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31 黒いネクタイ

「おはよう!」

 鈴木が上機嫌で声を掛けてきた。

「おはようございます」

「いい休養になっただろ。今日からまた忙しくなるぞ」

「はあ」

 人が殺されて、いい休養だと! とは大矢は言わなかった。

 しかし、そういう気持ちが顔に出たのか、鈴木が取り繕うように、若槻さんの名を汚さないようにいい工事をしないとな、とわざとらしいことを言った。

 大矢はそれには応えず、作業机にあったウェットティッシュの箱から三枚抜き取り、自分の机の上にうっすらと積もった埃を拭い取った。


 八時のチャイムが鳴った。

 ゼネコン職員も下請けの業者も外の広場に出て、合同の朝礼が始まった。

 もちろん、焼肉パーティのなごりはどこにも残されていない。

 鈴木が若槻の一件を簡単に報告し、しばらくの間は自分が現場の指揮を執ることを発表した。太った腹が、いつもより自信満々に突き出ていた。


 朝礼の最後に、鈴木は若槻の死を悼んで黙祷をささげることを提案した。

 大矢は鈴木の心にもないポーズに、胸が悪くなった。

 目を瞑ると、コンクリートにこびりついていた血がまぶたに浮かんだ。

 朝礼が終わり事務所に引き上げると、鈴木が所員全員に呼びかけた。

「みんな、聞いてくれ! 今も言ったが、新しい所長が着任するまでは俺がここの指揮を執る。これまでにも増してがんばってくれ!」

 大矢には勝利宣言に聞こえた。

 それほど鈴木の声には高揚感が満ちていた。


 大矢は午前中、生駒から連絡を受けて収納扉の確認に立ち会った。

 作業の遅れを取り戻そうというのだろう。今朝は誰もが早くから現場に顔を出し、活気が戻っていた。

「これです。色、どうでしょう?」

 石上が住戸のリビングの壁に立て掛けてある収納扉を指さした。

「寝室に持って行ってくれますか。寝室の扉と並べて確かめたいので」

 生駒が注文をつけた。

「すみません。気が効かなくて」

 そう言って石上が扉を抱えあげようとするのを手伝い、壁のクロスに傷をつけないように慎重に主寝室まで運ぶ。

「うーん。いいでしょう」

 生駒の応えに石上は喜んだ。

「よかった! では早速取り付けます。お手間をとらせました!」

 再びリビングまで扉を運び、石上が作業を始めた。

 床に置いた扉に金具を取り付けている石上の背中を見下ろしながら、生駒が話しかけてきた。

「若槻さんが亡くなって、現場は大変でしょう」


 大矢は生駒とこれまで何度も一緒に現場を回ったりしている。

 すでに親しみを感じる間柄ではある。

 しかし相手が誰であれ、若槻の死のことを話すときにはどうしても気持ちが引いてしまう。

「ええ、まあ」

 我ながら、気のない返事だと思った。

 生駒もそれに気がついたのか、少しの間、黙って石上の作業を見下ろしていたが、しばらくするとまた話しかけてきた。

「これから鈴木さんが現場所長ですか」

「いえ、今のところ現場所長は不在で、鈴木は代行という形です」

「なるほど。で、新しい所長は?」

「まだ、決まっていないようです。ああいうことがあった後ですから、急には決められないようで」

「かもしれませんね」

「いわば危機管理ができていない会社、ということです。若槻所長が亡くなってから、もう一ヶ月も経つというのに」

 自分でもびっくりするくらい、吐き捨てるような言い方をしていた。


「ところで、事件の解決のめどはついたんでしょうか」

 生駒が、そういう大矢の反応に頓着することなく聞いてくる。

「いえ。警察はいろいろ調べてるんでしょうけど、なにも進展してないようです。少なくとも私はなにも聞かされてません」

 生駒が頷いた。

「本当に……、本当に腹立たしいことで、なんとも気持ちが治まりません」

 若槻が殺されたことに対する怒りが湧き起こっていた。


 大矢は、自分にとって若槻が大きな存在だったことを今更ながら実感していた。

 悲しみが心の中に大きな空洞を作っていることも感じていた。犯人が一刻でも早く捕まってくれることも祈りたかった。

 こんな感情になったのは生まれて初めてだった。

 しかし、何事もなかったかのように、工事は再び動き始めている。

 しかも、鈴木の指揮の下で。

 組織とはそういうものだし、だからこそ組織の強さがあるのだということをわかってはいても、やりきれない気持ちが軽くなることはなかった。


 石上が大きな体を丸めて、太い指で器用に次々とビスを留めていた。

「若槻さんのことは、私にとっても、他人ごととは思えないんです」

 生駒が、取り付けの終わった扉の建付けを石上が調節しているのを見ながら言った。


 大矢は誰からもそのことについて、今は声を掛けて欲しくはないと思った。

 こんなふうに、雑談めいた話はしたくない。

 つい、ぞんざいなものの言い方になった。

「幼馴染としては、そうでしょう……」

 石上の手が止まり、これでいいですかというように生駒を振り返った。

 大矢は、幼馴染という言葉の中に、小バカにしたようなニュアンスがあるような気がして、言葉を付け加えた。

「これから内装工事が佳境に入ろうというときですしね」

「ええ……。石上さん、それで結構です。無理を言って、すみませんでした」

 生駒が微笑んだ。

 穏やかな声だった。

「生駒先生のこだわりには、本当に参りますよ」

 そう言いながらも、石上が満足そうな笑顔をみせた。


 生駒と石上をその場に残して現場事務所に戻ってきてから、いつもは黒いTシャツにジャケット姿の生駒が、この暑い今日に限って、白いカッターシャツに黒いネクタイをつけていることの意味に気がついた。

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