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4 転落

 生駒は、三都興産から指示された住戸の変更内容を確認し始めた。

 監理事務所に帰ってきたばかりで、薄くなりかけた頭の頂部を濡らしている汗は、クーラーの冷たい風にまだ乾かされてはいない。

 屋上で若槻と別れてから、藍原とワンフロアずつ見て回りながら降りてきたのだ。


 頭と手をタオルで拭ってから、羽古崎からファックスされてきた数枚のメモを読み始めた。

 変更指示は、いつもように客の希望がそのまま書いてあるだけだ。

 客の希望を具体的にどのようにして実現するのかを考え、それを図面として表現するのが生駒の仕事だ。


 青焼きのA1判の図面集を広げ、必要なページをコピーした。老夫婦が購入を検討している住戸だった。

 希望は、寝室とキッチンとトイレの間を、廊下に出ずに行き来ができるようにしてくれというものだ。

 トイレの入り口の向きを変更するだけではなく、便器を設置する向きも変える必要がある。汚水や給水の設備配管を取り回すことができるか、間仕切り壁を取り払うことによって、排泄や排水の音が他の部屋に漏れるのが気にならないか、といったことを考え始めた。


 外廊下を走ってくる足音が聞こえた。

 生駒は目を上げた。

 窓越しに見える空は、いつのまにか急速に暗くなっていた。そろそろ梅雨入りだった。

 監理事務所の引き違い戸をバシャリ!と開けた藍原が、

「転落事故だ! 屋上から人が落ちた!」

と、大声でそれだけ言うと、また廊下を駆けていった。


 生駒も事務所を飛び出した。

 若槻を先頭にしてゼネコンの職員達が走っていくのが見えた。その後ろから鈴木が携帯電話を耳にあてて足早に歩いていた。

 生駒は廊下の手すりをつかんで、目の前にそびえ立っている建設中の建物を見上げた。

 仮設のエレベーターがゆっくりと下降してくるのが見えた。雨粒が目に入った。

 部屋の中にとってかえし、すばやくヘルメットをかぶると階段を駆け下りた。

 若槻が、担架を持ってこい! と大声で指示しているのが聞こえてきた。


 仮設エレベーターの乗り口に人だかりができていた。

 若槻、根木、田所、中桜工業の坂本、そして藍原たちが、降りてくるエレベーターが着床するのを待ち構えていた。

 金網状の扉がいやな音をたてて開き、織田と石上が男を抱きかかえて降りてきた。

 若槻の声が響く。

「すぐに担架が来る。そのまま、そのまま!」

 そう言って二人に抱えさせたまま、男の顔を覗き込んだ。

 男は血の気の引いた顔を若槻に向けた。額に血が流れていた。

 黒井だった。

「すみません」

 声はしっかりとしている。


 織田がまくしたてた。

「黒井さんが足場板を踏んだとたんにはずれたんです! A棟の屋上から八階に降りる東側の仮設階段の手前です! 黒井さんが前を歩いておられました! 全く突然のことで! 後ろに私がいましたが、あっと思ったときには、もう落ちて……」

「後で聞く! 手当が先だ!」

 若槻は大声で織田を制すると、黒井の体を調べ始めた。


 左の太ももあたりから、大量に血が流れ出していた。

 黒井を抱えたままの織田の作業服の袖にも、石上の作業ズボンにもたっぷりと血が染みこみ、赤黒く光っていた。

 鈴木が黒井のあごの下に手を入れ、ヘルメットの紐の止め具をはずして慎重に脱がせた。

 若槻が黒井の頭にそっと触れた。

「頭はどうだ?」

 黒井が大丈夫だというように頷くと、今度は両腕を撫でた。

「腕は大丈夫なようだな」


 担架が来た。

 織田と石上が黒井を担架に下ろそうとする。

 若槻は黒井の足が担架の両脇の棒にあたらないように介添えをしながら、ゆっくりゆっくり、と何度も念を押した。

 黒井のズボンは真っ赤に染まり、左の太股の辺りが大きく破れていた。

 血にまみれた足が見え、肉の裂け目に白いものがのぞいていた。


 鈴木が三角巾で手早く止血をする間、目を見開いて痛みをこらえている黒井の額に、若槻が手を置いていた。

「よし! ゆっくり運べ! 田所! 川上! 救急車が来たら病院まで付き添え!」

 そう言うと、織田と石上に向き直った。

 織田がまた口を開いた。

「びっくりしました! ちょうどたまたま、下の階にいた石上が……」

 若槻は織田を無視して、石上に声を掛けた。

「黒井が落ちた下を全部調べてくれ。下の階で二次災害が起こっていないか。一階から順に各階を見て回って、何かあってもなくても、すぐに俺に報告してくれ。携帯の番号は知っているな」

 そう言うなり、ちょっとそのまま待っていてくれ、と言い残して担架を追いかけた。

 若槻は黒井に話しかけた後、田所に何ごとかを指示した。黒井の家族への連絡を指示したようだ。

 そしてまた走って戻ってきた。


「鈴木! 労基に連絡を入れてくれ! 警察にも連絡しておいた方がいい」

 若槻はエレベーターに乗り込みながらも、指示を出し続けた。

「田所! おまえは大阪支店に一報! そうだな、木下部長がいい。直接、話してくれ。伝言じゃなく。詳しい話は、後で俺からすると言え」

「はい!」

「その後は事務所で待機。電話のそばを離れるな」

「はい」

 言うが早いか、田所は事務所に駆けていく。

「鈴木! 今から現場を止めて、いっせいに安全点検をする。各職長連中にそう伝えてくれ。俺が戻ったらすぐに実施する。わかったな!」


 若槻が、根木と織田と坂本に、乗れと命じた。

「根木は事故現場の保存。坂本さんも協力してくれ。さ、織田さん、案内してくれ。エレベーターの中で話を聞こう。あ、先生方は、申し訳ないですが警察が来たら、上まで案内役を頼めますか。なにかあったら、携帯に連絡をください」

 生駒と藍原は、エレベーターの扉が閉まるのを待たずに、現場のゲートに向かった。

 石上の姿はすでになかった。


「生駒先生! 現場のカメラを持って来るように、香坂に伝えてくれませんか!」

 若槻の大声が追いかけてきた。

 てきぱきとした指示に、生駒たちも追い立てられるように走った。

 救急車のサイレンが聞こえてきた。

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