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36 いつがいい

 夕方、生駒にはゼネコンとの打ち合わせが待っていた。藍原や織田工務店、中桜建設も参加していた。

 工事が中断している間も、生駒や藍原の書く図面は進捗していた。

 打ち合わせは比較的スムースに進んだ。進行役の大矢は、いつもなら冗談とも雑談ともつかない話を合間に挟んで、自分も含めて参加者をリラックスさせようという配慮をみせるが、後の予定が詰まっているのか、淡々と議事を進めていった。

 若槻の死の衝撃を今さらながら感じ始めていた生駒にとって、仕事のことだけに没頭できる打ち合わせの進め方はありがたかった。


 打ち合わせの後、生駒と藍原はロビーを通りかかった。事件の痕跡はすでに片付けられていて、なにも残されていない。

 坂本と石上が床の穴を覗きこんでいた。

「先ほどはどうも」と、藍原が声を掛けた。

「こちらこそ。それにしても一体全体、誰があんなことをしたんでしょうな。若槻さんのご家族も、さぞ悲しんでおられるでしょう」

 坂本が神妙なことを言ったが、顔は自分には関係ないことだという表情だ。

 藍原も一応のお悔やみの言葉を述べた。

「本当に。奥さんや子供さんはたまらない気持ちでしょう」

 石上が暗い気分を吹っ切ろうとするような、明るい声をだした。

「藍原先生は、お子さんはおいくつですか?」

「小学生が二人です」

「かわいいころでしょうなあ。生駒先生は? お嬢ちゃん、元気一杯で賢くて、かわいいですなあ」

「ええ」


 少しつっけんどんな言い方になった。

 石上は娘だと勘違いしているようだったが、訂正する気になれなかった。

 生駒は、彼らのやり取りが、儲かりまっか、ぼちぼちでんな、みたいな紋きり調の挨拶のように聞こえて、愉快ではなかった。

 若槻の死を悼む気持ちを、あっさりと流されたようにも感じたのだ。

 それに、同年輩の人から子供の話を聞くのは苦手だ。

 親しみを込めた罪のない話題ではある。親バカですがと言いながら、実は息子自慢をするような男はフランクで愛嬌があるとも思う。

 しかし、生駒のように五十を過ぎてなお独身を通している者にとっては、特にありもしないその理由を詮索されているようで、できれば避けて通りたい話題なのだ。


 それでは、と二人が立ち去った。

 藍原は坂本達と話があると、後を追っていった。

 入れ替わりに香坂が通りかかった。

「先生、すみませんでした。メールの返事を出さなくて」

 生駒は、香坂にメールで図面の指示をしたついでに、若槻事件が進展したかどうかと聞いていた。

「なかなかああいう話、メールではしにくくて」


「そうだね。で、どう? 状況が全くわからなくて。さっきの打ち合わせでも、捜査状況の説明はなかったし」

 香坂が、声のトーンを落としてささやいた。

「先生も、やはり気になります?」

 探るような目で見つめてくる。

 興味本位でないかどうかを測っているのかもしれない。

 生駒は、黙って頷いた。

「すみません。鈴木さんが勝手なことを言いふらすな、とおっしゃっているものですから」

 香坂が小さく肩を落とした。

「そうだろうね」

「でも、私もなにも知らないんです。大矢さんに聞いてみられたらどうですか?」


 生駒は今朝、現場の新しい体制を聞いたときの、大矢の不機嫌そうな様子を思い出した。

 しかし、大矢が自分と同じように、若槻の話題に慎重になっているからだと解釈しようとしていた。

 先ほどの打ち合わせの進め方もそれを物語っているし、今でも大矢だけが若槻を現場所長と呼んでいることも知っていた。


「彼が第一発見者ですし、若槻さんを信奉していた人ですから」

 香坂が軽く笑みを作って見せた。

「警察からなにか進捗を聞いているかもしれません。あっ、携帯で連絡した方がいいですよ。鈴木さんに知られると彼も困るでしょうから」

 そうすると言って、監理事務所に戻ろうとする生駒を、香坂が引き止めた。


「もし、お会いになるのでしたら、私も参加させていただけませんか。決して遊び心で言っているのじゃありません。会社のみんなの動きを見ていると、なんだかいても立ってもいられなくて」

 生駒はその場で大矢に連絡を入れた。

 すぐに大矢は事務所から出てきて、黙って生駒を手招きした。

 三人はマンションの裏手に回り、建物の端に設けられた地下駐車場へ通じる斜路を降りていった。


 地下駐車場は薄暗かった。

 天井に多くの配管が張り巡らされているだけで、なにもない空間が続いている。コンクリートの太い柱が林立しているだけだ。誰もいなかった。

「ここだと、気兼ねなく話せます」

 大矢がようやく口を開いた。

 生駒は前方を透かして見た。

 一箇所だけ外の光が入っているところがある。

 ロビーの床に空けられた穴の下。

「若槻所長はあそこに倒れていました」


 大矢と香坂は人に見られるのを避けるように、そのぼんやりとした光の中に入ろうとはせず、柱の陰にたたずんでいた。

 生駒は穴の下まで行き、若槻が倒れていたという床を見つめた。

 今朝、洗われたのだろう。

 わずかな水分が残っていた。

 それ以外になにも発見はなかった。

 上を見上げた。

 気を引くものはなかった。

 一階床スラブから突き出た数十本の鉄筋。そして四周に回った一階ロビー及び二階ラウンジの落下防止柵が見えた。

 それ以外に見えているのは、二階と三階の床スラブの底だけ。

 コンクリートばかりの灰色の世界。


 大矢が戻って来いというジェスチャーをしていた。

 上のロビーを、誰かが歩いてくるけはいがした。

 柱の陰で、大矢が若槻を発見したときの様子を話し始めた。

 地下駐車場は蒸し暑く、生駒は慣れないネクタイを緩めた。



「そうですか。あそこは血の海だったんじゃないですか? 清掃するのが大変だったでしょう」

 生駒は、ぼんやりと光の落ちている辺りを見ながら言った。

「いえ、それほどではありませんでした。所長の頭の下には小さな血だまりができていましたが、他はあちこちに飛び散っていただけで」

 香坂はコンクリートの床を濡らしている水分が血だまりに見えるのか、両手で口と鼻を押さえ、眉を寄せていた。


 生駒は、若槻が首に長いロープを巻きつけた姿で、無残に頭を割られ、血を飛び散らせて倒れていた様子を思い描こうとした。

 しかし、周りの景観があまりに無機的すぎ、モノトーンな色調の中に置かれた鮮血の赤をイメージできないでいた。下衆なアドベンチャーゲームのプロローグのように、リアリティを持てないでいた。


 大矢が口を引き結び、ポケットの中に突っ込んだ手を動かしていた。

 生駒は何か言わなければと思ったが、言葉が出てこなかった。

「生駒先生」

 大矢の言葉に、熱がこもっていた。

「午前中は失礼しました。なぜ僕が今、詳しくお話ししたかというと、いうまでもなく犯人が早く捕まって欲しいからです」

 大矢の目が、ぴたりと生駒を捉えていた。


「若槻所長と親しかった生駒先生なら、犯人逮捕に結びつく情報をお持ちかもしれないと思ったからです。事件からもうひと月も経っています。警察はパーティの参加者全員から事情聴取したそうですが、それ以降、目立った動きをしていません。手をこまねいているんじゃないかと思うんです」


 事件が解決して欲しいと思う気持ちは同じだ。

 ただ、期待されても困る、と生駒は思った。

 こうして大矢の説明を聞いているのは、興味本位ではない。若槻を悼む気持ちも日増しに強くなっている。

 しかし、自分になにができるというのだ。

 たかだかふた月ほど前に三十年ぶりの再会をしただけの自分が、どれほどの役に立てるというのだ。

 大矢の思いの熱さに応えられないまま、単に首を突っ込んだだけという結果に終わるのは目に見えているではないか。

 生駒はそう考え、大矢の呼びかけに応えられないでいた。


 香坂と目が合った。

 大矢にも勝る真剣なまなざし。

 生駒は、香坂と大矢を順に見つめ返した。

 ここでこうして大矢の話を聞き、事件の現場を見に来たことに後悔はなかった。

 自分にできることがあるのではないかという、かすかな気持ちもある。

 ただ、そう考える根拠があるわけではない。

 しいて言うなら、若槻と少年時代の一時期、この地で共有した時間があるという思いだけ。


 若槻が殺されたことを聞いた後でも、わずかな悼みを感じただけだった自分に、徐々に変化が生じ始めていることはわかっていた。

 特に、仮囲い一枚隔てた神社の裏で、正体不明の動物の石像に跨った幼かった自分と、若槻のモノクロ写真が、実家の古びたアルバムに貼ってあったことを思い出してからは。


「僕が若槻さんを殺した犯人に結びつく情報を持っているとは思えない。しかし、考えることはできる。それは大矢さんも同じ。むしろ、大矢さんこそできるんじゃないかな。いつも若槻さんのそばにいたんだから」

 大矢がきっぱりと言った。

 声の中に思いつめた様子があった。

「はい。僕なりに考えていることはあります」

「えっ! 誰なんですか?」

 香坂が、地下に降りてきてから初めて口を開いた。

 大矢はそれを無視した。

「さっき、上をご覧になったとき、なにが見えましたか?」

 生駒は見えたとおりのものを言った。

「その手すりのことなんですが」

 大矢が警察の現場検証の痕跡を説明した。

「もう、それらもすべて消してしまいましたが。今から見に行きましょう。位置はお教えできます」

 三人は地下駐車場を出た。



「ここです」

 幸い、二階にも人はいなかった。

 大矢が話しだした。

 白いマークとこびりついた血。

 そしてゴミ箱が空になっていたこと。


 生駒は説明を聞きながらも、ここでも反応のしようがなかった。探偵の真似事をしていることに再び違和感を覚えた。

 黒井の転落事故の後、柏原や優と推理ごっこをしていたときの後ろめたさが甦ってきた。

 俺は、なにを考えようとしているのだろう。

 犯行の手口をか。

 そんなことがわかっても、どうなるというのか。

 いわゆる犯人や、動機や、事件の全貌がわかるとでもいうのか。

 すでに警察は犯行時の状況について、結論を出していることだろう。

 俺は内装デザイナーとしてここで仕事をしている。こんなことをしているところを誰かに見られて、これからの仕事に支障があるのではないか。

 そんなことが頭に浮かんで、生駒は逃げ出したい衝動に駆られた。


 大矢に廊下の端に誘導され、ここにもマークがあったという説明を聞きながら、生駒は意識的に自分の弱気を押さえ込もうとした。

 大矢は声を落とそうとはしていなかった。

 先ほどまでの気の使いようとは違って、もはや誰に聞かれようともかまわない、という声だった。

 生駒は周りを見渡した。

 そして歩き回った。

 印と印を結ぶライン上に立ってみた。

 穴を覗きこみ、ゴミ箱の中を確認し、しゃがみこんでマークのあったところを見つめ、天井についた血の染みの場所を見つめた。

 大矢と香坂が、生駒の後ろを黙ってついてきた。

 生駒はやがて顔を上げた。

 大矢と香坂は、生駒がなにかを言うのを待っているようだった。


 やがて香坂が提案してきた。

「先生、今度、ゆっくりお会いしませんか。ねえ、大矢さん。今日の話の続きをしたいんです。先生が今お考えになっていることも、お聞きしたいんです」

 ふたりの間で、そんな話をすでにしていたのだろう。

 大矢も躊躇なく頷いた。

 生駒はにこりと笑った。

「いつがいいですか」

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