プロローグ2-2監理事務所
羽古崎の携帯電話が鳴った。
やれやれ、と肩をすくめて車を路肩に寄せた。
連絡はハルシカ建設からで、今日の会議を急遽中止したいというものだった。
定例の会議が直前になって中止になったからといって、羽古崎は気分を害した様子でもない。むしろ、さもありなんという調子で電話の相手と話していた。
「生駒さん、どうされますか?」
「行きますよ、現場に。せっかくここまで来たんですから。羽古崎さんはどうされます? できれば現場まで、送っていただけるとありがたいんですが」
「もちろんです。私も参ります。副所長と話したいこともありますし。それじゃあ、急いでいくこともない。ゆっくり食事ができますね」
と、のんきな調子だ。
「最近、情けないことにどうも中年太りでね。先日もたんすにしまいこんであったズボンをずいぶん処分しました。いつのまにか、どれもこれもきつくなってしまって」
「いやいや、羽古崎さんがうらやましいですよ」
生駒は墨色のTシャツの上から、腹を撫でた。
「生駒さんもスリムじゃないですか」
「腹だけがね、ぷっくりとしてきて。夏になるまでにはなんとかしようと思うんですが。毎年今頃、同じことを言ってます」
そんなおしゃべりをしながら、車はさらに南下を続けた。
5月だというのに、日差しは初夏。
助手席の窓から吹き込んで来る風が、腕の毛をなびかせていた。
工事現場は遠くからでもすぐそれとわかった。あたりに高い建物はない。
羽古崎はガードマンに会釈して、現場の駐車場に乗り入れた。
男が近づいてきた。
アイロンの効いた汚れのないベージュ色の作業服を着ている。背はさほど高くはないが恰幅のいい男で、赤ら顔ににこやかな笑みを浮かべていた。
「ご苦労さまです。今日は勝手を言いまして、すみませんでした。所長が急用で本店に行くことになりまして」
渋みの効いたバリトンで、悪びれる様子もなく、お昼はすまされましたか、などと聞いている。
現場所長が急用で欠席しても、定例会議は予定通り開かれるものではないのか。だからこそ定例会議というのだ。と、生駒は羽古崎の代弁をしてやりたかった。
「ええ、そこの花鯨で」
ところが、羽古崎も定例会議が流れたことにこだわりはなく、直前のキャンセルというゼネコンの対応にも、さほど不満はないようだった。
「羽古崎課長はあそこ専門ですなあ」
確かに今はまだ昼休みだ。
とはいえ、生駒と同じような年代のこの男にとっては、会議より昼飯のことの方が重要ごとなのか。ふたりの会話には現場のピリッとした雰囲気はなく、どことなくのんびりとした、言い方を変えれば馴れ合いが感じられた。
「現場の弁当をいただくこともありますよ。生駒さん、ご紹介します」
羽古崎がようやく話題を変えた。
「ハルシカ建設の鈴木課長、現場の副所長です。こちらは、インテリアの設計をお願いしているモノ・ファクトリーの生駒さんです」
「生駒です。はじめまして」
鈴木は名刺を受け取ると、無造作に横分けにしたまだ豊かな髪を揺らせて、軽く頭を下げた。
「今、名刺の持ち合わせがありませんので後ほど。今日から来ていただけるんですか。それはご苦労さまです。まずは現場をご案内しましょうか?」
「ありがとうございます。ですが、ひとりで大丈夫です」
「まあ、そうおっしゃらずに。私は今ちょっと、ご一緒できませんが」
と、近くにいた三人の男達に声を掛けた。
「ちょっと頼まれてくれるか! 誰か、この方をひととおり、ご案内してくれ」
下請け業者のようだ。
淡い緑色の作業服を着た男が二人と、グレーの作業服を着た男が一人。
緑の方のひとりが、手に持った白いヘルメットを白くなった頭にかぶりながら、早足に近づいてきた。
いかにも現場で鍛えられたようながっしりとした長身の男だ。
よれよれの汚れた作業服に、折り目の跡形もない作業ズボン。褐色の陽に焼けた肌に、剃り残しの無精ひげ。混雑した駅の構内で突き当たりそうになったら、避けて通りたいタイプ。
しかし男の目には、人なつこそうな笑みが浮かんでいた。
「内装関係の施工を担当してくれています。生駒先生がこれから、最も頻繁に打ち合わせをされることになる相手です」
羽古崎がプレハブの現場事務所の二階を指差した。
「生駒さん、監理事務所は左端です。それじゃ、また後ほど」
羽古崎は鈴木と話したいことがあるらしい。
ちょっと、と声を掛け、二人で駐車場の隅に向かって歩きだした。
目の前に立っている男の作業服の胸、左ポケットの上に中桜工業石上靖男と黒い糸で刺繍されていた。
生駒は、事務所に荷物を置いてくるので少しここで待っていて欲しいと頼んだ。
鉄製の急な階段の手前に敷かれたマットの上で力強く足踏みをして、靴に付いた泥を丁寧に落とした。
マットの金網がガチャガチャと音をたてた。
いよいよ現場に乗り込んでの監理の仕事が始まる。
生駒はこういうときに感じる、晴れがましいような、身の引き締まるような緊張感を愉しみながら階段を登った。
二階にはゼネコンの事務所があり、工事現場が一望できる廊下が続いている。一番奥、反対側に降りる階段の手前が、生駒たち設計事務所が詰める監理事務所だ。
廊下に面したガラス窓越しに、ゼネコンの事務所を覗いた。スチール机が並んでいる中に人の姿があった。
昼休みであるせいか、なんとなくのんびりとした雰囲気だ。
生駒は、歩きながらひとりの女性の姿を探した。
香坂さゆり。
生駒が数年前、大阪にある建築専門学校の講師をしていたときに生徒だった女性。
以来、数カ月おきに来るメールで、この現場でCADオペレーターとして働いていることを知っていた。
しかし、香坂の姿はなかった。
駐車場の方に向き直って、緑色のメッシュシートに覆われた工事中の建物を見上げた。
三都興産とハルシカ建設のロゴマークがそれぞれ印刷された、大きな布が貼り付けてある。
視線を下げてきたとき、石上がぺこりと頭を下げた。
生駒はあわてて廊下を進み、ガラスの引き違いドアに貼り付けられた白い樹脂製のプレートを確かめた。
「ナチュレガーデン大和中央新築現場監理事務所」と黒いゴチック文字で書かれてあり、その下に日晃設計とモノ・ファクトリーの名前が小さく記されてあった。
中に日晃設計の藍原が座っていた。
事務所は狭いながらも整頓されていて、今日までひとりで部屋を使っていた藍原の人柄が表れているようだった。
スチール机が二つ横に並べられ、作業用のテーブル、図面ラック、ドアノブなどのサンプルが置かれた木製棚、ファックスやコピー機、収納棚などが整然と置かれていた。
壁には汚れのないホワイトボードや予定表が架けられていて、今日の欄には第四十回現場施工定例会議、生駒氏参加と書かれ、その横に赤い文字で中止と書かれてあった。
藍原信司。
日晃設計大阪設計部住設計課課長。生駒より少し年下の四十代半ば。
生駒は藍原に挨拶を済ませると、電話機が置かれただけの真新しい白い事務机に荷物を載せた。自分用のデスクがすでに用意されていたことを、素直にうれしく思った。
「中桜工業の石上という人が現場を案内してくれるそうです。下で待ってくれていますので、ひと回りしてきます」
ボストンバッグに入れて持参してきたヘルメットをかぶった。
「ええ、どうぞ」
藍原の口ぶりは、いつもと変わらなかった。
ひょろりとした長身から、親しみが発散されている。
生駒は立場的には下請け業者だが、藍原はクライアントである三都興産の担当者の前だけではなく、工事現場内においても対等の立場として扱ってくれるようだ。生駒の漠然とした微妙な不安感が、和らいだ。