54 大失態
バーの窓から、夏の日差しが差してくる。
クマゼミが騒々しい鳴声を上げている。
今日も暑い日になりそうだ。
しかし、外の明るさに比べて、生駒と柏原と大矢が話しこんでいるバーの隅には、死神が置き忘れていったかのように、不穏で冷気を放つ気配が溜まっているような気がした。
優がおれば、そんな邪気など、あの笑顔で払ってくれるだろうが、今はいない。
もうすぐやってくる綾のために、準備に余念がない。
なにしろ、独り身の生駒の部屋には、優が少し揃えてくれているとはいえ、ろくな食器もないのだ。
生駒は、説明を続けた。
なぜ彼女が犯人を庇って、織田さんが犯人だと見せかけようとしたのか、全く見当がつかなかった。
しかし石上が住田靖男で、犯人じゃないかと考えたとたんに、僕のあってずっぽうは少し現実味を帯びてきた。
つまり、こうだ。
パーティの夜、エントランスホールから出てきた香坂さんと石上に会った。
そのとき石上は紙袋を持っていて、汗をかいたから着替えたと言っていた。
でも、あの紙袋の中には、若槻を襲ったときに身に着けていたものが入っていたんじゃないだろうか。
つまり血のついた作業服や手袋が。
ふたりは親しげに雑談しながら、というふうではなかった。
それは別におかしくはない。
あのふたりは、仕事の上では接点がないから。
しかし、いつもなら香坂さんは僕に声を掛けてくれたりするはずなのに、避けるようにさっさと行ってしまった。
僕はなんとなく妙な気分だった。
もしかすると、香坂さんはそのとき、なにかを見た後だったんじゃないだろうか。
石上が若槻さんを襲うところか、箱の中に放り込むところを。
あるいは石上から、自分が今やったことを聞いた後だったのかもしれない。
大矢がそんな! と言ったきり絶句した。
生駒は淡々と話を続けた。
一応、僕はそう仮定した。
香坂さんはそのときどうしたか?
普通なら叫ぶか、逃げ出すかするだろう。そしてすぐに誰かに伝えるだろう。
あるいは、石上の血のついた服を見たのだとしたら、若槻さんが殺されたことがわかってからは、警察にそのことを言うはずだ。
しかし香坂さんは、そのいずれもしなかった。
僕たちにも黙って、織田さんの車についてだけ、警察に通報した。
そうしておいて、僕たちには織田犯人説を力説した。
それに彼女が、僕たちが集まって推理するきっかけを作ってくれたともいえる。
これらのことは、なにを意味する?
柏原が、なるほど、とつぶやいた。
「あくまで推測だぞ。いいか。香坂さんは、石上の娘じゃないかって、考えたんだ」
「なっ」
大矢が息を呑んで、握っていた携帯電話をポケットに戻した。
石上には別れた妻があって、娘がひとりいたそうだ。
香坂さんも両親は離婚したと言った。
母親は死んだが、交流がなかった父親とひょんなところで会った、とも話してくれた。
つまり、そのひょんなところというのは、住田幸江の葬式のことじゃないだろうか。
石上靖男の母親、香坂さゆりのおばあちゃん。
香坂さんは祖母とは会っていたと言っていた。
そのとき初めて、香坂さんは石上が自分の父親だと知ったんだ。
石上が忌引で休んでいたとき、香坂さんも会社を休んでいたんだ。
「そんな……」
大矢の声が震えていた。
そう考えると、辻褄が合う。
ふたりはそれからも以前と変わらないように、他人同士の態度で接することにした。少なくとも他人の前では。
ふたりの間の話し合いで、どんなことを決めたのかは知らない。
香坂さんが、祖母の幸江には会っていたけど、なぜ自分の父親のことを知らなかったのか。
それも僕にはわからない。きっと、いろんな事情があるんだろう。
しかし香坂さんはいずれかの時点で、石上が積年の恨みを晴らそうとしたことを知った。
若槻さんを単管かなにかで殴り倒し、その死体を織田さんの車で吊り上げるという仕掛けによって、首を吊ったと罵られた母親はじめ、住田一家の恨みを晴らそうとしたことをだ。
香坂さんはそれを知ったとき、今まで全く付き合いのない、顔さえも覚えていなかった父親ではあるけれど、石上を守りたいという気持ちが働いたんだろう。
両親が離婚したときのいきさつがどうであれ、石上がどんな男であれ、たった一人の肉親が人殺しとして逮捕されて欲しくはないだろう。
実は、香坂さんから、娘に対する父親の気持ちってどんなだろう、というメールをもらったことがある。
香坂さんにとっては、恨む理由はない父親なのかもしれない。
そして香坂さんは、警察の目を織田さんに向けさせようとした。
そして僕たちの目も。
「断言するんだな」
柏原が念を押すように言った。
「ああ。昨日の夜遅く、香坂さんに電話をした」
大矢がますます目をむいた。
「石上靖男は君のお父さんじゃないかって。それだけを聞いた。そしたら……、泣かせてしまった」
「うぅ……」
大矢が唸った。
「そして、石上は自首した」
大矢が震えそうな声で不安げにつぶやいた。
「どうなるんやろ、彼女は……」
生駒はそれには応えなかった。
まだ、話の続きがある。
「僕が最後に石上に確かめたかったこと。聞いても、本当のことは言わなかったと思うけど。それは」
生駒は胸が悪くなってきた。
「僕は、大失態をしでかしてしまった」
柏原は、ちらりと視線をよこしたが、バーのマスターの手際でグラスを磨き始めた。
生駒は、その先をなかなか言い出せなかった。
「僕の推理は、完全に横道に入り込んでしまっていた」
生駒を凝視する大矢の目は血走っていた。




