと、大げさなくらい驚いて、
「あれぇ!? 梢ちゃんの胸のラインやブルマ姿を見て動揺しないの!? 鼻の下伸ばさないの!?」
「そう言われるだろうと思って、昨日のうちになんとか慣れておいたんだよ」
「しまった……。昨日は割と暇だったから、無理してでもこっちに顔出すんだった……」
「いや、シフト入れられたところはちゃんとやろうよ。あと、そこまでしょぼくれることでもないでしょ」
「ああ、理緒くんの反応が実に淡白だ……。私の今日の楽しみがぁ……」
「なにも半泣きにまでならなくても……」
相変わらず、美少女なくせに色々と残念な人だった。
ともあれ、僕たちは昨日と同じく、ランニングに腕立て伏せにと順番にこなしていく。
その途中途中で美花ちゃんが、
「見よ! このカモシカの脚と喩えられたこともある美脚を! そして私の軽やかな走りを!!」
だの、
「ふっ、腕立て伏せ百回とか、私にかかれば造作もないわ!」
だのと、なんかやたらとテンション高く叫んでいたけど、まあ、いちいち反応していると長くなるから、基本的には無視する方向で。
……いや、違うか。ツッコミとか入れてる余裕が僕にないだけだ。なんせ、
「死ぬ……。正直、昨日よりキツいよ、今日……」
全身が、筋肉痛……。
力也がなんともなさそうなのは当然としても、僕とあすかは昨日が久々の本格的な運動だったのだ。
身体の節々が酷い痛みに襲われるのは、まあ、昨日のうちから予想はしていた。でも、まさかここまでとは……。
「理緒くん、絵本作家とか目指してるだけあって、やっぱり体力ないね~」
腕立て伏せを終えての休憩時、美花ちゃんが汗を拭くハンドタオルを片手に僕のところにやってきた。
「今日は仕方ないんだよ。全身が筋肉痛でさ……。実際、昨日のほうが回数的には多かったもん」
そして、健康的な汗をかいている彼女のほうはといえば、なんと腕立て七十二回。副部長である美鈴ちゃんといい勝負だった。
「むしろ、どうして美花ちゃんはそんなに回数をこなせるのさ。ランニングも完走できてたし」
「そりゃ、ファミレスでの仕事中はずっと立ちっぱなしだからねえ。梢ちゃんも筋肉痛ではあるっぽいけど、理緒くんやあすかちゃんに比べれば全然平気そうだし」
「働く女の子は強いってこと?」
「まあ、そんなところ。……ところであの二人、昨夜あたりから妙に仲よくなったと思わない?」
美花ちゃんが向けた視線の先を追うと、そこには力也とあすかの姿が。
表情から察するに、落ち込んでるあすかを力也が元気づけてるって感じだろうか。
「昨日、一緒に腹筋運動やったあたりから、あんな感じになったんだよね、力也たち」
「ふうん、やっぱりそうなんだ。いやあ、昨日の夕食のときはすごかったよねえ。あすかちゃんってば、力也くんがどれだけ凄いか、まるで自分のことかのように誇らしげに語っちゃってさ」
「昨日の昼食のときもそうだったよ。いやあ、あれは微笑ましかった」
「ほほう。けどまだ、あと一押しが足りないって感じですなあ。どれ、それを私が――」
彼女がそこまで言いかけたときだった。
ざっと砂利の音を鳴らし、隆士くんが声を投げかけてきたのは。
「なあ、立川。……さっきから気にはなってたんだけど、そっちのはもしかして、二年のあの岩波か?」
どこか、ぼーっとした声音で尋ねてくる。まあ、美花ちゃんの場合、容姿が容姿だからなあ。
それはそれとして、僕の代わりに美花ちゃんが答える。
「そう、その岩波よ。あなたのことは理緒くんたちから聞いてるわ。よろしくね、山本くん」
「あ、ああ、よろしく。……って、あのさ、俺って一応、岩波の先輩なんだけど?」
「おや? 『くん』づけに不満がおあり?」
「いや、そうじゃなくてさ。普通、先輩とかつけないか?」
「普通はどうか知らないけど、私は理緒くんにも力也くんにも『先輩』なんてつけないからなあ。いまさら感がバリバリで……」
折れる気ゼロと悟ったか、はたまた気軽な『くん』づけもいいとでも思ったのか、隆士くんは後頭部をボリボリと掻いて、
「わかった。ともあれ、これからよろしくな。岩波」
「こちらこそ、よろしく。――と、そんなことより、あすかちゃんと力也くんのことだけどさ。ちょっとばかり距離が縮まったようだけど、なにせあの二人だもの、このままじゃ『仲のいい友達』で終わりかねないわ。ここは、お姉さんの出番よね!」
なんか、俄然張りきりだす美花ちゃん。
「そろそろ腹筋を始めるよ~!」
そこで深空ちゃんのかけ声がグラウンド中に響き渡った。もちろん、そのあとには「目標は百回!」と続く。
美花ちゃんが、あすかたちのほうへと向かって歩きだした。その隣に並び、僕は彼女に「余計な気は回さなくてもいいと思うけど」と話しかける。
「放っておいても、腹筋は力也とあすかが組むことになるって」
「それじゃダメなのよ! それこそ仲のいい友達止まりになっちゃうじゃない!」
大きな声を出されて、思わず怯む僕。
あとに続けるつもりでいた『本当は、あすかには梢ちゃんと組んでもらって、力也とは僕が組みたいところなんだけどね……』という言葉すら、つい呑み込んでしまった。
「まあ、見てなさいって。大丈夫、私に任せておけば全部上手くいくから!」
「ふふふっ」と美花ちゃんは少し怪しい笑みを漏らす。
その自信は一体どこからくるのだろうか。そもそも、彼女にはつきあってる人とかいないはずなのだけれど。
「変なこととか、企んでないよね……?」
「もちろん! 私はね、理緒くん。誰にとってもプラスになる企みごとしかしないのよ!」
「なにかを企んでは、いるんだね……」
なんか、不安だなあ。
ニヤニヤと口許を歪める彼女の横顔を見ながら、僕はそう思わずにはいられなかった。
本当、よくないことを企んでいないといいのだけれど……。
ようやく登場したイリスフィール。
理緒が過去のことを思いだせないのは誰のせいなのかは、これでわかってもらえたはず。
けれど、謎はまだまだ残っています。
そう、なぜ記憶を封じたのか、という疑問が。
うってかわって、後半は美花も参加しての練習パート。
いやあ、賑やかになりました。まあ、彼女の練習参加は不定期なものになるわけですが(笑)。
そして、誰にでも容易に想像がつくであろう、美花の企みごととは……?
引き続きの美花回に期待していただければ、と思います!




