45 混乱の始まり
夕方、大矢から生駒に連絡が入った。
「なんだって!」
思わず生駒は叫んだ。
「そうなんです。さっき、織田部長が事務所に挨拶に来ました。釈放になったそうです」
生駒は辺りを見まわした。
ユニットバスがむき出しで置かれた住戸の中に、さっきまで作業していた配管工の姿は見えなかった。
「どういうことです!」
「それが、詳しく話さないものですから、よくわからなくて。若槻所長を殺したのは自分ではない、ということを警察はわかってくれたと言うだけで」
「すぐに事務所に戻ります。今から時間ありますか?」
生駒は住戸を出て、階段を降り始めた。
「いえ。今からつまらない会議があるんです。織田部長はまだその辺にいるようですから、直接お聞きになってください」
「わかりました。彼は今、どんな様子ですか?」
「めちゃくちゃ不機嫌です。でも、気持ちはハイになっているみたいで、今日は飲みに行くぞって、周りの人間を誘いまくっています」
「警察に出頭したのは、いつだったんですか?」
「四泊五日だとか言ってました」
生駒は現場事務所に戻った。
途中、若槻が倒れていた穴の横を通った。
すでに型枠が組まれ、コンクリートを流し込んで穴をふさいでしまう準備が進められていた。
事務所には大矢の姿は見えなかった。
大矢だけではなく、女子事務員を残してゼネコンの職員全員が会議室に入っているようだった。
生駒は、主要な下請け業者が詰めている別棟の作業事務所に向かった。
仮設手洗い場の前に、織田を中心にして数人の男がたむろしていた。
「けっ、ふざけた話や! 俺の後釜を寄こすなんて、社長もどうかしてる。俺を犯罪者扱いしやがって、あいつ、いっぺん痛い目にあわさんとわからんようや! あいつは俺の叔父やが、実は俺より二つも年下で、なにもしとらんのや!」
織田が坂本や石上らを相手に、不満をぶちまけていた。
顔を見たことのある職人数人に混じって、佐野川の姿もあった。
「だいたい、俺がなにをしたっていうんや。どこのどいつが俺を嵌めやがったのか知らんが、ただでは済まさんからな!」
周りの者はニヤニヤしながら聞いていた。
織田が取り調べを受けているという驚きと、釈放された驚きが収まり、織田が犯人ではないかという疑念も解消して、とりあえずは織田のうっぷん晴らしに付き合ってやろうという気分のようだった。
「垂れ込みやがったのは、たぶん……」
織田が生駒に気づいた。
と、石上を押しのけて歩み寄ってきた。
「や、これは生駒先生。ご心配をおかけしました。えらい目にあいましてな!」
「ええ。大変でしたね」
と、返すしかない。
激しい言葉とは裏腹に、織田は落ち着いた目をしていた。
「どんなことを調べられたんですか?」
「どんなもこんなも。めちゃくちゃな話ですわ。若槻さんをロビーのゴミ箱に放り込んで、車で引っ張り上げて殺したやろ、というんです。俺が、その時間帯はずっと焼きそばの前を離れなかったと言うのに、今度は、ワープロかパソコンを使えるかと聞きよる。俺はあんなもの興味はないし、自慢じゃないが電気の付け方さえ知らん。警察のやつは、うちの社員に聞いて俺の話の裏を取りよった。で、今日の昼になって、ようよう無罪放免というわけですわ」
「疑いが晴れたってことですよね」
「そりゃ、そうでしょうが!」
「よかったですね」
生駒は、心を込めて言ったように聞こえるように、何度も頷いてみせた。
「今、垂れ込んだのは誰かって、言いかけてましたね」
「ワハハハ! ちょっとした言葉の弾みですがな! 知ってたら、こんなところで油売ってませんわ!」
そう言って、織田が立ち去りかけた。
「パーティのとき、もって来ていただいたシャーベット、ありがとう。おいしかったですよ」
「は?」
織田が怪訝な顔をして、振り返った。
翌日、生駒は携帯電話の呼び出し音で目が覚めた。
「もしもし」
「佐久間です! 大変なことになった! 火事だ! 織田の屋敷が燃えた!」
眠気がいっぺんに吹き飛んだ。
「なんですって!」
「火事! 奥さんも息子も焼け死んだ!」
声が上ずっていた。
生駒はベッドから飛び起き、パソコンに駆け寄った。
朝一番に電源を入れるのは習慣だ。
メールをチェックして、ニュースを見なければと思った。
「くわしいことはまだわからない。昨夜遅くに火が出た。一応、生駒さんにも知らせておこうと思って。取り急ぎ第一報です」
佐久間は、それだけ言うと電話を切ってしまった。
町内会の副会長として、走り回っていることだろう。
午前七時だった。
十時から新しい仕事の打ち合わせの予定があった。
大和高田に行っている時間の余裕はなかった。
ニュースには出ていなかったし、メールも来ていなかった。
昨日の朝、久しぶりに来た香坂からのメールを開いた。
すでに読んだものだが、もう一度丁寧に読んでいった。
もう大矢さんから連絡が入っているかもしれませんが、
念のためご連絡です。
織田さんが警察の取り調べを受けています。
やはり、という感じです。
ようやくかたがつき、正直言ってホッとしています。
自分の身近で殺人事件が起きるなんて
思いもしなかったことでしたが、
犯人が捕まり、まずはひと安心というところですね。
生駒先生の推理もさすがでしたが、
警察も捨てたものじゃなかったですね。
昨日は、すみませんでした。
自分の思いつきの推理に酔ってしまって、
大矢さんにも申し訳ないことを言ってしまいました。
今日、謝っておきます。
ではでは。
これに生駒は、返事を出していなかった。
返信ボタンを押し、
「織田さんが死んだ。家が焼けた。詳細がわかり次第、連絡をくれるように」
と書き込んで、送信ボタンをクリックした。
携帯電話に大矢からの連絡が入ったのは、九時ごろだった。
生駒は打ち合わせに向かうために大阪環状線に乗っていた。
大矢の声には、緊張感がみなぎっていた。
「今、警察がこっちにも来ています。どうも放火のようです」
「放火か……」
昨日、大声でうっぷんを晴らしていた織田の、どことなく晴れやかな顔を思い出した。
「警察は、織田部長の昨夜の行動を調べています」
「飲みに行ったんじゃないんですか?」
「そうです。坂本が一緒だったんですが、へべれけになるまで飲んで、最後の方は記憶があいまいなようです。今、別室で缶詰にされています」
「警察はなにを知りたいんだろう。織田さんが帰宅した時刻を知りたいということかな」
「さあ、それは」
「飲んでた場所は?」
「夏目という駅前のスナックだそうです。そこへふたりで行ったのは確かだが、途中で織田部長が何人か呼び寄せて、とかなんとか」
生駒は、思わず大きく息を吐き出した。
「推理は一からやり直しか……」
「そうですね」
生駒は周りの乗客の目を気にして、通話をオフにした。
昼過ぎ、事務所に戻った生駒はパソコンを立ち上げ、メールを見た。
香坂からの返事は来ていなかった。
次の推理会議を月曜日の夜にオルカでどうか、大矢さんにも伝えて欲しい、というメールを送った。
優から携帯メールが入ってきた。
転送メールだった。元の発信者はミヤコとなっていた。
「佐野川さんが任意同行を求められたよ。今頃、警察で絞られているのかも。私、会社を辞めることにした。今度、ゆっくり会わない?」
佐久間に電話を入れた。
「すまなかった。連絡が遅くなってしまって。実は、わしの店に昨日の夜遅く、孝が来たんだ。タバコを一箱買った。小銭がないからと言って、店に入ってきたんだ。相当に酔っていて、足元がフラフラだった。びっくりしたよ。警察に拘留されているものとばかり思っていたから」
「織田さんは一人でしたか?」
「えっ? いや。外で待っている人がいた」
「誰です? 知っている人でしたか? どんな人です? 男?」
「まるで警察の尋問だね。いいんだよ。同じことを警察の人にも聞かれたから」
「はあ」
「体格のいい男がひとり。暗い中に立っていた。それ以上のことはわからないけど、連れ立って、織田の家の方向に歩いていった」
生駒は佐野川だと思った。
佐久間の情報で、警察は佐野川に任意同行を求めたのだ。
若槻の事件や黒井の事故についても、佐野川をマークしていたのかもしれない。
誰かが織田の車のことを警察に通報している。佐野川と黒井や若槻の関係について、情報を掴んでいても不思議ではない。
「何時ごろのことですか?」
「深夜十二時四分。レジの記録に残っている」
「火が出たのは、もっと遅くですか?」
「ああ。三時過ぎじゃないかな。サイレンの音に飛び起きたのは、その頃だった」
電話を切ってから、行武の様子を聞き忘れたことに気がついた。
次に生駒は、香坂が話していたボクササイズのジムに電話を架けた。
「警察署の小浦というものですが、六月八日夜の初心者クラスに、佐野川雄二が出席していたかどうかを知りたい」
電話に出た女性は、佐野川が出席していたと言った。
「先日も同じことを聞かれたよ。横の連絡が悪いんやね。それともなにかい? 一回聞いただけでは信用できないのかい? それなら、ここへ来てみたらどう? ジムのロビーに生徒の出欠はいつも掲示してあるから」
生駒はなにも言わず、ブツリと電話を切った。
嫌味に付き合う気はなかった。
しかし、それからの生駒は、なにもすることがなくなった。
大矢や香坂からの連絡もない。
仕事はする気になれない。
あの地図を広げて眺め始めた。
感傷的な気分だったのだろう。
若槻に続き、織田も殺された。
動機がどうであれ、いずれも生駒の幼馴染だ。
ん? そういや……。
鈴木が言ったことを思い出した。
若槻の机の上に置いてあった生駒宛の封筒の中身を見たと、打ち明けられていたのである。
生駒は、地図上の道や水路を目で追っていった。




