3 アトムとコメツブ
会議が終了し、事務所に戻ると藍原が声をかけてきた。
「さっきの話、申し訳ないけど、よろしくお願いします。さぁてと、今から屋上階に行くんですけど、一緒に行かれますか? まだ行かれてないでしょう?」
「いいですね。今日は天気もいいし」
「きっと、いい眺めですよ。この辺りのご出身だそうですね」
生駒の業務範囲では、まだコンクリートを打設したばかりの屋上階に行く必要はない。
いい天気だと言ったことが、物見遊山の気分だと捉えられたかもしれないとは思ったが、藍原は気にするふうでもなく、準備を始めた。
生駒もデジタルカメラと携帯電話をポケットに突っ込み、ヘルメットをかぶって図面集の縮刷版を手にした。
工事中の建物の脇に、資材や作業員を運ぶ仮設のエレベーターが取り付けられている。
生駒と藍原が乗り込むと、先に乗っていた男が会釈してきた。内装工事業者である織田工務店の織田孝とその下請け業者、中桜工業の坂本勝だ。
藍原がオペレーターに八階まで行くことを伝えた。
「今日はお二人ですか。石上さんは?」
織田と坂本と石上は三人がトリオで動いていることが多い。
ここ数日、姿の見えない石上は、生駒が始めて現場に来た日に案内をしてくれた中桜工業の職員で、少し親しみを感じている。
坂本と織田の雑用係といった役回りの男だ。
坂本があいまいな笑みを浮かべた。
「休みだったんです。今日から出て来てますけど」
「へえ、旅行とか?」
「あいつが旅行なんて。お母さんのお葬式だったそうで」
「そうだったんですか」
「なんでも、所長の話によれば、首吊り自殺されたとかで」
「余計なことを言うな!」
とたんに、織田が坂本を制した。
「この先生方には関係ないことだろうが!」と、声を荒げた。
坂本はぺこりと頭を下げて、黙り込んでしまった。
茶髪のオペレーターが、力任せに扉をガチャンと閉め、稼動スイッチを捻った。
金属同士がこすれる騒々しい音が、乗り込んだ者たちの鼓膜を容赦なく振動させ始めた。
エレベーターの籠は、周囲に建て込まれた凹凸の付いた鉄の柱に、歯車を噛み込ませながら、ゆっくりと上昇を始めた。
足元から伝わってくる荒々しい不規則な振動が、いやがうえにも、このちゃちな機械の安全性に不安を抱かせた。
湿った生暖かい風が、エレベーターの籠の中を自由に吹き抜けていった。
織田工務店は、ハルシカ建設から内装工事全般を請け負っているが、現場に来ているのは部長の肩書きを持つ織田孝ただひとりだけだった。実際に手を動かす作業をしているのは、孫請けとして現場に入っている中桜工業の社員である坂本や石上、そこがまた発注している一人親方や職人たちだ。
織田は、孫請けの中桜工業や曾孫請けの職人達の段取りをしながら、現場を回っている。
狭い籠の中に五人もの男が入ると、それだけで気詰まりになった。
織田は大男だった。
現場の人間らしく日に焼けてはいるが、弛んだ頬やあごの下の肉が不健康そうな印象を与えている。充血した無遠慮な目が、品定めするように生駒と藍原を見ていた。
エレベーターが、がくんと沈み込むようにして止まった。
八階に到着。
織田が仏頂面を隠そうともせずに、手の平を返す仕草で、生駒達に先に降りろという。
生駒たちが降りても、無視。
さっさと、まだ乾ききっていないコンクリート独特の臭いがするフロアに向かっていく。肩を怒らせて、痩せて猫背の坂本を従えて。
織田の「あんな男のことを」という叱る声と、「誰でも知ってることじゃないですか」という坂本の抗弁が聞こえてきた。
後ろ姿を見送りながら、生駒と藍原は顔を見合わせた。
「なんだかね」
藍原はそういったが、ああいう人もたまにはいますよね、と自ら納得させた。
エレベーターの脇から、下が透けて見える金網状の仮設階段を伝って、屋上に出た。
建物全体が緑色のシートに覆われているが、これより上には景色を遮るものはない。
屋上に上がった途端、青空の只中に立ったように強い風を感じ、視界が開けた。
まさしく奈良盆地の真っ只中。
北には遠く奈良市街。西には葛城、金剛の山々。南には飛鳥三山、畝傍山、香具山、耳成山。その先には吉野連山が霞んでいる。
足元に目をやれば、市街地や周辺の田畑を鳥瞰することができる。
近鉄電車がのろのろと駅に入っていくのが見えた。
生駒が小さかった頃は一面が田んぼで、市街地は小さなものだったが、今はとめどなく開発が進みつつあった。
特に国道二十四号線沿いには多くの店舗や大規模な工場が集積し、ひと目でそれとわかるミニ開発もいたるところに散らばっていた。
それでもまだ緑は多く、田植えがすんだばかりのあざやかな色が、大阪市内に住んでいる生駒の目に新鮮だった。
「やあ、先生方。ご苦労さまです」
振り返ると、若槻が立っていた。
「今日は気持ちがいいですね」と、藍原が応えた。
「ええ、ホッとします。生駒先生、どうです。なかなか、いい眺めでしょう」
生駒は、行楽的な行動を咎められたように身を硬くしながら、
「ええ。懐かしくて」と応えた。
若槻は近寄って来ると、屋上の端に張り巡らされている仮設の落下防止柵に、大胆にも体をもたれかけさせた。
そして身を乗り出して、真下を覗き込んだ。
「この辺りもずいぶん変わりましたな。犬見神社は、昔はもっと立派だった」
生駒は、あいまいに相槌を打った。
確かに、小さい頃の思い出の中にある鎮守の杜はもっと大きく豊かで、夜になると黒々とした木々は恐ろしくさえ感じられたものだ。
注連縄を張られたクスやイチョウの大木が、天に向かって太い腕を突き出すように、力強く節くれだった枝を伸ばしていたものだ。
今、見下ろすと、生駒たちがいるマンションの日陰になった狭い境内に、強く剪定された木々が、まばらに生えているだけだった。
「お宅はどの辺りでしたか?」
「ちょうど、あの辺りです」
生駒は、神社からすぐ北のあたりを指差した。
「ほう、そんなに近くですか。ということは、亀井の風呂屋の辺りかな?」
「は?」
懐かしい響きである。
亀井湯と青い文字で染め抜かれた白い暖簾や、古びて角の取れた御影石の階段や入り口の前のたたき、土埃の舞う道沿いに咲いていた赤いカンナやサザンカの生け垣などの情景が、まぶたの内側にすっと入り込んできた。
「まだあるんですか?」
若槻が、生駒の顔を覗き込むようにして、フフンと笑った。
「亀井湯はもうないよ」
「……」
「昔、俺の家は亀井の風呂屋の裏、水呑地蔵の路地の奥にあった。……な、アトム」
アトム……。
生駒は、頭が一瞬、混乱した。
だがすぐに、子供の頃の思い出が次々と押し寄せてきた。
「もしかして、あの……、コメツブ?」
生駒が小学生だった頃、近所の遊び友達に若槻米一という子供がいた。
生駒より三歳年上のいわゆるガキ大将。
呼び名はコメツブ。
コメツブを筆頭に、近所の少年たちは徒党を組んで遊び回っていた。
生駒は、寝癖のついた髪がいつも逆立っていたことから、アトムというあだ名で呼ばれていた。
その頃の町は市内とはいうものの、田畑に囲まれた数百軒の集落だった。
市の中心部からは数キロほど離れていて、狭い畑を細々と耕している農家や、小さな町工場が点々とあるだけの地域だった。
まだ、乱開発が押し寄せてくる直前の時代で、昔ながらの農村集落の形状を色濃く残している村だった。
家々の連なりの南端部に犬見神社があり、鳥居の前を通る曲がりくねった細い道が、背骨のように村を南北に貫いていた。
その道を北へ数百メートルほど行ったところに、亀井湯はあった。瓦葺きの大きな建物で、煙突は村のあちこちから見えていた。
暖簾をくぐって中に入ると、使い古されたスノコを左右両側に敷いた靴脱ぎ。正面中央には番台後ろのすりガラスの嵌った小窓があり、右に「女」、左には「男」と赤い塗料で書かれた木の引き戸があった。戸は重く、敷居に打ち込まれた錆びた鉄のレールを挟んだコマが、動かす度にキーキーと鳴った。
その風呂屋で、父親に連れられた生駒は若槻らと出会うたびに、深い方の浴槽で潜り比べをして、大人たちから叱られていたのだった。
「よう! 久しぶりやな!」
若槻が大声をあげた。
満面の笑みを浮かべていた。
生駒は、子供時分の若槻の顔は思い出せなかったものの、コメツブという呼びかけはすぐに口から出てきたし、頼りになる兄貴という印象も、きわどいことも平気でする年上への畏怖といった感情も、瞬時に思い出していた。
若槻が手を差し出してきた。
生駒は躊躇することなく、その手を握った。
若槻のどちらかというと細い指には、思いのほか力がこもっていた。
一瞬の間、生駒と若槻は見つめ合った。
耳たぶが熱くなった。
「生駒延治だというし、この町の出身だというから、もしかして、と思っていたんだ」
「いやぁ、故郷の仕事なんで、懐かしいと思っていたんですが、こんなに早く誰かに出会えるとは思っていなかったですよ。しかも、現場の中で知っている人に会えるなんて。それがなんとコメツブ」
若槻が手を離した。
生駒の手の平に温かさが残った。
「俺もここから引っ越してから、かれこれ三十年になる。この現場に配属されることにならなかったら、来ることもなかったかもしれない。でも懐かしさはあったな。いろいろ聞いてみると、当時の村の人は、案外まだたくさん残っているぞ」
と、また街を見下ろした。
「へえ! 例えば?」
「行武食堂。この現場に、弁当屋として出入りしている。行武芳次郎。乾物屋だった家だ。延治と同い年くらいじゃないか?」
若槻が生駒を呼び捨てにした。
生駒はわずかに戸惑ったが、直後に口から出たのは、覚えていますよ! だった。
「お宮さんから東にちょっと入ったところの行武ですね。同級生でした。へえ、ここの弁当屋ですか! 今日、食べましたよ」
「もう会ったか?」
「いえ。まだ」
「相変わらず賑やかな男だぞ。で、町はぶらついてみたか?」
「いや、それも」
「パッと見は、全く変わってしまっている。上から見たらなおさらだ。昔の町の骨格さえ、わからなくなってしまった。あんなところに、新しいバイパスができたりしているからな」
若槻が巨大な看板の列に目をやった。
「でも、歩いて回って、よーく見たら、あちこちそのまま残っているところもある。思い出の場所も一杯あるぞ」
「でしょうね」
生駒も町の景色を眺めた。
藍原が、あのバイパスは国道二十四号線の渋滞緩和のためにできたものだと言った。
言葉が途切れた。
「ところで若槻さんは、今どちらにお住まいですか?」
コメツブと呼ぶのは、もう照れくさかった。
「奈良の学園前。延治は?」
「大阪市内の福島区」
「モノ・ファクトリーという会社は? 社長か?」
「ええ、まあ。ひとりで気楽にやってます」
若槻が腕時計に眼をやった。
「そろそろ、会社のお偉いさんが来る。俺の様子を見に来るらしい。新任所長を慰労に来るんだと。ばかげた話だ」
手すりから離れ、ヘルメットのあご紐を締めなおした。
「ところで関西建友会の会報は購読していますか?」
仕事モードに戻ったようだ。
「いいえ」
「そうでしょうな。あんなもの、設計事務所の先生は誰も読んでいないでしょう。でも次の八月号は、ぜひ見てくれませんか。会報の名前は確か響きとかいったな。コラムに、私がこの現場のことを書いています」
「はい、ぜひ」
「あ、そうだ。生駒先生に頼もう」
「なんでしょう?」
「現場の北西角に石碑があります。今は工事のために引き抜いてあるんですが、これを復旧しなくてはならないんです。引き渡しまでにはそこだけ分筆して、地元に寄付するらしいんです。で、どう復旧するのかを地元に説明しておきたいんですが、そのままになってまして。そろそろ何か計画を示さないといけないんです。申し訳ないけど、何か考えてくれませんか。本来は、藍原先生にお願いすることなんですが」
フィーのないサービス仕事であることはまちがいなかった。しかし、たやすいことのように思えた。
「なんの石碑ですか」
「見ればわかりますよ」
若槻は声をあげて笑い、引き上げていった。