表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

とどかず山のイワノとセツカ

 今からどれくらい前のことでしょうか、とどかず山と呼ばれる山に、イワノという名前の雪男が住んでいました。イワノはとてもやさしい性格でしたが、毛むくじゃらで体が大きく、見た目にはたいそうおそろしいすがたでした。そのおそろしいかっこうで人間たちを追いはらいながら、イワノは小さな木の実を食べて、ひとりぼっちでくらしていました。


 その日イワノがいつもの通りに、いい天気の山の中をずしんずしんと歩いていると、ひょうひょうと山はだを風がふきつける音にまじって、女のすすり泣きの声が聞こえてきたのでした。さては人間がまよいこんできたにちがいない、早く助けてやらないと。そう思って、イワノは大きな足をふりあげて、ひざまである雪の中を、どしどしと歩いていきました。


 声は山の大岩のかげにある、小さなほら穴の中から聞こえていました。イワノが穴の中をのぞいてみると、うすぐらいやみの向こうに、すき通った白い着物がちらりと見えました。この着物は見おぼえがありました。ずうっと前、この山に住んでいた雪女のおばあさんが着ていたのと同じ着物だったのです。


 どうやら、すすり泣いているのは人間ではなく、雪女のようでした。イワノは少しほっとしました。人間だと、イワノのすがたにびっくりして、あばれたり、気をうしなったり、わんわん泣き出したり、あつかいがたいへんなのです。


「おうい。だいじょうぶかあ。」


 イワノがそっと呼びかけると、雪女ははっとして、すすり泣きをやめました。かみの長い、ほっそりした女の子でした。女の子はふり向くと、イワノの大きな体をこわがって、ぶるぶるふるえだしました。


「何もせんから、こわがらんで。」


 おびえたまま何も言わない女の子を、これいじょうおびえさせないように、イワノは小さい声で言いました。


「おらはイワノ。この山を守る雪男でよ。泣き声が聞こえたもんで、様子を見にきたんだあ。」


 イワノは顔がひきつるくらいがんばってにっこりしながら、大きな体をほら穴の中に入れようとしました。しかし、そのひょうしにごんと頭をぶつけてしまいました。ものすごい音がほら穴の中にひびきわたり、女の子はこわがるのもわすれて、目を丸くしました。


「あっはっは。びっくりさせて、悪かったなあ。ここはちょおっと、せまいからな。」


 今度は頭をぶつけないようにこしをかがめて、イワノはほら穴に入り、女の子の前にどしんと座りました。女の子はまだおびえていましたが、少しだけ落ち着いたようでした。


「いきなり来て、おどろかせちまったなあ。人間いがいのおきゃくさんなんて、はじめてだから、つい、うれしくてなあ。」


「…あの。ここには。雪女は、住んでいないんですか。」


 消えてしまいそうな小さな声で、女の子がたずねました。かすれたすずの音のような声でした。イワノはうなずきました。


「昔はおばあさんがいたんだが、今はおらしかいねえ。なかまがいたら、よかったんだけどなあ。」


「そう、ですか。」


 雪女の女の子は、 とてもざんねんそうな顔をしました。ほかの雪女をさがしにきたのかもしれないと、イワノは思いました。


「悪いけど、近くの山にも雪女はいないんだあ。おまえさんは、どこからきたんだ。」


 イワノがたずねると、女の子はちょっとだけだまりこんだあと、つぶやくように答えました。


「ななつが崎の。ふもと、です。」


 イワノはおどろいてしまいました。ななつが崎といえば、ここから何日も何日も、毎日くたくたになるまで歩かなくてはいけないところにあるからです。


「そんなに遠いところから、よくこんなところまで来たなあ。大変だったろう。」


「ほかに。行くところが、なかったんです。」


 しばらく口をとざしたあと、とぎれとぎれに、女の子は言いました。ゆうきをふりしぼって、やっとのことではき出したような、か細い声でした。


「ななつが崎は。すっかり、あたたかく、なって。もう。住めなくなったんです。」


 イワノはこの山の近くから出たことがないので、女の子のふるさとのことは、名前しかわかりません。しかし、もしこの山が夏いがいもあたたかくなって、雪がまったくなくなってしまったら、と考え、ぞっとしました。それに雪女は、あんまりまわりがあたたかいと、とけて死んでしまうと聞いたことがあります。


「そうか、それはつらかったなあ。さいわい、この山の雪はまだまだいっぱいあるから、少しここで休んでいくといい。なんだったら、このまま住んでもかまわんでよ。」


 女の子は今度こそびっくりして、イワノの顔をまじまじとみつめました。


「あの。いいんですか。」


「もちろんだあ。」


 女の子は、しばし考えたあと、ふかぶかと頭を下げました。


「ありがとう、ございます。しばらく、ここに、おいてください。」


 女の子の言葉を聞いて、イワノはなんだかむずがゆくなってしまいました。まよいこんできた人間を助けた時も、さわぐかおこるか泣き出すかばかりで、一度もおれいを言ってくれたことがないのです。 こんなにどうどうと、めんと向かってかんしゃされたのは、はじめてのことでした。


「あ、ごめんなさい。もうしおくれました。わたしの名前は、セツカと、いいます。これから、よろしく、おねがいします。」


 セツカはもう一度、イワノにぺこりと頭を下げました。イワノはきゅうにうれしくなって、飛び上がっておどろうとしましたが、そのひょうしにまた頭を天井にぶつけてしまいました。セツカはびくりとふるえましたが、頭をかかえるイワノと目を合わせると、くすくすと、はじめて笑顔を見せてくれました。






 それから、セツカはそのほら穴でくらすことになりました。イワノは自分のすみかでこれまでのようにくらしながら、たまにセツカのほら穴に遊びに行きました。


 セツカはイワノのように木の実は食べませんでしたが、イワノが来るといつもうれしそうな顔で出むかえて、ひかえめに笑いました。イワノもうれしくなって、にっこり笑いました。ほら穴はイワノにはせまかったけど、なんだかとてもいごこちがよくて、ずっとずっとここにいたいと、イワノは思ったのでした。


 セツカはしゃべるのが苦手で、何かを言うときは、いつも小さな声で、少しずつ言葉を切り取るような話し方をしました。いっしょうけんめい、どう言えばいちばんいいのかをずっと考えながらしゃべっているようでした。だから、イワノも、セツカの言葉をひとことももらすまいと、いっしょうけんめいに耳をかたむけました。


「この山は。とどかず山と、いうんですね。どうして、そんな名前、なんですか。」


 いつものようにイワノと向かい合って座りながら、セツカはイワノにたずねました。イワノはむねをはって答えました。


「そりゃあ、人間はだあれもこの山のてっぺんに手がとどいたことがないからだあ。おらがみーんな、おっぱらっちまったんだ。」


 この山のてっぺんのすぐ近くには、小さなどうくつがあります。そこには雪女のおばあさんが残した大切な氷のかけらが置いてあるので、人間を近よらせたくなかったのです。イワノが少しこわい顔をしておどかせば、人間はみんな逃げていったので、楽なものでした。


「そうだ。セツカも行ってみるか。あんないしてやるでよ」


「その。いいんですか。」


「もちろんだあ。そうだ、せっかくだから、ついでにこの山をあちこち見せてやるだ。」


 イワノはセツカの手をとって、とどかず山を残らず見せて回りました。これはきらきら大杉。よく冷えた朝に見ると、きらきら光ってきれいなんだあ。ここはのぼれず淵。下は深い雪だまりだから、ぜったいに落ちないように気をつけてな。あっちはだんだら坂。てっぺんは景色がいいけど、登るのが大変なんでよ。セツカはひとみをきらきらさせて、指をさして山のことを教えるイワノの言葉のひとつひとつにうなずきました。


「さあ、そしてここが、とどかず山のてっぺんだあ。」


 イワノに連れられて、のぼりきったとどかず山のてっぺんは、それはうつくしいながめでした。広く広く、どこまでも見わたせる白い大地。となりのごつごつ山のしましまもよう。地平線のかなたにしずもうとしている夕日。遠くの雪原にぽつんと立っている木のかげが、長く長くのびています。だいだい色にそまった大空には、細かくちぎれた雲がうすくのびていて、するどい光が雲の切れはしを切りさいていました。少しぽうっとなっているセツカの様子に、イワノもすっかりうれしくなってしまいました。


「これは、人間はだあれも見たことがねえ。この山に住んでるおらとセツカだけが見た景色だ。どうだ、すげえだろ。」


「人間の、知らない。わたしたち、だけの、景色。」


「そうだあ。山に住んでなきゃ、見られんでよ。」


「はい。わたし、とどかず山に来て、よかったです。」


 セツカは安心した子どものような顔で、にっこりと笑いました。






 とどかず山にセツカが来てから、しばらくの時がたちました。同じ山に住むなかまがふえて、イワノは心がうき立つような日々をすごしていました。


 こんな気持ちは、昔、この山に雪女のおばあさんが住んでいた時いらいでした。おばあさんは親とはぐれて泣いていたイワノをひろってそだててくれた、おかあさんのような人でした。おこるととってもこわいけど、そうでない時は、いつもおだやかな笑みをうかべて、イワノの頭をやさしくなでてくれました。そんなことを思い出し、イワノは少しだけせつない気分になりました。


 おばあさんはすでになくなり、今は小さな氷のかけらになって、てっぺんのどうくつでねむっています。おばあさんが、そこでゆっくりねむらせておくれと、言い残したのです。それからこの山の天気がいつも晴れやかなのは、おばあさんがやさしかったからにちがいないとイワノは思いました。


 ところがある日、イワノが自分のすみかの中で木の実を食べていると、外からひさしく聞いていない、強い風の音がしました。さっきはいい天気だったのに、どうしたのかと表に出たイワノはびっくりしてしまいました。外は、この山ではめずらしいことに、すごい吹雪になっていたのです。


 ここ何年も見ていないような天気に、イワノはしばらくぼうぜんとしてしまいました。しかし、これだけ強い風がふいていると、大きくて重たいイワノは平気ですが、細くて軽いセツカはふき飛んでしまうかもしれません。もしのぼれず淵にでも落ちたらたいへんだと、イワノはあわててセツカのほら穴に向かいました。


 セツカのほら穴の近くまでやってきたころ、強い吹雪の向こうに、誰かが立ちつくしているのがぼんやりと見えてきました。白くかすんだ雪原にたたずんでいるのは、やっぱりセツカでした。近づいて声をかけようとしたイワノは、ぎょっとして立ち止まってしまいました。


 セツカは声を立てずに泣いていました。


 セツカのひとみからなみだがぽろぽろとこぼれ落ちては、すぐに風に運ばれて雪のつぶとなり、セツカの回りをぐるぐるとうずまいています。ほんの少し先も見えないような、このすさまじい吹雪は、セツカが引き起こしていたのでした。


 ですが、イワノの足を止めたのは、吹雪ではありませんでした。泣いているセツカは、底なしの悲しみと強いいかりがないまぜになったような、今まで見たことがないような横顔をしていたのです。いつものくすくす笑っているセツカからはそうぞうもつかないようなおそろしい表情に、イワノは声をかけることもできず、あっけにとられて、そこに立っていることしかできませんでした。


 そういえば、おばあさんが、雪女は泣きさけんだり、どなったりするかわりに吹雪を起こすんだと言っていたことをイワノは思い出しました。おばあさんはいつもやさしく笑っていたので、そんなことはすっかり忘れていたのでした。


 セツカは、生まれた山に住めなくなったからここにきたのだと言っていました。いっしょに住んでいたなかまはどうなってしまったのでしょう。


 イワノもひとりぼっちですが、今も住みなれた山でくらしています。ところがセツカは、ほんとうにひとりぼっちで、その上、かけがえのないふるさとから放り出されてしまったのです。


 ぶあつい毛皮をつきぬけて、吹雪の冷たさがイワノの体をぶるりとふるわせました。その場にいつまでも立っていたら、すぐにかちんこちんにこおってしまいそうな、ぞっとする冷たさでした。


 イワノはぐるりとセツカにせを向けて、自分のすみかにもどっていきました。セツカに何を言っていいかわからなかったのです。それに、この吹雪はセツカが起こしているものなら、飛ばされてしまうこともないでしょう。さっき見たセツカの顔と同じように、深い悲しみといかりがあれくるう吹雪の中で、イワノは明日、どうやってセツカをはげまそうかと、そんなことを考えていました。






 夜が明けて朝いちばんに、イワノはおみやげを持って、セツカのほら穴に向かいました。あんなことがあった次の日ですから、セツカはどれだけ落ち込んでいるでしょう。何があったのかはわかりませんが、セツカをはげまさなくてはならないとイワノは思いました。イワノのように、つらいことを思い出してしまったのかもしれません。


 吹雪のせいで、山にはいつもよりたくさんの雪がつもっていました。それでもイワノは負けじと足をふりあげて、どしどしと雪をかきわけながら歩きました。


「おうい。こんにちわあ。セツカはいるかあ。」


 イワノはほら穴の入り口から、わざと明るく声をかけました。すると、いつもどおりのおとなしい笑顔のセツカが、ひょいと顔をのぞかせました。ちょっと意外でしたが、イワノはほっとして、その場にすわりこんでしまいました。


「だいじょうぶ、ですか。どうしたんですか。」


 あわててかけよるセツカに、イワノも笑って答えました。


「きのうはすごい吹雪だったから、風で飛ばされてないか心配だったんだあ。ぶじだったんだな。よかったあ。」


「きのうは、ずっと、ここにいましたから、平気です。イワノさんこそ、飛ばされませんでしたか。」


 おや、とイワノはふしぎに思いましたが、泣いていたことを知られたくないのだなと考え、何も言いませんでした。イワノは大きなうでで自分のむねをどしんとたたき、にっかりと笑って言いました。


「おらはこおんなに大きいから、どんな風がふいても、そうそう飛ばされたりはしないでよ。」


「そうですね。イワノさんは、くまのように、大きいです。」


「はっはっはっ。そうだ、今日はセツカにわたしたいもんがあるんだ。」


 イワノは左手ににぎっていたものを、セツカにわたしました。それはつばめのもんようがかかれた、べに色の帯とめでした。昔、雪女のおばあさんが使っていたものを、イワノは大事にとっておいたのでした。


「おらをそだててくれた雪女が使ってたもんだ。おらが持っていてもしかたがないから、セツカが使ってくれい。」


「こんなに、きれいなものを、もらっても、いいんですか。」


「もちろんだあ。そのほうが、おらはうれしいな。」


 ありがとうございますと、セツカはおれいを言って、さっそく自分の着物の帯に、イワノからもらった帯とめをつけました。あわい水色の帯の中に、べに色がきらきらと目立って、あざやかにかがやいていました。


「とってもきれいだあ、セツカ。」


「ありがとう、ございます。帯とめ、ずっと、大切にします。」


 セツカはぎゅっとおなかをかかえるようにして、帯とめをにぎって言いました。どうやらよろこんでくれたようで、イワノもうれしくなりました。そこでセツカは、ふと何かに気がついたような顔をして言いました。


「そうだ。イワノさん。わたしも、このあいだ、こんなものを、ひろいました。」


 セツカはほら穴のおくに引き返すと、何かを手に持ってもどってきました。それは、こげ茶色の、毛糸のぼうしでした。


「こりゃあ、人間が落としていったもんだなあ。」


 自分の気づかないうちに、人間が山にのぼっていたようでした。イワノだって、ずっと山を見はっているわけではありませんから、あとから人間の歩いたあとを見つけて、ぎょっとすることがよくあります。でも、どの人間もより道せず、まっすぐとなりのごつごつ山に向かっていたので、イワノのすみかや、てっぺんのどうくつには近よっていないようで、そのたびにほっとむねをなで下ろしたのでした。


 セツカはぼうしをイワノに渡すと、にっこり笑って言いました。


「お返し、です。これを、もらって、くださいな。」


 セツカはぐっと背をのばして、ぼうしをイワノの頭にかぶせました。しかし、イワノの頭は大きすぎて、むりやりかぶせられたぼうしは思いっきりふくらんで、そのままびりびりとすごい音を立ててやぶけてしまいました。


 ふたりは顔を見合わせて、山じゅうにとどくんじゃないかという声で大笑いしました。あんまりにおもしろかったのか、ふだんはくすくすと小さく笑うセツカも、このときばかりはイワノにまけないくらい大きな口をあけて笑いました。


「ごめんなあ。せっかくもらったのに、おらの頭はでっかいから、入らなかったな。」


「こちらこそ、ごめんなさい。また、何か。見つけたら、さしあげますね。」


 笑いすぎてなみだをながしたセツカが、目もとをぬぐいながらほほえみました。同じなみだはなみだでも、こういうのがいいな、とイワノは思いました。






 それから、とどかず山のくらしでは、いくつか、今までと変わったことがありました。




 まず、セツカがイワノにおくりものをするようになりました。


 さいしょにあげたぼうしがやぶけてしまってからというもの、イワノがほら穴をおとずれるたびに、セツカはどこをどうさがしてきたのか、さまざまなものをイワノに見せては、これはどうか、あれはどうかときいてくるようになったのです。


 その多くは人間の落としもので、イワノが見たこともないようなものがたくさんありました。四角くてかたい箱、平べったい小さな板きれ、うすい紙にくるまれた黒いかたまりなど、ありとあらゆるものをセツカは持ってきました。


 そういったよくわからないものについては、イワノはすぐに受け取らずに、セツカと二人で、これは何をするものなんだろうと、よく話し合いました。 黒いかたまりが食べるととってもあまいことがわかった時には、イワノよりもセツカのほうがよろこんでしまったので、ぜんぶあげてしまいました。


 もちろん中には、水をよくすう布や、大きなコップ、ぎん色に光るやいばなど、イワノのくらしに役立つものもあって、そういったものはありがたく受け取りました。やいばは木の実のかたい皮もすらすらむいてしまうため、イワノは木の実を食べるのがとても楽になりました。




 次に、人間がめっきり山に立ち入らなくなったかわりに、イワノより大きな鳥が、何度か山の上を飛び回ることがありました。


 そのびっくりするほど大きな丸い鳥は、ある日とつぜんあらわれると、ものすごい大声でなきながら、山のまわりをしばらくぐるぐる回りました。そのあと、そのままとなりのごつごつ山にさっていきました。イワノは森の木のかげにかくれながら、ぶるぶるふるえて、さってゆく鳥の後ろすがたを見おくりました。


「あんなの見たことがねえ。ありゃいったい、なんなんだろうなあ。」


 鳥が来た日の夜、イワノはほら穴で、 セツカに話しました。すると、セツカはまじめな顔になって、イワノのひとみを見つめました。


「昔。ななつが崎で、何度か、見かけたことがあります。 あれは、山にいるものを、なんでも食べてしまう、おそろしい鳥です。」


「ええっ、そうなのかあ。そんなのがいるんだな。」


「イワノさんも、ぺろりと、食べられちゃいます。だから。ぜったいに、見つからないように、気をつけてください。」


「わかった。教えてくれて、ありがとなあ。セツカも気をつけるんだぞ。」


 だから、次の日、またその鳥のなき声がきこえてきた時は、イワノはあせらず、落ち着いて自分のすみかににげ帰りました。鳥は、昨日と同じように山の上をしばらく飛びまわったあと、またとなりの山に消えていきました。それは何日もつづきましたが、とうとう鳥はあきらめて、どこかほかの山に行ってしまいました。さいわいにも、イワノもセツカも、鳥には食べられないですみました。




 最後に、この山には何日かに一度、強い吹雪がふきあれるようになりました。吹雪はいつもしばらくするとやみましたが、そんな時は、イワノは一日じゅう自分のすみかから出ないで、吹雪がやむのをじっと待ちました。


 そして、次の日になったら必ずセツカのほら穴に様子を見にいったのですが、セツカはいつもにこにことして、イワノをよろこんで出むかえたのでした。


 でも、一度だけ、吹雪になりそうな日に外にいたことがありました。また、あのつらい気持ちがこもった風がふきはじめたので、すみかにもどろうとしたとき、たまたま、雪の中を歩いてくる人間たちを見てしまったのです。


 いつもならほうっておくところですが、これからすごい吹雪になるから、このまま山をのぼっているとあぶないと考えたイワノは、大きな声をはりあげながら、人間たちに向かって歩いていきました。


 人間たちはイワノのすがたを見るとふるえ上がって、雪を必死にかきわけるようにして、大あわてでもとの道に引き返していきました。


 山をおりていく人間たちを見とどけて、イワノはほっとむねをなでおろしました。寒さにこごえるのは、どんな動物でもいやなものです。


 ところが、そのあと、風はぴたりとやんでしまいました。イワノがすごい声でさけんだので、セツカまでびっくりして、泣くのをやめてしまったようでした。


 その夜、おどろかせてしまったおわびに、イワノがセツカのほら穴をおとずれて、ひさびさに人間に会ったことをつたえると、セツカは、そういうことだったんですね、となっとくしたようにうなずきました。イワノがにげていく人間のまねをすると、セツカはまた、こころの底から楽しそうに笑ってくれました。






 そして。


 風がとても強いある日のことでした。とどかず山はいつも天気がいいのですが、たまに強い風が何日も止まらないことがあります。このときも、何日も前から、ずっと強い風がふきつづけていました。空も雲がかっていてうすぐらく、なんだかいやなかんじだな、とイワノは不安に思いました。


 きのう、イワノがいつものように顔を見に行ったとき、セツカは、少しつかれたような顔をしていました。どうしたのかとたずねても、なんでもないです、と小さな声で言うだけです。セツカはイワノに気をつかっているのか、あんまり弱音をはかないで、いつもむりしているところがあります。だから、イワノはよけいに心配でした。


 そして今日も、あのつらい吹雪がふきはじめて、イワノはますます落ち着かなくなってきました。つらいことがあるなら、少しでも泣いてすっきりすればいいなと思って、今まではそっとしておいたのですが、それがずっとつづくようであれば、一度、セツカの話をあらいざらい聞いてあげたほうがいいのかもしれません。この吹雪がおさまったら、朝まで待たずにすぐセツカのほら穴に行こうとイワノは考えました。


 ところが、いつもなら少し待てばおさまる吹雪が、今日にかぎって、いつまでたってもおさまりません。とうとうイワノはがまんができず、たたきつける風と雪の中を、セツカのほら穴に向かいました。


 やっぱり、ほら穴に、セツカのすがたはありませんでした。イワノは飛び出しました。そして、どたんどたんと山じゅうを走り回って、セツカを必死にさがしました。


 こんもりと雪がつもって、今にもくずれおちそうなきらきら大杉ののき下に、セツカはいませんでした。


 のぼれず淵の下ものぞきましたが、黒い木の枝のようなものが雪だまりにささっているばかりで、セツカはいませんでした。


 息を切らせてだんだら坂のてっぺんまでのぼりましたが、ただただ風だけがつよく、そこにもセツカはいませんでした。


 まるでいかりがごうごうともえさかるかのように、風はますますはげしくなり、まるで悲しみのそこにしずんでいくように、雪はどんどん冷たくなっていきます。今までと何かがちがうことは明らかでした。


 イワノはせなかをぐいぐいおされるように、雪をかきわけかきわけ、むちゅうになって、セツカのすがたをさがしました。


 そして、イワノはついに、いっしょに夕日を見たとどかず山のてっぺんで、ぼうっとたたずむセツカを見つけました。あいかわらずまわりは強い吹雪につつまれ、あのきれいな景色はかくれてしまっていましたが、セツカの表情は、いつか見たおにのような顔ではなく、まいごになって寒さにふるえる子どものような、ひどくおびえた顔でした。


「セツカ。」


「イワノ、さん。」


 イワノが声をかけると、セツカの目にたちまち大つぶのなみだがあふれました。なみだはまたたくまに風にさらわれると、ちりぢりの氷のつぶになって山にふりそそぎました。


「ごめんなさい。わたし、こわされちゃった。せっかくもらった、帯とめを、こわして、しまいました。」


 セツカの小さなつぶやきにごうごうと風の音がかさなり、何を言ったのか、はっきりききとれませんでした。イワノが聞き返そうとしたとたん、セツカはその場にたおれてしまいました。


「セツカ。しっかりしろお。」


 イワノはたおれたセツカをだきかかえると、すぐに山を下りはじめました。


 イワノのけむくじゃらのうでの中で、セツカはうなされるように、ごめんなさい、ごめんなさいとくりかえしていました。イワノはセツカをぎゅっとだきしめ、いちもくさんに自分のすみかをめざしました。


 山の吹雪は、ますますあれてゆく一方でした。






 なんとか自分のすみかにもどってくると、イワノはセツカを奥の草をしきつめたねどこにねかせました。セツカの住んでいるほら穴に行こうかとも思ったのですが、あの場所はせまくて、イワノはあまり自由にうごけないのでやめました。


 セツカはとちゅうで気をうしなって、草のねどこの上で、くるしそうな息をしています。いったい何があったのか気になりましたが、今はそれより、セツカを少しでも楽にするのが先です。


 イワノは外からひとかかえの雪のかたまりを持ってくると、セツカの体にかぶせました。昔、おばあさんの調子が悪いとき、こうするとよろこんでくれたのでした。セツカにもこれでよかったのかはわかりませんが、ほかにどうすればいいのか、イワノは知りませんでした。


 雪をかぶせるとき、セツカにあげた帯とめがイワノの目に入りました。帯とめは、何かかたいものに強くぶつかったかのように、ぱっきりとまっぷたつにわれて、半分しか残っていませんでした。そういえば、たしか、山のてっぺんで、こわしてしまった、とセツカは言っていたなと、イワノは思い出しました。


 おばあさんのかたみの帯とめのことはたしかにざんねんでしたが、セツカの体の方がよっぽど大事です。セツカはあのとき、自分のことより、帯とめのことを気にしていましたが、イワノはすでに、そんなことはまったく気にしていませんでした。


 まっ白な雪をふとんのようにセツカの体にかぶせると、こころなしか、少し楽になったようでした。いたみにあえぐようだった息が、もとの調子を取りもどして、セツカの顔もやわらいだので、イワノはやっと、ひと息つくことができました。


 外の様子をうかがうと、いまだにとどかず山は、いっすん先も見えないようなはげしい吹雪につつまれています。ひょっとすると、これはセツカがおこした吹雪ではないのかもしれないとイワノは思いました。


「イワノ、さん。」


 ふり返ると、目を覚ましたセツカが、ゆめを見ているような顔でイワノを見つめていました。目じりはまだ、少し赤いままです。


「気がついたか。よかったあ。」


「ここは、イワノさんの、おうち、ですか。」


 そういえば、セツカをここにつれてきたことはありませんでした。いつも、イワノがセツカのいるほら穴に遊びに行くばかりでした。


「そうだ。なんにもなくて悪いなあ。セツカからもらったものと、たくわえの木の実くらいしかなくてな。」


「いいえ。うれしい、です。」


 セツカはまだ少し苦しそうでしたが、くすりと、いつものように笑いました。どうやら、少しは元気になったようでした。ほっとして、イワノはかるい気持ちでたずねました。


「いったい何があったんだあ。びっくりしたぞ。」


 しかし、セツカからの返事は返ってきませんでした。ふしぎに思ったイワノがじっと見つめると、セツカは目をふせてしまいました。しばらくだまりこくっていたあと、セツカは目を下に向けたまま、小さな声でぽつりとつぶやきました。


「とつぜん、気分が、悪くなって、ころんで、しまいました。そのとき、おなかを、岩に、ぶつけて、帯とめが、われて、しまったんです。」


 イワノは、なんだかへんだな、と思いました。そうならそうと、さいしょから言えばいいのです。なぜ言葉につまったのか、わかりません。


 何か、言いたくないことがあるのだろう、とイワノは思いました。ひとりで泣いていたことをイワノにかくしていたセツカなら、そういうこともあるのかもしれません。それはなんだかさみしいことでしたが、でも、イワノはやさしかったので、むりに聞き出すことができませんでした。


「なあ、セツカ。言いたくないことがあるなら、今はむりに言わなくてもいい。でもな、いつか、おらにも話してくれたらうれしいなあ。待ってるからよ。」


 だから、そう言うのがせいいっぱいでした。


 セツカははっと目を見ひらくと、もうしわけなさそうに、顔をそらしてしまいました。






 吹雪はずっとやむことがなく、そのあいだ、イワノとセツカは、イワノのすみかの穴の中にいました。セツカの調子はもどらず、ねたり起きたりをくりかえしながら、ぽつぽつと、イワノといろんな話をしました。


 セツカの生まれたななつが崎の話。


 セツカにもらったものの話。


 となりのごつごつ山の話。


 おそろしい鳥の話。


 たまに見かけるきつねの話。


 そして、 イワノをそだてたおばあさんの話。


「この雪は。おばあさんに、教えて、もらったんですか。」


 セツカが、自分をつつむ雪をながめながらたずねました。


「そうだあ。昔、そうしてあげたら、楽そうだったからよ。セツカもそうかはわからんかったが、おらはそれしか知らなくてな。」


「ありがとう、ございます。こうしていると、雪女は、雪から、力を、もらえるんです。」


「へえ。そうなのかあ。雪女って、ふしぎなんだな。」


「ふふ。イワノさんも、同じように、山から力を、もらっているんですよ。」


「ええっ。」


 イワノはおどろきました。そんなことは知らなかったのです。


「山は、そこに住んでいいと、決めたものに、自分の力を、分けあたえます。イワノさんも、山から力を、もらっている、はずです。そうでなければ、もっともっと、たくさん。木の実を食べなきゃ、おなかが、ぐうぐう、ないていると思います。」


 イワノはいつも、一日に木の実をいくつか食べれば、それでじゅうぶんにくらしていけました。ほとんど一年中雪でおおわれているとどかず山には、それくらいしか食べ物がなかったから、あまり食べないようにしていたのです。でも、言われてみれば、たしかに、くまよりずっと大きな体が、たったそれだけの食べ物でうごいているというのは、なんともふしぎな話です。


「それなら、山にもおれいを言わんといかんなあ。でも、どこに言えばいいんだろうなあ。」


 イワノが首をかしげると、セツカはまじめな顔でたずねました。


「イワノさん。この山には、少し、とくべつな場所が、ありませんか。ななつが崎には、小さなやしろが、ありました。とどかず山にも、そんな場所が、あるはずです。」


 とくべつな場所と言われても、イワノにはすぐに思いうかびませんでした。とどかず山には、雪と、岩と、森と、いくつかのほら穴やどうくつがあるばかりです。しかし、そこまで考えて、イワノははっと気づきました。


「山のてっぺんの近くに、おばあさんの残した氷をおいてある、小さなどうくつがあるんだあ。ひょっとしたら、そこかもな。」


「その場所には、山のこころが、あります。それまで、その山に、住んでいたものたちの、たましいがねむっていて、山じゅうを、見守ってくれて、いるんです。


 それが、山の、こころです。」


 それをきいて、イワノはなっとくしました。おばあさんが、自分の氷をそのどうくつにおいてくれとおねがいしたのは、死んだあとも、イワノを見守りたかったからだったのでしょう。


「そうかあ。やっぱり、気のせいじゃなかったんだな。ずっと、おらを見ててくれたんだな。」


「だから、おれいはもう、つたわっていると、思います。山は、みんな、見ていますから。」


 おばあさんがいなくなってからセツカがくるまでの、長い長いひとりぼっちの時間を、イワノは思い返しました。そのあいだ、イワノはひとりで山を歩き回り、少しばかりの木の実を食べたり、たまにすみかに近づく人間をおい返したりしながら、えんえんと同じ毎日をくりかえしていました。


 ときには、さみしさに泣きたくなる夜もありました。


 山のてっぺんから、日がくれるまで、ぼんやりと遠くをながめたこともありました。


 このまま、いつか死ぬときが来るまで、だれにも会わずにひっそり生きていかなければいけないのか、と考えて、たまらなくなって山じゅうを走り回ったこともありました。


 山にのぼってくる人間と、なかよくなろうとしたこともありました。けれど、人間は、大きな体にこわい顔のイワノが近よるだけで、あばれたり、気をうしなったり、わんわん泣き出したりして、ちゃんとしゃべることができたことなど、ただの一度もありませんでした。何度やってもそんな調子だったので、イワノはもう、すっかりあきらめました。


 それからイワノは、何も考えずにくらすことにしました。木の実をとり、たまに人間をおどかし、遠目できつねなんかをながめながら、ぼんやり生きていくことにしたのです。何も考えなければ、何もつらくないから、楽でした。やることを決めて、それだけをやっていれば、悲しみやさびしさをわすれられるような気がしていました。




 でも。


 ほんとうは、ひとりぼっちは、いやでした。




 今は、おばあさんがまだ見ていることがわかりましたし、何より、生きていっしょにしゃべってくれるセツカがいます。人間なんかいなくても、もうすっかり平気です。


「本当にいいことを聞いた。セツカ、ありがとな。そういえば、セツカはそのどうくつに行ったことがないだろ。ちゃんとおれいを言うついでに、今度、連れていってやるでよ。」


「ありがとう、ございます。でも、わたしは、山にみとめられたかどうか、わからないから、へたに近よらないほうが、いいかも、しれません。」


「そんなことないでよ。セツカだって、いいって言ってくれるに決まってるでよ。ななつが崎でも、そうだったんだろ。もしだめでも、おらがいっしょうけんめいせっとくするし、ちょっと遠いけど、ななつが崎の山のこころにも、力をかしてくれとおねがいしてみればええ。」


 イワノが何気なく言った言葉に、セツカはぎょっとして、そのあと、ひどくつらそうな顔をしました。イワノがふしぎがっていると、セツカはしぼり出すようなか細い声で、ぽつりとつぶやきました。


「ななつが崎の、山のやしろは、人間にこわされたから、もう、ありません。ななつが崎は、死にました。わたしのなかまも、みんな、死にました。だから、わたしは、ここまで、にげてきたんです。」






 セツカがたおれてから二日目の、明け方のことでした。セツカの具合が、とつぜんひどくなりました。どうやら、それまでもずっと苦しかったのを、とうとうがまんできなくなったようでした。あわててイワノがたくさんの雪をはこんできて、セツカをつつんであげてもだめでした。


 今まで体をつつんでいた雪からセツカを引き上げるとき、イワノはセツカのうでをみて、ぎょっとしてしまいました。セツカのうでには、まるで氷がわれる前のような、するどいひびが何本も走っていたのです。よく見ると、着物からのぞくむな元にも、くるぶしにも、ぴりぴりと細かい線が入っています。はらやむねのあたりを中心に、体がだんだん、ひびわれてきているのです。


 おばあさんが年を取って死んだときは、ひびはなく、丸くとけてゆくように体がなくなっていきました。セツカの体の様子はそのときとはずいぶんちがうけれど、ひどくあぶない具合であることは、ひと目でわかりました。


「セツカ。聞こえるか。しっかりしろお。」


 イワノが必死によびかけると、セツカはうっすらと目をあけました。


「イワノ、さん。ごめんなさい。わたしは、やっぱり、とどかず山から、だめだと、言われている、みたいです。」


「そんなことあるもんか。なんでそんなことを言うんだ。」


「イワノさん、あやまら、なければ、ならないことが、あるんです。」


「帯とめのことは、もういいんだ。おらは、そんなことより、セツカが死んだら、とてもこまる。」


「わたしは、この山を、」


「もうしゃべるな。待ってろ、おらがなんとかしてやるから。」


 セツカはまだ、ぜいぜいと息をしながら何かを言いたそうにしていましたが、その様子があんまりにもつらそうなので、イワノはやめさせました。


 セツカが山から力をもらっているのかどうかは、イワノにはわかりません。しかし、イワノよりずっと物知りなセツカが、ちがうと言っているのなら、もらっていないのでしょう。だから、いつまでたってもけがが治らないのにちがいありません。


 イワノは、山におねがいして、セツカをみとめてもらわなくてはいけないと思いました。そのためにどこに行けばいいのかは、セツカが教えてくれました。ならば、まよう必要はありません。それに、もし、どうしてもだめだったとしても、おばあさんの氷のかけらを持ってくれば、きっと力になってくれるはずです。


 イワノはセツカをそうっとねかせて、あたらしい雪をこれでもかとかぶせると、いきおいよく表にとび出しました。吹雪はいつのまにかやんでいて、青い空には雲ひとつありません。


 しかし、表には、しんじられないような光景が広がっていました。






 そこには、人間がいました。


 もちろん、とどかず山には、人間がのぼってくることがたまにありますが、山のてっぺんや、自分のすみかに近よらないかぎり、イワノはいつもほうっています。ほとんどの人間は、山のなだらかなところをまっすぐ横切って、となりのごつごつ山のほうへ向かっていくばかりでした。


 イワノがおどろいたのは、その数が、あまりにも多かったからです。


 見たことがないほどたくさんの人間がひとかたまりとなって、雪原のまん中にあつまっていました。ひとり、ふたり、とイワノはかぞえようとしましたが、すぐにやめてしまいました。ゆびが何本あっても、とても足りそうにない人数だったからです。 たぶん、百人ではすまないでしょう。


 こんなことは、イワノがとどかず山に住み始めてから、はじめてのことでした。


 目立たないように岩かげにかくれて、まいったなあ、とイワノはつぶやきました。さすがにあれだけ人数がいると、おどかして追いはらうのはむずかしそうです。ぎゃくに、見つかってしまうと、どうくつに行くどころではなくなるかもしれません。


 どうしてこんなときに、こんなに人間がやってくるのでしょう。まるでセツカを助けるのをじゃまされているようで、イワノはもどかしい気持ちになりました。


 そうしているうちに、たくさんの人間たちは、いくつかのかたまりに分かれて、山じゅうにちっていきました。イワノがかくれているほうにも向かってきたので、イワノはあわてて地面のくぼみの中に体をひそめました。こうすれば、イワノの白い毛皮は雪にまぎれてほとんど見えなくなるのです。


 すみかに残してきたセツカが少し心配でしたが、イワノのすみかやセツカのほら穴は、入り口が岩と雪にすっかりかくれていて、わかりにくい場所にあります。だから、そうかんたんには見つからないはずです。


 人間たちは、イワノのかくれているくぼみのすぐ横までせまったあと、イワノには気づかず、そのまま通りすぎていきました。人間たちのせなかが遠ざかったあと、イワノはそっと顔を上げましたが、またほかの人間たちがやってきたのを見て、さっとふせました。この調子では、ここからうごくこともままなりません。


 しかし、むりにでも急がないと、セツカのことが心配でなりません。今もつらい思いをしているであろうセツカのことを考えると、本当なら人間なんかぜんぜん気にせず、山のどまん中をつっきって、かけてゆきたいくらいなのです。


 イワノは注意深くまわりの様子をたしかめつつ、はったまま、山のてっぺんに向かって進みはじめました。いつもならずしんずしんといくらか歩けばすぐに着く場所なのに、じりじりと、少しずつしかうごけません。それでもイワノはあきらめず、人間たちを大きくよけながら、じわりじわりととどかず山をのぼってゆきました。






 何日もつづいた吹雪でたくさんの雪がつもっていたおかげで、体を低くしてもそもそとうごくイワノのすがたは、人間には見えないようでした。また、ひらけた場所をさけて、できるだけ木や岩のかげを伝ったので、ますます見つかりにくかったのでしょう。


 ここはイワノがずっとくらしてきた山です。顔を上げてまわりを見回すことができなくても、どこに何があるのかなんてことは、ぜんぶおぼえています。


 人間たちはあいかわらず山じゅうをうろうろしていましたが、はちあわせることもなく、イワノは少しずつ、目的のどうくつに近づいていきました。


 しかし、あともう少しというところで、イワノはこまってしまいました。五人ばかりの人間たちが、どうくつのすぐ近くで立ち止まって話をしていたのです。しばらく様子をうかがっていても、どこかに行く気配はありません。


 五人だけなら、おどかせばにげて行きそうではありましたが、あとでたくさん仲間を連れてもどってきたり、あやしまれてすぐ近くのどうくつを見つけられたりされては大変です。人間にこわされてしまったというななつが崎のやしろのことを思い出して、イワノはみぶるいしました。まちがっても、あの場所に人間を入れたくはありません。


 ふと、耳に人間の声がきこえました。ふり向くと、さっきとは別の人間たちが、こちらにまっすぐ向かってくるところでした。まだイワノには気づいていないようですが、このままではまちがいなく見つかってしまいます。


 仕方なく、今の場所からなるべくはなれようとしましたが、なんと、そちらからもまた人間たちがイワノの方にやってくるではありませんか。すっかり、まわりを人間たちにかこまれてしまっています。


 もう、にげる場所も、かくれる場所もありません。


 こちらへ向かってくる人間のひとりが、イワノのほうを見て、おや、と首をかしげました。どうやら何かがそこにいることに気づいたようです。このままでは、すぐに見つかって、大さわぎになってしまうでしょう。


 こうなったら、どうどうとすがたをあらわして、人間を追いはらうしかない。あとのことは、あとで考える。もし、これがきっかけでとどかず山が死んでしまっても、しかたがない。そうイワノが決意したときでした。


 とどかず山に、ひょうひょうと吹雪がふきはじめました。風はぐんぐん強くなり、雪の粒は数をふやし、たちまち目をあけるのもつらい吹雪となって、イワノや人間たちをつつんでしまったのです。


 さっきまでは、雲ひとつない青空で、風もありませんでした。それがとつぜん、少し先もわからないような雪のあらしに化けたのです。人間たちは、いきなり変わった山の天気におどろいて、うろたえていました。


 でも、イワノにはわかりました。この悲しみは、このいかりは、この吹雪から感じる、強い強い気持ちは。


 まちがいなく、セツカの吹雪でした。


 しかし、この吹雪からは、前のいてつくような冷たさをほとんど感じません。それどころか、ふしぎなことに、あたたかみのようなものさえイワノは感じました。


 まさかセツカが外に出てきたのかと、イワノは心配に思って辺りを見回しました。吹雪でほとんど見えませんでしたが、近くにセツカの気配はありません。いったいどうしたのかはわかりませんが、セツカはイワノのすみかにいながら、ここに吹雪を起こしたようでした。


 そのとき、ごうごうと強くなっていく吹雪の音にまじって、聞きおぼえのある鳴き声が耳にとどきました。遠くからひびきはじめたそれは、ものすごい早さでとどかず山に飛んでくると、白くかすんだ大空に、黒くて大きなかげをうつしました。いつか見た、あのおそろしい鳥がやってきたのです。


 人間たちはさわぎながら、いちもくさんにどこかへにげてしまいました。そのあとを追って、鳥もさってしまいました。


 大きな体をかくすようにふきつける吹雪の中、イワノはぶるりと体をふるわせると、山のてっぺんのどうくつに向けて、どしんどしんと走り出しました。






 どうくつの中は、外の吹雪がうそのように、しんとしずまりかえっていました。


 どうくつの入り口はせまく、イワノの大きな体がなんとか入るくらいの大きさしかありません。しかし、中はびっくりするほど大きく広がっていて、外は吹雪だというのに、どこからともなくさしこんだ光が雪でてり返して、天井までぼんやりと明るくなっています。


 おばあさんの残した氷のかけらは、イワノがおいたときのまま、おくの平らな岩の上できらきらとかがやいていました。イワノはなんだかなつかしくなって、かけらをそっとなでました。


 前に来たときは気づきませんでしたが、やわらかい手でやさしくつつまれているような、どこか満ち足りたふんいきが、どうくついっぱいにただよっていました。これが山のこころなのかな、とイワノは思いました。そのとたん、イワノのこころの中に、何かがよろこんでいるような気持ちが、ぽん、と伝わってきました。


 これが山のこころなのでしょう。ああ、セツカの言うとおりだった、とイワノはしみじみとうなずきました。山にこころはあったのです。イワノは、ひとりではなかったのです。


「おうい。とどかず山よ。おらの言葉が聞こえるかあ。」


 聞こえているよ、という声がどこか遠くで聞こえたような気がしました。イワノはつづけました。


「まず、おれいを言おう。おらをこの山に住まわせてくれて、ありがとう。おらを見守ってくれて、ありがとうなあ。それで、今日は、おねがいがあってきたんだ。」


 すがたもなく、音もなく、ただこころだけが感じられる相手に、イワノはいっしょうけんめいさけびました。


「おらの大切な友だちのセツカが、死にかけてるんだ。なんとか、助けてやってくれないかあ。とってもやさしいやつなんだ。さっきも、吹雪をおこして、おらを助けてくれた。自分のほうがよっぽどあぶないのに、おらのことを心配するようなやつなんだ。しゃべるのはへたくそだけど、いっしょうけんめいなやつなんだ。」


 山のこころは、だまっています。イワノはさらに声をはり上げました。


「あいつは、ふるさとをなくした、かわいそうなやつだ。にげて、にげて、ようやくここにたどり着いたんだ。できれば、おらといっしょに、この山に住まわせてやってくれないか。たのむ。おねがいだあ。」


 山のこころは、まだ、だまっています。まるで、言いたいことがあるけど、何も言えないときのように。どうして何の気持ちも返してくれないのか、わかりませんでしたが、イワノは最後に、深ぶかと頭を下げました。


「おねがいします。とどかず山よ。セツカを、死なせないでくれえ。」


 そのとき、頭の中にひびいた声を、イワノはずっと忘れられないでしょう。山のこころは、イワノにだけ聞こえる声で、こう言ったのでした。




 もう、いいんです。


 ありがとう、ございました。


 イワノ、さん。




 それは、ああ、たしかに、セツカの声なのでした。


「そんな。」


 イワノはよろめいて、その場にへたりこんでしまいました。なぜ、ここにいないはずの、セツカの声が聞こえたのか。なぜ、セツカはイワノのすみかでねていたはずなのに、イワノを助けるために吹雪を起こせたのか。わかってしまったのです。


「そんな。そんな。」


 イワノはぼうぜんとしながら、うわごとのように同じ言葉をくり返しました。山のこころは、もう、何も言ってはくれませんでした。ただ、深いかんしゃの気持ちだけが、イワノのまわりをつつんでいました。






 帰り道、外が吹雪だったのか、それともすっかり晴れていたのか、人間はどうなったのか、イワノはまるでおぼえていません。


 イワノのすみかにつまれた雪の中には、こなごなになった氷のくずと、われた帯とめと、すき通った白い着物と、おばあさんがおいていったものと同じ、丸い氷のかけらだけが残っていました。






 それから、イワノはしばらく、何もしないですみかの中にすわっていました。くる日もくる日も、何も口にせず、みうごきもせずに、じっとしていました。


 どれほどたった頃でしょうか。イワノはむっくり立ち上がると、セツカの残した氷のかけらを持って、また山のこころのどうくつへ向かいました。山はやっぱりいい天気で、もうだれもいない雪原を、イワノはおしだまったまま歩いていきました。


 どうくつに入ると、イワノはセツカの氷のかけらを、おばあさんのかけらの横にならべました。そして、やさしくかけらをひとなですると、くるりとせを向けて、振り向かずに、どうくつを出ていきました。




 外に出ると、まるでイワノを守るように、ひょうひょうと、花びらのような雪のかけらの混じった、やわらかい風がふきつけてきました。


 イワノは風の中、いとおしそうな笑みをうかべると、ずしんずしんと、とどかず山の深い雪の中に消えてゆきました。




 そのあと、イワノのすがたを見た人間は、だれもいません。







[吹雪] とどかず山のイワノとセツカ(The Mountain Disappeared into the Blizzard)

(了)

お読みいただきありがとうございました。

冬の童話祭2012の開催期間が終了いたしましたので、以下に「答え合わせ」のおまけを公開しております。


白粉岳の謎

http://tww.gozaru.jp/text/oshiroidake.html

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ