48 冗談でしょう
生駒が事務所に帰るなり、行武から電話が架かってきた。
得意先回りからの帰りだ。近くを通りかかったものだから。
夜遅くにすまないな、と言いながら、行武が部屋に入ってきた。
テーブルにつくなり、コーヒーでも入れようという生駒を押しとどめる。
話したいことがあると。
今朝行われた織田家の葬儀に、弁当を届けた。
弟の博や妹の静江も来ていた。
それ以外にも、見知った顔をたくさん見かけた。現場で見かけたことのある人達だ。
そのうちのひとりが、博と話をしていた。葬式の場だから、にこやかにというのではない。その白髪の男はうなだれていたし、博は男の肩に手を置いて慰めているようだった。
行武の話はそれだけだった。
自分なりに、なにかを考えようとしているのかもしれない。
しかし生駒は、行武の持ってきた情報を聞いても、反応できなかった。
もうひとり、織田家にゆかりの人物がいるかもしれないという新情報だったが……。
たて続けに入ってくる散漫な情報の断片。
疲れきった頭では、それらを吟味し、整理して組み立てることはできなかった。
突き詰めた思考を再開するには、ゆっくりと眠る必要があった。
しかし明日になれば、もうこんな思考をする必要もないかもしれない。
あっけない結末になるかもしれない。
それならそれでいいとも思った。
生駒の緩慢な反応に不満そうな表情をみせた行武を、マンションの外まで見送りに出た。
行武はライトバンをマンションの横の薄暗い道路に駐車させていた。
「駐禁とられてない? この辺りはよく回って来るんだ」
後ろにも軽トラックが駐車していた。暗い中で誰かが週刊誌を読んでいる。
「とはいえ、近くに百円パーキングもないし。ここなら、誰にも迷惑をかけてないと思うけどな」
そう言いながら車に乗り込み、ドアを閉めてウィンドウを下ろした。
「夜遅くにすまんかった。またそのうち、ゆっくり飲みに行こうや」
「ああ、せっかく来てくれたのに」
生駒は、歓待できなかったことを詫びた。
翌朝、生駒は遅くに目が覚めた。
窓のカーテンを開けた。
パソコンが立ち上がる間に、生き返った脳に行武の新しい情報がリアルに甦ってきた。
香坂からのメールが届いていた。
昨晩はすみませんでした。
先生が、まだ事件のことを考えようとされていたのに、
私たち、足を引っ張ったみたいで。
なんだかお疲れのようでしたよ。
夏バテですか?
どうぞお気をつけになってください。
それに、あんな思いもしなかったことが現実に起きたわけですから、
身の回りには気をつけないといけませんね。
どうか生駒先生、くれぐれも。
建友会の冊子、お返しするのを忘れていました。
また、水路のことなど、昔の話を聞かせてください。
ではでは。
身の回りに気をつけろというメッセージに、生駒は微笑んだが返信はしなかった。
夕方から現場で、打ち合わせの予定がある。そのときに顔を合わせるだろう。
生駒は頭が冴え渡っているのを感じた。
ふと、今日は犬見神社の祭礼の日だったことを思い出し、少し早めに現場に向かうことにした。
改修計画を頼まれていた石碑は、以前に見たときのまま、現場の仮囲いと神社の柵の間に挟まって横たわっていた。
急速に伸びた夏の葛に覆われて、刻まれた文字を読むことはすでにできなくなっていた。
神社を抜けて墓地に入り、墓石の文字を見て回る。
懐かしい名前が、時折目に飛び込んできた。
一番奥の広い敷地には織田家の大きな墓石が立っていたし、行武や佐久間の名前もあった。
地元に住み続けている者という佐久間の言葉が、墓石という直接的な証しと結びついて、心に重くのしかかってきた。
コンビニエンスストアにも、顔を出した。
佐久間は、火事で焼け死んだのは織田とその母親だけで、ひと月くらい前から来ている新しい家政婦は逃げ出して無事だったと言った。
祭りの日にちが変わったのかと聞くと、佐久間はもう何年も行われていないと申し訳なさそうに言った。
賑やかだった夏祭り。
小さいけれどきらびやかな、金色のぴらぴらした飾りをつけた神輿が、町内を練り歩いたものだった。
夜店もたくさん出た。
行武と話題にしたお化け屋敷もあった。
その日ばかりは、子供たちだけでは行ってはいけないといわれていた墓地で、自前のお化け屋敷ごっこなどをして遊んだものだった。
若槻や織田や住田や行武たちが、その記憶の中にいた。
しかし今日の境内には、人っ子一人いない。
わずか一対のご神燈が、社の正面に灯されているだけだ。
最近の新しい住人は、お宮さんの祭なんかに興味がなくてね、と佐久間は寂しそうな顔をした。
打ち合わせには、ハルシカ建設から鈴木と田所、根木、大矢が出席し、藍原と生駒、そして織田工務店からは新任の清田、中桜建設の坂本と石上、設備業者数名が出席した。
三都興産から指示された住戸プランの変更内容の確認と、対応方法の打ち合わせだ。
すでに工期が大幅に遅れていることもあり、購入者のすべての希望をかなえることはできない。
最大限譲ってどこまで対応するのか、ということについて、ゼネコン、設計事務所、内装業者、設備業者の間で調整しておこうということである。
こういう会議では、設計部隊である藍原や生駒の旗色は悪い。
ゼネコンをはじめとする施工業者が、やろうと言ってくれなければ、先に進めないからだ。
多勢に無勢。
生駒にとっては厳しい折衝となり、一応の合意点に到達したときには、夜の十時近くにもなっていた。
その合意事項を、クライアントである三都興産に伝えるのは、原則的に設計監理業務を行っている藍原や生駒の役割だ。
「それじゃ、羽古崎課長へは私から連絡を入れておきます。あと、まだ今日のうちに話し合っておくことはありますか? もう時間も遅いので、手短にお願いしたいのですが」
議題はないようだった。
会議は終了した。
「じゃ、これで終わりましょう。お疲れさまでした」
全員がいっせいに立ち上がった。
生駒は座ったまま、真っ先に会議室から出て行こうとする大矢を呼び止めた。
「大矢さん、今から忙しい? ちょっと付き合ってくれないかな」
「いいですよ。なんですか?」
「裏の墓地に行きたいんだ」
会議に出ていた者たちが、驚いて生駒に注目した。
「は?」
「調べたいことがあってね」
「墓地って、神社の裏の?」
「そう」
「こんな時間に?」
「ああ。今から」
鈴木が幾分目を細め、ドアの脇で体をこわばらせて、生駒と大矢のやり取りを聞いていた。
「ご冗談でしょう! 明日の昼間なら付き合いますよ」
「ごめん、ごめん。変なことを頼んで」
生駒は、机の上に広げた資料をまとめて立ち上がった。
大矢は首を捻り、振り向きもせずに会議室を出て行った。
他の者も会議室から出て行く。
ひとり残った生駒は、携帯電話をポケットから取り出し、行武の電話番号を押した。
監理事務所に戻り、ゆっくりと帰り支度を済ませ、福島の事務所の留守録を確認してから監理事務所を出た。
藍原が怪訝な顔をして見送っていたが、生駒はにやりと笑って手を振っただけで、なにも言わなかった。