34 コンビニの親父
生駒は立ち上がった。
石碑がどこに建っていたのか。
それだけが正確には思い出せなかった。神社と水路の間、道端のどの辺りだったのか。今でいえば仮囲いの中か、あるいはマンション工事に合わせて少々広くなった商店街の道のどこかだったのか……。
周りを見渡した。
道標が目に入った。
若槻が寄稿文に書いていた道標。
道の向かい、シャッターの下りた店舗の脇。何年もそこに置かれたままであるかのような、不動産屋の箱型の古臭い看板の陰に隠れて立っていた。
不意に、死んだ少女の名前を思い出した。
隆子。
さらに記憶を辿った。
少女の兄の名は靖男。
三つほど年上の、おとなしい少年……。
自転車に乗った小学生達が、大声ではしゃぎながら、猛スピードで走り抜けていった。
もう夏休みか。
子供がなく、電車通勤もしていない生駒は、普段そんなことを実感することはなかったが、ふとそんなことを思った。
道標から目をそらし、石柵の丸みを帯びた頭に手を載せた。
冷たい感触を確かめると、鳥居に掛けられた犬見神社と書かれた額をちらりと見上げて、境内に入っていった。
石畳は昔のままのようだ。
しかし、ここでも戸惑ってしまう。
綾と夜に通ったところではあるが、昼間に見ると、記憶にある光景との違いがあまりに大きすぎた。
遠くからでもすぐにそれとわかった、暗くうっそうとした参道の杜はどこにもない。
石畳の横に何十年にも渡って降り積もり、あらゆる幼虫の寝床であり巨大なミミズの生息地であったふかふかの腐葉土は完全に失われ、今は踏み固められたむき出しの土がねっとりと黒光りしている。
小学校の二階の窓から見えていた神社の木々の、成れの果てを見上げた。
クスの巨木が、頂部に鉄のキャップを被せられたまま、まさに枯れ果てようとしている。
かつて力強く腕を伸ばしていた太い枝は打ち払われ、体をくねらせただけの不細工な一本柱のような無様な姿を晒している。
記憶にある、藁で作られた立派な注連縄は既に巻かれてはいなかった。
石段を三段ほど上がり、賽銭箱に百円玉を滑り込ませ、かつんという音を確かめると、建て込まれた板の扉に顔を近づけた。隙間から井桁に組まれた元々の扉が見える。
暗闇に目が慣れるにしたがって、中の様子が見えてきた。
かつて、巫女が剣や鈴の舞を演じた板張りの床は、何年にもわたって清められたことがないように埃が積もっている。
隅には古びた木の箱などが積み上げられ、クモの巣がまとわりついていた。内陣の扉も固く閉ざされ、もう、夏祭のときにも開かれることはないのかもしれない。
生駒は、遠くへ過ぎ去った時の流れを感じ、自分も今は完全に余所者なのだという感覚にとらわれた。
社を離れ、裏手に回った。
社の裏にはまだしも大きな常緑の木々が茂り、その杜の中程には樹高二十メートルはあろうかという大きな一本の神木。
大蛇が住むと言われたイチョウ。
木漏れ日の落ちるところには、蛇イチゴがぱらぱらと生えている。
参道側に比べると、裏側はまだ昔日の面影をかろうじて残しているようで、生駒は少し落ち着いた気分になった。
奥にはレンガ造りの背の低い塀が巡らされている。塗りつけられた白いモルタルが剥げ落ちているが、これも昔のままのようだ。墓地の背景としての記憶があった。
塀の上から背後に植えられたウバメガシの生け垣の頂部が見えている。
塀に穿たれたくぐり口を抜けて、小道が神社の裏側、村の墓地に通じているはずだ。
イチョウと並ぶ巨木クスノキ。
その根元。石柵の中。
そこには昔と同じように、小さな石の祠が祀られてあった。
シダに覆われた境内の隅は、小山のようになっている。その場所に、正体不明の動物をかたどった石像がうずくまっていた。
生駒はしゃがみこんで、その苔むした石像を眺めて微笑んだ。
犬ほどの大きさで、熊のような愛嬌のある顔をしている。
記憶にあるのと同じ顔……。
苔の感触を確かめるように、石像の頭を撫でてみた。
と、足音がした。
振り向くと、薄緑色の作業服を着た男が、杜の中を足早に通り過ぎていく後ろ姿が見えた。
墓地に向かっていく。
不意に、何十匹ものセミの声が盛大に降り注いでいることに気がついた。
石像を撫でながら、生駒はいつしか、とうの昔におぼろになってしまった若槻や行武らの少年時代の面影を、記憶の底から探り当てようとしていたのだった。
ゆっくりと立ち上がり、こわばったひざをさすり、タオルハンカチをポケットから引っ張り出して、玉になった額の汗を拭った。
なんとなく、墓地に入っていった男を目で追い、男がひとつの墓石の前でしゃがみこむのを見た。
「えっ、生駒延治君?」
佐久間伸一郎は、目の前に立った生駒の顔を、眼鏡の奥から覗き込んだ。
「おじさん、お久しぶりです」
佐久間が眼鏡に手をやった。
「いやあ、本当だ。お父さんのお葬式以来だから、かれこれ三十年ぶりかな。来てくれてうれしいよ。どう? 元気にやってる?」
はにかんだような笑みを浮かべ、佐久間は髭面を撫でた。
松並商店街の中にあるコンビニエンスストアには、まずまずの客が入っていた。
といっても、他の店に比べてという意味だ。元々は酒屋だったものが、今はフランチャイズのコンビニになっている。
佐久間は生駒の父親の親友だった男で、家族づきあいをしていた。
もしやと思って店に入ってみると、まさしく佐久間伸一郎自身がレジの後ろに陣取っていたのだ。
「繁盛してますね」
「いやあ、だめだめ。幹線道路沿いじゃないんで、こつこつ働いて、なんとか食いつなぐ程度の売り上げしかない」
「いつからコンビニを?」
「十二年ほど前」
佐久間が、フッと悲しげな顔をした。
「ところで、君はどうしてる? 今日はこの近所に、用でもあったのかい?」
生駒はマンションの現場に来ていることを話した。
「ふうん、そうか。この辺りも変わってしまっただろ」
「そうですね。自分の家がどこにあったのかさえ、わからないかと思いましたよ」
「ハハハ、行ってきたのか。そうだろ。特にあの辺りはすさまじい変わりようだ。風呂屋もなくなったし、集会所も別のところに移設された」
「ええ。目印になるものがなくて。この前の道をとにかくまっすぐ行けばいいはずなのに、新しい道ができていたりして距離感がつかめなくて」
生駒は、久しぶりに楽しい気分で笑ったような気がした。
「でも、うちの家のあったところがあんなに広い道になっていて、風呂屋がパチンコ屋になっていたのにはびっくりしましたよ」
佐久間がニヤリとして、生駒の言葉を訂正した。
「正確にいうと、君の家があったところがパチンコ屋で、風呂屋だったところが道路になったんだ。どうだい? 故郷は?」
生駒は正直に言うとすれば、村の輪郭さえも明確でない、単に埃っぽいだけの住工混合地域になってしまったことに失望を感じていた。
自分の仕事がその変化の一端を担い、かつ促進しているということもわかってはいながら、軽い憤りを感じないではいられなかった。
「あっ、ちょっとごめん」
アルバイトらしき若い女性が担当しているもうひとつのレジの前に、客が溜まっていた。
佐久間がレジにキーを差し込んで、こちらへどうぞ、と客を呼んだ。
生駒は名刺を取り出して、佐久間が客に釣り銭を渡すのを待って差し出した。
「お忙しいようですし、今日はこれで失礼します。また寄せてもらいます」
「ああ、すまんね。そうしてくれるか。僕からも連絡するよ。今度はどこかでゆっくり話でもしよう」
レジの横においてあったポーチから、佐久間が名刺を取り出した。