53 つたない推理
大矢が息を呑み、
「ちょ、ちょっと、まさか!」
と、声がうわずった。
「そう。あのとき」
生駒は大矢の心が落着くのを待った。
「彼女は誰かを見送りに行って、ゲートの近くにいた」
「あ……」
「見たんだよ、きっと。車がロープを引きずったまま、目の前を走り去っていくのを」
むうう、と唸って大矢が目を剥いた。
柏原が口を挟んだ。
「そういや推理会議のとき、その話が出たときの彼女の反応は、ちょっと変やったな」
生駒は頷いた。
「そのロープに、織田は気がつかなかったんか?」
「そう」
「帰ってからもか?」
柏原とはすでにこの話はしていたが、大矢に聞かせるために、代わりに質問をしてくれている。
「ああ。家はすぐ近くだ。一分もあれば着く。駐車してから車の周りを回って点検するなんてこと、普通はしないだろ。酔っていてもいなくてもね」
「で、そのロープは?」
「あの車は誰でも自由に出入りできる月極駐車場に停めてあった。夜の内に犯人がロープを取り去ったのなら、織田さんは、自分の車の後ろにそんなものが結び付けられていたなんてことを知りようがなかった。でも、痕跡は残っていたんだろう。警察が押収したってことは」
「なるほどな。でも、なぜ香坂さんは、それを僕たちに言わなかったんや?」
「うん。というより、推理会議の前になぜ織田さんの車が怪しいと気がついたんだろう、ということのほうが疑問だったね。言い換えると、なぜ警察が織田さんの車に関心を持つように仕向けたんだろう?」
「うむ」
「それに、彼女についてはもうひとつ、不自然なことがあった」
「とは?」
「彼女は佐野川さんにアリバイがあることを知っていたんじゃないか、と思えるんだ」
「うむ……」
「ジムの会員なら、ボクササイズレッスンのメンバーの出欠は確かめることができる。きっと彼女は、佐野川さんにはアリバイがあることを確かめたと思うんだ。なにしろ、佐野川犯人説が話題になったんだから」
「ああ」
「確かめていたら、若槻さんが殺された時間帯には、佐野川さんがジムで汗を流していたことは簡単にわかる。なのに彼女は、二回目の推理会議のときにも、僕たちにそのことを言わなかった。佐野川さんが逮捕されていたのに。なぜだ?」
大矢が目をむいた。
「それって……」
「僕は悩んだ。しかし、想像をたくましくすると、結論はまずこうなる。推理会議で僕が説明する前から、香坂さんはロープの仕掛けに気がついていた。織田さんが若槻さんを車で引っ張り上げたこともだ。そうすると俄然、織田さんが怪しい。でも、彼女は僕たちにそのことを言わなかった」
なるほど、と柏原がにやりとした。
「彼女には言えない理由があった。つまり香坂さんは、警察の目を欺くために織田さんを犯人に見せかけようとしていたからなんだ。自分が警察に通報したことを僕たちに知られてはいけなかったんだ。ということは……、彼女は、犯人が織田さんではない他の誰かであることを知っていた、ということになる。わかるかな?」
しかし、それは単に……、と大矢が口ごもった。
「自分が警察に通報したことを忘れていたから? まさかね」
大矢の反論がないことを待って、生駒は話を進めた。
「ここまでいいかな? じゃ、次にいこう。彼女はどうしてそれらのことに気がついたのか。でも、よほどのことでないと気がつかないよ。ロープの仕掛けについては気がついたかもしれない。織田さんの車がロープを引きずっていたことを思い出したらね。でも、ここからが大切」
話が核心に近づいて、大矢が生唾を飲み込んだ。
「織田さんではない誰かが真犯人だということはどうしてわかったのか? つまり、この人が犯人だという確信を持てるほどのなにかを、見聞きしたからじゃないかな」
「なんや、生駒。それは知らんのか」
柏原が残念そうに言った。
「当たり前だろ。あの夜も、あの日以降も、僕は彼女が誰と接触しているのかなんて、知らないからな」
「じゃ、どうしてわかったんや?」
「今から話す。でもその前にさっきの話に戻るけど、住田靖男は昔々、若槻さんを憎んだと思う。もしかすると僕も」
しかしね。
なにしろ三十年以上も前のことだ。
いまさら会ったからといって、いきなり殺そうと思うか?
殺すつもりなら、もっと以前にやれたはず。
誰も逃げ隠れはしていなかったわけだし、年下の子供だったんだから。
憎しみは持っていたとしても、殺したいと思うほど強く思いつめたものではなかったんだと思う。
住田自身も子供だったしね。
それに若槻さんの原稿を読んだからといって、いまさらその昔の憎しみが、殺したいと思うほどいきなり強くなるものだろうか?
それもちょっとね。
ありえないことではないが、やはり考えにくい。
つまり、もっと直接的な、というか、もっと直近に強い恨みが生じたと考えるのが妥当だ。
では、ここ最近、誰かが強い憎しみを抱くような出来事があっただろうか。
あの現場では、どんなことがあった?
キックバック?
あるいはキックバックがばれたこと?
誰が得をして、誰が損をした?
得をしたのは織田さんで、損をしたのは中田部さんと白井さん?
白井さんは地元の人間じゃないし九州に帰りたがっていた。
会社の上層部に恩を売って、得した方の人間かもしれない。
ということで、白井さんは省こう。
中田部さんは?
兄と仕組んで旨い汁を吸おうとして失敗した織田家の次男。
中田部さんが損をしたことは事実だけど、自業自得だよな。
しかも、そんな理由で人を殺すかな?
犯人像としてはありえない。
じゃ、誰だ?
もう一人いるんだ。
全くもって大損をした人間が。
二回目の推理会議の後、行武さんが僕の事務所に来た。
織田家の葬式の参列者の中に、中田部さんに声をかけられていた現場の人間がいると言って。
僕が一気に真相に近づくきっかけとなった話だ。
中田部邸の改装工事を請け負ったのは、親戚にあたる織田工務店。
担当は織田孝。
実際の施工は中桜工業。
中桜工業の担当者は石上。
彼は織田さんがセッティングしたキックバックの件で、ひどい目にあった。
織田家は土地を売って儲けているのに、またしても汚い手を使って金を掠め取っている。
キックバックがばれた後でもお咎めなしだ。
石上は、自分が汗水垂らして働いている現場で行われた、そんな汚い金の流れの全容を知っていたんじゃないかな。
それに比べて、自分の境遇。
もうすぐクビになるなんてことは、あんな小さな会社のことだ。しかも口の軽い坂本が知っているほどだから、当然耳にしていただろう。
石上はあんなふうに穏やかな様子でこつこつと仕事していたけど、心の中にはいつしか大きな怒り、あるいはやるせなさが蓄積し、今にも爆発しかけていたんじゃないだろうか。
一昨日の夜、行武を送って外に出たとき、僕の事務所の前に軽四が停まっていた。
誰かが薄暗い中で、車内灯もつけずに週刊誌を読んでいた。
誰かを見張っているように。
まさか僕を?
そう感じたとたん、あの軽四は中桜工業の車じゃなかったのか、中田部邸の工事現場で見た中桜工業の車と同じ車種じゃなかったか、と思い始めた。
そして車の中で、週刊誌で顔を隠していた人物。あれは石上だったんじゃないか、と考え始めたんだ。
つまり石上靖男は、水路事故の被害者の兄、住田靖男と同一人物じゃないかということをね。
住田靖男は小さいときから散々、不幸な目にあってきた。
貧乏だったろう。
そもそも太っているものはますます太り、どん底の人間はどこまで行ってもどん底のまま。
織田家に助けられているのか、奴隷のようにこき使われているのか、わからない状態だったのかもしれない。
この辺りは想像だよ。
靖男は、養子に出されて名前を変えた。
大人になってからは職を転々とし、結局は織田さんの紹介で、中桜工業に勤めることになった。
それ以降も、高級車を乗り回す織田さんにこき使われながらも、なんとか我慢してきたんだと思う。
なにしろ母親の面倒は、織田家が見てくれている。何十年もの間ね。
そういうときに若槻さんが目の前に現れ、あの原稿。
母親が死んだのは病気によるものだったのに、若槻さんはなぜか、それを、金を掠め取っていたから解雇され、挙げ句の果てに首吊り自殺というでっち上げを吹聴して回った。
若槻さんがなぜそんなことをしたのか、もうそれは知りようがない。
本人から聞けないから。
激しい怒りに火をつける出来事が、連続して靖男に降りかかったんだ。
熱心に仕事をしながら、ぼろアパートに住みながら、呪いの言葉をかろうじて押し殺していた靖男だったが、これで積年の恨みが一気に噴出したと考えても不思議じゃないだろう。
「でも、根拠はない」
柏原の合いの手で、生駒はビールに手を伸ばした。
「ああ、ないよ。でも、こんなことがあった」
ひと月ほど前、墓に参る男を見かけたことがある。
薄い緑色の作業服を着ていた。
あれは石上だったんじゃないだろうか。
あのとき、住田家の墓、母親が入ったばかりの墓に参ったんじゃないだろうか。
僕は昨日の昼間に、墓地に行って確かめた。
あった。
織田家の立派な墓の奥に、ちっぽけな区画が。
一番北の通路を奥に曲がって六つめ。住田家の墓が。若槻家の墓の隣に。
作業服の男は、そのあたりの墓に参ったんだ。
ちなみに、石上の名前のある墓石は、墓地中を探してもどこにもなかった。
「うむ」
「僕はひと芝居、打つことにした。根拠のない想像を膨らませただけの推理、ではまずいからね」
「昨晩の活劇だな」
「次に狙われるかもしれないのは、僕だ。収納扉の検査をしたとき、大矢さんが僕と若槻さんは幼馴染だと言った。石上はそれを聞いていた」
「無事でよかったな」
「ああ。石上がいる前で、墓地に行くことを話した。もし、彼がチャンスとばかりに襲ってきたら、推理は当たりだ。で、大矢さんと行武さんに応援を頼み、事前に墓地に潜んでいてもらった。冷や汗びっしょりだったけど」
生駒は改めて大矢に礼を言い、肩をぽんと叩いた。
「あの、それで、香坂さんのことはどうなんでしょうか?」
大矢は気になって仕方がないようだ。
生駒の話に驚きながらも、携帯電話に連絡が入っていないかとしきりに気にしている。
「香坂さんか……。まず、僕が考えた推理を話します」
生駒はこの話をどうしようか悩んでいたが、結局、考えたとおりのことを、考えた順に話しておこうという気になった。
まだ不確実な部分がある内は。