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35 洗濯物がはためく脇で

 黒井は大矢の顔を見て喜んだ。

「どうや。退屈してるか?」

「死にそうですよ!」

「あんまり縁起でもないこと言うなよ。近頃はなにかと物騒や」

 黒井がばつの悪そうな顔をした。


 大矢は見舞いに持ってきたシューアイスの紙箱を開けた。

「冷凍庫はあるか? なけりゃ、同室の人に配ってくれ。たくさんあるから」

「ありがとうございます。ところで、もう捕まりましたか?」

「いや、まだ」

「いろいろ噂は、出ているようですね」

「なんや。あんなつまらん話。おまえも聞いてたんか」

「つまらない話かどうかは別にして、僕の情報網はすごいですよ。現場が再開したことも知っているし、今度の人事のことも」

「あんまりそんな話は、聞きたくないな」

「そうですね。僕も聞いたところでなんの得にもならない。でも、いいんですか。こんな時間に出てきて。まだ五時ですよ。仕事中でしょう」

「気にするな。すぐに戻る。ところで、おまえの情報網では、中田部さんの静岡転勤と白井さんの九州転勤が同じ時期に重なったことは、どう出てるんや?」

「占いじゃないですよ。僕の情報網は」


 そうは言ったものの、黒井はどう応えようか迷っているようだった。

 ただ、知らないとは言わなかった。

 ベッドの横に、松葉杖が立て掛けてあった。

「ようやく、それで歩くのに慣れてきたところです。ちょっとお茶にでも行きますか。近くに静かでいい喫茶店があるんです」

「ほんとかよ」

「冗談。病院の屋上に行きましょう。風があって、いい気持ちですよ。よく行くんです。なんと、現場が案外すぐ近くに見えるんです」

「すまん。これからはちょくちょく見舞いに来る」

「まさか。おっちゃんの見舞いは時々がいいんです。さ、行きましょう」

 屋上は確かに見晴らしがよかった。

 金剛山の裾野が広がっているのがよくわかる。

 松並町の現場が、まだ高いところにある太陽の逆光になって、幾分青みがかった墨色をしていた。


「さっきの話やけど」

「中田部さんや白井さんの転勤が、若槻さんの事件とどんな関係があるんです?」

「関係はないかもしれん。しかし、あると考える方が自然やないか? 大阪支店にお鉢が回ってきたいきさつにも関係している、と考えるのが普通やろ」

 黒井は黙っていた。

 大矢はストレート勝負でいくことにした。

 ここでの発言が行き過ぎであっても、たいしたことじゃない。


「俺が考えてることを言おうか」

 黒井が大矢から目をそらして、景色を眺め始めた。バイパス道路は夕方の渋滞時間に差し掛かったようで、長い車の列が見えていた。

 大矢もその車列を見ながら手すりにもたれた。

「ナチュレガーデンの工事を受注するとき……」

 キックバックがあったのかもしれないという話をした。


 黒井は黙って聞いていた。

 話の最後に、大矢は黒井の関心を引こうとした。

「おまえの事故も関係しているかもしれないぞ。あの事故以来、羽古崎さんは定例会議に出て来なくなったそうだ。なにかを恐れているようにな」

 予想通りの反応があった。

「羽古崎課長が……。そうなんですか……」

「自分も狙われると思っているのかもしれないな。そして若槻所長が殺された。これは偶然か?」

 黒井が一呼吸置いて、意外にもあっさり話し出した。

「ご想像は図星です」、と。


 三都興産の秘書部に、匿名の電話があったのは、五月の末だったという。

 電話の内容は、大和高田のマンション新築工事の受注にあたって、ハルシカ建設の加粉から中田部個人に金が流れたと思われるので調査されたい、というものだった。

 男は、織田建設経由で金が渡ったことも示唆した。

 社長から指示を受けた羽古崎は、中田部の周辺を探り、中田部の自宅が改装中であり、その工事を織田工務店の下請け業者である中桜建設が施工していることを知った。

 三都興産の上層部は、直ちにハルシカ建設社長の益田に連絡をとった。

 そして互いに協力して秘密裏に調査し、告発が万一事実であれば双方の関係者をきちんと処罰することを申し合わせた。

 三都興産側の調査員は三木と羽古崎、ハルシカ建設側は本社総務部長の井川と黒井に決まった。


「僕がそのメンバーに指名されたのは、益田社長が三都興産との関係を考えてのことです」

「ああ」

「つまり、最悪の事態を避けるために、社長は僕を選んだってことでしょう。三都興産へのパイプ役という意味も込めて」

「まあな」と、大矢はあいまいに相槌を打った。

「正直言って、面倒なことに巻き込まれてしまったな、と思いましたよ」

 適任じゃないか、と大矢は話の先を促した。


「なぜ僕が適任なんですか。ま、でも調査部隊といっても、たいしてなにもすることはなかったんです。益田社長が直接、加粉本部長と阿紀納部長を追及されましたから」

「へえ」

「実は僕が今話したことも、社長と井川部長のやり取りを横で聞いていただけのことです。僕がした調査らしいことといえば、契約書類や伝票類を調べたりしたことだけです」

「ふうん」

「勘違いをしないでくださいよ。僕は好き好んで、スパイ行為まがいのことをしたわけではないんです。社長からの特命でしたから、断りようがなかったんです」

「そんなことは誰も気にしていない。心配するな」

「はい。それで益田社長に追及された加粉本部長は、中田部本部長に便宜を図ったことをあっさり認めました。続いて中田部本部長の方も」


 大矢の推理は、的を射ていたのだ。

 そして黒井の態度を見て、この男に話すという冒険的行為が悪い結果を生みそうでないことにも安心した。

「所長はそのことを知っていたんか?」

「は? 若槻さんが? いえ、僕からは。その……、例の派閥のこともあるし。そういうことに関わるのは本当にいやだったもんですから。それに、井川部長からは、誰にも洩らすなと堅く言われていましたし」

「所長に話さなかったことを責めているんやない。大切なことは、不当なことをしたやつがどう罰せられるかで、それを明らかにした功労者であるおまえをどう守るかや。ところが守られなかった。おまえは、危うく命を落とすところやった」

 そう言いながら、改めて黒井の事故は偶然ではありえない、という思いが強くなってきた。

 黒井も、大矢の刺激的な解説に驚く様子はない。

 やはり自分でも、そう感じていたのかもしれない。


「僕が転落したとき、織田さんが後ろにいました」

「ん? どういう意味や?」

 わかりきったことを聞いてみた。


 黒井は、織田なら足場板をはずしておく細工ができたと言っているのだ。

 しかし黒井はさすがに、はっきりとは口にしない。

 二人はしばらくの間、黙りこんだ。


「警察は、僕の件も再捜査する気でいるんでしょうか」

 ぽつりと言う。

「さあ」

 干された洗濯物が風にはためいている。

 それを取り込みに来た女性スタッフが軽く会釈をした。


「いや、もちろんそうするやろ。キックバックの件が警察の耳に入っていればな」

「……」

 黒井は黙っている。

 警察がその情報を掴んでいるのかどうかと、考えているのだ。

「話を戻そう。実際の金の流れはどうなってたんや? まさか、封筒かなにかに入れて、現生を渡したんか?」

「さあ。それは知りません。しかし、織田工務店を通じて金が流れたことは確かです」

「中田部か加粉が、吐いたんか?」

「いえ。僕が井川部長から指示されたのは、織田工務店がらみの発注で不審な点がないかどうか調べろ、ということでした。発注伝票や見積書のコピーをたくさん渡されて」

「なるほど」

「で、見つけました。裏の神社の植栽工事。知ってますか?」

「ああ、地元対策工事な」

「あれは織田工務店への発注です。工事量に比べて多額の発注金額になっていました。確か、千三百八十万円。あの植栽工事はそんなにかからないでしょう」

「うむ」

「せいぜい二、三百万もあれば十分です。ああいうのは操作しやすいですからね。工事量を水増ししていましたし、植木のスペックも違っていました。誰もわざわざ確認に行きませんから、普通ならばれることはありません。その差額、一千万円ほどが中田部本部長へ流れたんです」

「一千万……」

「実際にはいくらだったのか、僕は知りません。そうじゃないかと井川部長に報告するまでが、僕の仕事で」

 大矢は腕を組んだ。

 目の前が明るくなってきたように感じた。自分の推理はいい線をいっていたのだ。


「織田工務店と中桜建設か」

「つまり、織田工務店経由で、中田部邸の改修工事の金が出たということです」

「キャッシュは?」

「そこまでは知りません」

「要するに、社長は、加粉の身代わりに白井を弾き飛ばしたということやな。もしかすると、この件は社長も了解の上のことやったのかもしれないな」

「かもしれませんね」

「白井は、自分がとんでもない濡れ衣を着せられた、ということを知ってたんやろか」

「さあ」

 転勤の挨拶をしたとき、白井は病気のことを聞かれたくないという反応をした。誰でも、自分の病気のことは他人に聞かれたくはない。

 しかしあの反応は、自分が身代わりだと知っていたからだとは考えられないか。

 そうに違いない。

 しかしそうだからといって、新しい事実が判明する突破口にはならないが。


「織田工務店の誰が仲介役になったんや?」

「仲介役? それは聞いていません。現場に来ているのは織田部長だけですけど」

「こんなことがあっても、織田工務店は出入り禁止にはなっていない。いくら加粉や白井のお気に入りの業者やとしても、これは変やな」

「ええ。でも、織田工務店というのは近隣の有力者の関係会社だそうです。そういうことじゃないですか」

「その地元有力者が請負契約を仲介し、自らも何らかの受注をする。ふん、極めてありがちな話や」


 大矢は、黒井の口が滑らかなうちにすべてのことを聞きだしておこうと、先を急いだ。

「匿名の男が誰だったのか。これは?」

「知りません。結局わからないままじゃないですか。僕は関わり合いになりたくない、そんな一心でしたから、突っ込んでは聞いてないんですよ」

「情報通のおまえとしては、片手落ちやな」

 大矢と黒井は互いににやりと笑った。

「ま、そうですね」

 大矢は唸った。

 と、新しい考えが閃いた。

 若槻所長が……、まさか。

 そう思ったとたん、若槻が殺されたことと、キックバック事件を結ぶ線が見えたように感じた。

 若槻がもし、キックバックがあったことを知ったなら、彼はどうしただろうか……。


 そして、若槻は殺された。

 その理由は……。

 もしキックバックを知ったことが原因で殺されたのなら。

 黒井の転落事故もそれが原因なら……。

 また狙われてもおかしくはない……。


 背後でなにかが動くけはいを感じた。

 思わず後ろを振り返った。誰もいない。ハトが手すりに止まっているだけだった。

 夏の暑い日差しの中で、大矢は寒気を感じた。

 気が付くと、背中に汗をかいていた。


 黒井が大矢の動揺に無頓着に言った。

「匿名電話は、若槻さんだったのか……」

 黒井が手すりを握っている手を開き、手の平の汗を確かめるように見つめた。

「可能性がないとは言えませんね。あのときはそんなことは考えてもみなかったんですが、今にして思うと、可能性はあったんですよね」

 大矢は頷いた。

 なにしろ若槻は地元の出身者なのだ。織田工務店と接点があっても、おかしくはない。

 黒井もそのことに気がついたのだ。


「織田家というのは松並町の旧家だと聞いています。実は、うちの現場に来ている織田部長。あの人はその織田家の跡とりだそうです」

 黒井はここまで言って、口をつぐんだ。

 その先を口にするのははばかられるのだろう。

 若槻を殺した容疑者、そして自分をマンション現場の八階から転落させた犯人を名指しするようなものだ。

 大矢は黒井の無言を、そう理解した。

 しかし、大矢の頭にはもう一人、違う人間の名前が浮かんでいた。

 ただ、大矢はその名を口にはしなかった。黒井の饒舌を中断させる必要はない。


「他に誰か、このことを知っているやつはいるか?」

「さあ……。いないんじゃないでしょうか。少なくとも僕は、大矢さん以外にこんな話をしたことはありません」

「ああ。絶対にするなよ。しかし契約時に、相当激しいやり取りがあったそうや。神社の植栽工事も、その気になってみればおかしいと気がつく。なにしろ、その伝票を切ったやつがおるんやし」

「でも、そういうことを言い出すと、現場の連中はみんな怪しくなってしまいますよ。鈴木さんも根木さんも」

「怪しいって、どの意味で?」


 受け取る側の中田部はとにかく、加粉には共犯者がいたと考えるのが常識的だ。

 仕事は加粉ひとりで流していけるものではないからだ。

 仲介役も、ひとりではなかったかもしれない。

 一方、キックバックを告発した者もいる。

 そしてそれを秘密裏に処理したい者がいて、あるいは今以上の秘密が公にならないように黒井を殺そうとし、若槻を殺した者がいる。

 大矢の頭が熱くなってきた。


「裏金の存在に気がついたという意味で」

 黒井は、思ったことをあっさり口にしている。

「織田工務店への発注内容を見て、裏金の臭いに気がついたとしても、それだけでは中田部が横領をしたという真相にまでは行きつかない。匿名の電話は中田部という名前を出したんやろ? 全貌を知っていたやつか、織田工務店以降の金の流れを知りうる立場のやつやな……」

 再び沈黙が流れた。


 黒井は手すりの上に両手をのせ、その上にあごをのせていた。

 手すりに立て掛けた松葉杖に巻かれたガーゼが真新しかった。

「疲れたか?」

「いいえ。ちょっと言いにくいことなんですが……」

「かまうことはない。言え」

「はい……。若槻さん自身の不正が絡んでいるのかもしれないな、と考えていたんです」

「えぇっ!」


 大矢は黒井に向き直った。

「どういうことだ!」

 黒井が目をそらすように、ナチュレガーデンの現場を見た。

「いわゆる空伝票。飲み屋の」

「なに!」

 大声になった。

 黒井は現場に目を据えたまま、落ち着いていた。

「たいした額じゃないと思いますよ。それに、うん、やはり関係ないですね」

 大矢の脳裏に、ラウンジ・セピアのママの顔が浮かんだ。

 そして、ママと黒井の関係も。

「どういうことなんや」

「すみません。関係ないですね」

 黒井はそれ以上、このことについて話そうとはしなかった。

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