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5 おごり

「と、いうことがあったんだ」

 生駒はそういって、ピスタチオをパチンと割った。


 天王寺公園の北側、ラブホテルと小規模なマンションが混在した地域に、生駒の友人、柏原の店がある。

 築後三十年は経っていそうな木造の四軒あばら長屋。

 安価なリブ付きコンクリートブロックの塀に囲まれて、時代に取り残されたようなエアポケット。

 夜になって、マンションの駐車場脇のわずかな植栽スペースに明かりが灯れば、長屋は古色蒼然として、良くいえばアンチークな雰囲気を醸し出していた。


 店は長屋の一番手前の家だ。

 木板の外壁や軒先の瓦などに、修理の跡が見える。店の正面の外壁は窓をひとつ潰して、壁一面に黒いモルタルを吹き付け、背の低い飾り気のない藍色の扉を少し奥まって取り付けてある。

 立方体のガラス製ブラケット照明が黄色い光を放ち、鏡面仕上げのステンレスプレートに焼き付けられた「バー・オルカ」と「柏原」の黒い文字を照らしている。


「そりゃ、始末書ではすまないな」

 真っ黒なシャツを着た落ちつき払った柏原の姿が、白いインテリアの中にしっくりと収まっていた。

 酒や吐息や涙。いろいろなものを吸い込んで、いかにもバーのカウンターらしい色になった無垢の木の一枚板に、クロームメッキに黒い革張りのスツールが十脚。サービスをする柏原を取り囲むように置かれている。

 手の込んだ料理は出ない。おかきや豆菓子をつまみながら、何種類かのウイスキーや缶ビールをちょろちょろと飲む。

 BGMは、サザンやサンタナや吉田拓郎がメインで、合間に吉田日出子の上海バンスキングがかかったり、果ては河内音頭やモスラのテーマがかかったりする。生駒らの年代にとって懐かしい曲を柏原が暇に任せて編集し、かすかに聞こえる程度までボリュームを絞って流している。


 客は柏原の友人や、弁護士として活躍していた時に交流のあった人が中心で、常連客同士はいつしか互いに顔見知り以上の仲になっていた。

 そして柏原は生駒にだけは、客としてでなく友人として話した。それで、この店では生駒は特別な客として他の客から見られることになったし、この店を通じて多くの友人ができることにもなった。


「労基の調査が入った」

「ロウキってなに?」

 聞いたのは三条優。

「労働基準監督署」

 生駒は少しだけ説明してやった。

「ふうん、その人、怪我はだいじょうぶなん?」

 つやのある長い髪を手でかき上げて、カウンターに頬杖をついている。

 整った顔立ちのせいで、実際の年齢より少し大人びて見える。

「全治七ヶ月」

「うわ、それ、すごい怪我」

「でも、運よくとしか言いようがない。なにしろ八階から落ちたんだからな」

 この店の常連のひとりだ。

「どこの現場なん?」

 奈良の松並町というところ。ハルシカ建設の現場。

「誰にも言うなよ。マンションが売れなくなったら困る」

 優は頭も切れるし、雰囲気もさわやかだ。

 しかも、さりげなく相手の自尊心をくすぐる聞き上手。他の客とも打ち解けて話す。

 柏原はそんな優を重宝して、最初の一杯はおごりということにしていた。


「へえ。今、三都興産のマンションが工事中でしょ。あれのこと?」

「おっ! よく知ってるじゃないか。まさか、買おうって思ってるのか?」

「うーん。ちょっと遠すぎるわね。そんなに遠くに行ったら、ノブが寂しがるやん」

 優は生駒を、ノブと呼ぶ。

 部屋に泊まっていく仲だ。元はといえば、生駒がこの店に連れてきたのだった。


「じゃ、なぜ知っているんだ? そんなに有名な物件じゃないと思うけど」

「ハルシカ建設に、知ってる人がいてる」

「へえ、初耳。大阪支店に?」

「うん。お店に時々来る」

 優は歌手志望の娘だが、実態はよくわからない。

 今は、週に一回だけ、北新地のラウンジに勤めている。

 KENZOというその道では知られた店で、プロ歌手を輩出しているミュージックラウンジだ。マスターその人がプロの歌手だし、ミュージシャンもよく顔を見せて、いきなりセッションが始まったりする店だ。

 優はその店で歌手兼ホステスとして、修行かつアルバイトをしているというわけだ。


「常連さんグループやねん。大阪支店の幹部の人たちが」

「へえ、どんな面々?」

「んーと、それは内緒かな、一応。部長級以上やけど。でも、もうお見舞いに行ったよん」

「ええっ!」

「黒井さんやろ」

「ああ」

「ある店のママと一緒にね」

「はあ?」

「ヨウコママ。KENZOの前に勤めてたセピアっていうお店のママ。そのお店も、ハルシカ建設の人がよく来る店でさ。そっちは老若男女入り乱れて来るよ」

「へえ、それも初耳」

「ノブは私のこと、あまり聞かないからなあ。遠慮してるん?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「でね、ヨウコママから連絡があって、みんなでお見舞いに行くから付き合えって、強引に。でも、行ってみたら、ママと私と、もう辞めちゃったミヤコちゃんだけ」

 優の話のテンポと行動力には、いつも驚かされる。


「はあー、で、どんな様子だった?」

「気持ちの方は、いたって元気そうやったよ。でも、事故のことは腑に落ちないみたい。現場に張り巡らされた鉄の板、足場板っていうん? 解体中でもないのに落ちるなんて、ありえないって」

 優は自分でも信じられないというように首を横に振って、渋い顔を作った。

 形のいい唇が尖って、かわいらしかった。


「ふーん。そんなことを言ってたのか。ありえないと言っても、現に足場板ははずれた。黒井さんが乗った途端に。なぜはずれたのか、彼はどう言ってた?」

「ううん、なんにも」

 柏原は普段は黙って、客の会話を聞いているだけだ。客同士で会話が弾んでいるときは、口を挟むことはめったにない。

 しかし、生駒と優に対しては別だ。

 店の中であっても、他の客がいなければ完全にトモダチモードだ。


 柏原の興味の素に触れたのか、

「大阪は狭いな」といった。

 そして生駒に向き直り、

「気になるのか?」と、聞いてきた。

「なにが?」

「おまえ、その黒井さんがどう感じているのか、ユウにしつこく聞くけど」

「ん?」

 優が、面白がってグラスの氷を派手に掻き混ぜた。

「あ、ノブ、もしかして妬いてる」

「は? アホいえ」

「だから、本当にママと行ったんだって」


 生駒は、痺れるほどに優を愛していると感じることがあった。

 結婚しようか、うん、しよしよ、という軽口を飛ばしあうことはあっても、それは半分本気で、半分は冗談だった。

 五十を過ぎて独身のさえない中年太りの男が、しかも安定的な収入さえ得ることができない禿げた男が、二十代半ばの光り輝いている女性を幸せにできるはずがない、と思おうとしていた。

 妬いているとかいないとか、将来ふたりはどうなっているだろうとか、本気で人を好きになることとはとか、優との会話に出てくるたびに、時として心がふさがれる思いがしていた。


「妬いてはいないけど、ユウ、黒井さんとの付き合いは古いのか?」

「あ、やっぱり妬いてる」

「しつこいな!」

「古いってことはないけど、前の店にいたときだけやから、せいぜい二年くらいかな。でも、お店の外で会ったことはないよ。この前のお見舞いが始めて」

「ルックスもなかなか。話もちゃんとできそうな人だし、どう、ユウ、乗り換えてみる?」

「ノブもしつこい! 言っちゃ悪いけど、興味なし! ノブ一筋って、言ってるやん」

 たまりかねて、柏原が割って入った。

「おまえらなあ、そんな話は、自分らの愛の巣でしてくれる?」

 へへ、と優の唇の端がピュッと上がって、最高の笑顔だ。

 この笑顔に、力をもらっている。生駒はいつもそう思うのだった。


「ところでな、俺がさっき聞いたのは、黒井がどう考えているかを、なぜ生駒が聞きたがったのかということ」

 柏原が自分用のビールを継ぎ足した。

「単なる事故ではなく、事件性でもあるのか?」

 優の目が輝いた。

 面白い話になるのか、という期待を込めて顔を向けた。

「いや、事件というのではないけど」

 生駒は、翌週の定例会議で話題になったことを話した。

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