37 老人の饒舌
大矢はその夜、全員が退社した後、重要書類が収納された書棚を開けた。
川上から借りた書棚の鍵は、昼休みにコピーを作ってあった。
神社植栽工事の関連書類を見るためだ。
不当に高い織田工務店との契約書。
契約金額は税込み千三百八十万円。そして出金依頼書の控え。着手金として半金六百九十万円が既に支払われた記録。白井と鈴木の印が押されてあった。
変更契約書も探し出した。
請負額を当初の契約金額の半額にするための書類。
すでに六百九十万円が支払われているので、変更契約書を締結した時点で、契約行為はすべて完了していることになっていた。
大矢はそれらのコピーを取った。
そのころ、オルカでは。
生駒が柏原の作った一杯目のジントニックを飲み終える前に、佐久間が入ってきた。
コンビニのレジの後ろで水色の帽子を被っているときと違って、オーソドックスなダークスーツに身を包み、少々派手めのネクタイを締めていた。
「こんにちは。待たせたかな?」
「いいえ。すぐにわかりましたか?」
「ああ。完璧な地図だったよ。すまなかったね。急に会おうと言って。今日、大阪でフランチャイズ関係者の集まりがあったんでね」
スツールに腰掛けた佐久間は、迷うことなくサントリー山崎のロックを注文すると、早速だが、と切り出した。
「今日、君に会いたいと思ったのは、単刀直入に言わせてもらうと、若槻さんの事件のことだ」
生駒は面食らったが、黙って頷いた。
「実は、工事現場の所長が若槻という人に代わったことは、本人からご挨拶をいただいたから知っていた。が、彼が地元の人だということは知らなかった。地元の人間は誰もだ。行武以外は。今はもうみんなが知っている。というより、彼が殺された話で持ちきりだ」
佐久間は地元でどんな噂が流れているかを語りだしたが、生駒にはあまり興味が湧かない話ばかりだった。
「若槻家は町会長に頭が上がらないはずだ。生駒さん、覚えてますか。いや、君の家が引っ越ししてからのことだったかな。寺の裏の入り組んだところに、小便長屋と呼ばれてたぼろい路地があったでしょう。あそこが火事になった。その火事で住田の家の大黒柱、邦宏が死んだ。原因不明の失火だということになった」
生駒はとりあえず相槌を打った。
「しかし地元では、横の空地で若槻の息子と竹安の息子が火遊びしているのを見かけた人がいたんだ。それで、その火遊びが原因じゃないかという噂がたった。若槻の息子が年上だったし、竹安の息子はほら、ちょっと頭が弱かった。だもんだから、本当は若槻の息子が火事の犯人だと言う人がいたんだ。あくまで噂としてだがね。そんな噂を、町会長が一喝した。つまらないことを言うな、とね。若槻家を庇ったわけだ。そう、そのときの若槻の息子というのが、先日殺された人だ」
コンビニで別れ際に、一度ゆっくり会いましょうとは言ったものの、若槻が殺された今となっては聞きたい話ではない。
生駒は、自分よりもずっと年長で、父親の友人だった老人の話の腰を折るのは気がすすまなかったが、露骨に不愉快だという顔をしていたのだろう。
佐久間が諭すような口ぶりになった。
「君にとっては、おもしろい話題ではないようだね。でも、地元にずっと住み続けている人間はそういうこともずっと覚えていて、昔のしがらみに縛られ続けているものなんだよ」
「はあ」
「恨みがましいことを言うつもりじゃない。殺された若槻さんのことを、いまさらとやかく言うつもりでもない。君にも理解しておいて欲しいという、年寄りのおせっかいかもしれないね。だけど、聞いて欲しいんだ。正直言って、あのマンション。地元ではよく思われていないんだよ。だから、あの工事にまつわる地元の噂はどれも、いわば辛らつなものになってしまう」
生駒にも、その気持ちは理解できた。
マンションは東西に長く、神社の南側に、巨大な城壁のように建つ。
その圧迫感を耐え難いと思う人もいることだろう。
生駒は、自分がインテリアの設計で、建物そのものの設計者ではないことを、さらりと弁解した。
「経済活動だから仕方のないこと。それはわかっている」
佐久間は、これも町の噂だと、今度は織田家の批判を始めた。
三都興産に土地を売って得た多額の金を、全く地元のために使わないと言うのだ。
「昔の町の名士というものは、自分の費用で橋を作ったり、道を作ったり、子供達に公園を整備したりしたものだ。もちろん祭にも多額の奉納金を出したりね。ほら、あの樋口水路に架かっていた織田橋というのがあっただろう。小学校へ行く道に架かっていた犬見橋より、ひとつ西の」
生駒は頷いた。
橋のたもとにジュズダマがたくさん生えていて、その実をタコ糸で繋いで腕輪を作ったことを覚えている。
「あれは織田の先代が、架け直したものだよ。それまでは危なっかしい木橋が架かっていたんだが、どんな車でも通れるようにって、コンクリートで先代が架け替えたんだ。橋を渡ったところに斉藤商店って、かしわ屋があったのを覚えていないかな。裏に養鶏場があって。あの橋はそれまで、いわばその店だけしか使わないようなものだったが、架け直されて新しい道が通るきっかけになった。そして、つぶれかかっていたかしわ屋は甦った」
いきさつを知らない生駒は、ただ頷くだけだ。
「田村公園もそうだ。君もあそこで遊んだんだろうね。田村というのは町のはずれの古くからある家だが、そこの家の子が遊べるようにってあの公園を作って、周りの人にも開放したのが始まりだ。今でも田村公園はあるよ。市が買い上げたけどね」
「はい」
「そうやって昔の金持ちというのは、自分の富を上手に地域に還元していた。だから織田家や田村家に恩義を感じている人が大勢いるわけだ。ところが今ではどうだ。言い方は悪いけど、地域を踏みつけにして自分の金儲けに明け暮れている。自分さえ豊かになればそれでいいという考えだ。元々、織田家は食品工場をしていて、町のみんながそこで働いて大きくしたようなものだよ。先代はそれをよくわかっていたし、ことあるごとにそう話していた。それが今はどうか、ということだな。町の土地をあちこち買い漁さって、駐車場経営やアパート経営なんかをやっているかと思えば、それらをまとめて三都興産などの業者に土地をどんと売って、莫大な金を手に入れている」
佐久間はよほど腹に据えかねているのか、勢いよく飲み干したグラスを乱暴にカウンターに置いた。
「つまむものでも出しましょうか」
佐久間はすでにグラスを二杯空けていたが、口に入れたのは小さな皿に載せられたわずかなピーナツだけだった。自分が興奮気味だったことに気がついたのか、神妙な声で、すみません、もう一度これを、と小さな皿を差し出した。
「実は、わしは今、町内会の副会長をしている。今度のマンション建設については、こういっちゃなんだが、基本的に反対の立場だった。地元にとってメリットが少ないから。近隣の商店主の中には、なにがしか潤うのではないかという期待もあることは事実だ。しかし、失うものも大きいわけだ。詳しく説明するまでもないことだろうけど、わしは、地元の一体感というか、昔ながらの松並町らしさというか、そういうものが失われていくことが残念で仕方がないんだ。すでにそんなものはなくなってしまっているし、いつまでも郷愁に囚われていてはだめだという人もいる。でも、昔から住んでいるものとしては、それがもうありもしないものだとしても、守りたい気持ちがあるわけだ」
佐久間が、出されたピーナツをポチリと口に入れた。
「それに、今度のマンションはあの規模だ。まるで監獄の壁。町があのマンションの裏側になってしまう。わしとしては、最後まで反対の立場を貫きたかった。ただ、マンション建設を中止に追い込む、などというようなことはできっこない。それはわかっていた。なにせ町内会の会長が賛成の立場だから。反対というのは、自分の気持ちの問題だった。そういう人が大勢いたんだ」
生駒は佐久間の長い演説にうんざりしていた。
会うまでは、昔の良き時代の思い出話や、死んだ父親の思い出話などをするのかと思っていた。
しかし、そんな思い出話が、町を出た者が勝手に持ち続けている感傷的な郷愁であって、そこに住み続けている者にとっては、乗り越えるべきもっと切実な現実があるのだという、当たり前のことを思い知らされていた。
「ところで生駒さん、行武とはもう話をしたかな?」
「はい」
「あいつはあの事件のあったパーティの仕事を請け負っていたんだろう。なんとも皮肉なもんだな。実はあいつもマンション建設には反対だった。むしろ、最も強く反対したメンバーの一人だった」
生駒は黙って頷いた。
行武と飲んだ夜、そんな話は聞かなかった。
そんな話題を避けていたのかもしれないと思った。
「それがどうだ。工事が始まってからは、いいお得意さんができたと喜んでいた。で、結果は? 自分が段取りしたパーティで人殺しだ。しかも殺されたのは元はといえば町の人間。そして、いわば、自分の幼馴染」
佐久間が生駒に顔を向けた。
ちらりと見返すと、佐久間は手に持ったグラスに視線を戻した。
「あいつは近所でもいろいろ言われて、かなりストレスになっているようだ。もちろん、若槻さんが殺されたといっても、あいつにはなんの落ち度もないだろう。だが、ことあの工事について良く言う人はいないわけだ。その現場で金を儲けていた行武に、冷たいことを言う人もいるわけだ。言いがかりだけどね」
佐久間はずっと手にしたままだったグラスをカウンターに置き、初めて店内を見回した。
「行武は、かなり参っているのかもしれない。家に引きこもっているのか、最近は弁当を配達する姿を見かけなくなった」
「そうなんですか」
生駒も、あのパーティーの夜以降、行武とは会っていない。
現場が止まっていたし、行武食堂は現場の出入り業者からはずされている。
聞き疲れていた生駒は、それを口にした。
「ほう。それは知らなかった。いつから?」
「あのパーティの直前からです」
「ふーむ。それはその……、例の事件があったから、ということではないんだね?」
佐久間が少し不安そうな声を出した。
「関係ないですよ。ちょっと業者を変えてみようという軽い気持ちじゃないですか。毎日、同じ業者の弁当だとどうしても飽きるし」
「そう。それならよかった」
ホッとしたように言うと、また語り始めた。
「行武は、新しい現場所長が自分の幼馴染だということを知っていた。事件の後、わしにそう言った。あいつはそのことを隠していたんだ。若槻さんに口止めされたからだ、と言ってはいたが」
行武批判が始まりそうだったので、生駒は行武に代わって弁解しておこうという気になった。
「若槻さんが行武さんにそう言った、というのはわかる気がしますね。若槻さんは地元の人達に、自分の素性を明かしたくなかったんじゃないでしょうか。ああいう大きな工事の場合、近隣の方とはうまくやっていかなくてはならない一方で、馴れ合いというのも困るんです。どこでも地元の業者から、工事やさまざまな物品の納入を発注してくれという声がたくさんあって。あの現場でも、そういう申し入れが多くて困っていたんじゃないでしょうか」
生駒は織田工務店を意識しながら、思いつきのでまかせを言った。
「そんなときに、現場所長が地元出身者だということが広まれば、断りきれなくなるということもあるでしょう。いろいろ、昔ながらの力関係なんかもあるでしょうし」
佐久間がグラスの縁をツーと撫でた。
「ま、そういうこともあるでしょうな」
濡れた指先をお絞りで拭い、生駒に向き直った。
「ところで、若槻、織田、行武、そして生駒さん。皆さんでどんな話をされていたんですか?」
唐突な聞き方だった。
しかし棘のある口調ではなかった。
むしろ、微妙な不安感がにじみ出ているように聞こえた。
「四人で集まって話をしたことはありません」
「それぞれでは?」
「若槻さんとは仕事のこと以外は立ち話程度ですし、織田さんとはそういうことを話したこともありません。行武さんとは一度食事をしましたが、まあ、いろいろと昔話をしただけで」
生駒は、行武とした思い出話を二つほど紹介してみせた。
「そうだったねえ。確かに亀井の風呂屋の裏には、燃料用のおがくずがいつも山積みになっていたなあ」
拍子抜けしたように佐久間は肩を落としたが、ポツリと出た次の言葉に、生駒は耳を疑った。
「行武はあの夜、どんな様子だった?」
 




