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29 焼きそば屋の親父

 生駒はマンションの建物の中に入っていった。

 やがてはエントランスの風除室になる位置だが、今は自動ドアはおろか、なんら仕切るものはなく、いわば外部と同じだ。

 床は自然石の模様貼りで仕上げされる予定だが、まだコンクリートが打たれたままの状態。

 香坂と石上が出てきた。石上が、今晩は蒸し暑いですね、と声をかけてきた。

「ほんとに」

「そこへきて焼肉だから、これでもかって汗をかきますなぁ」

 と、手に持ったタオルで額を拭いた。


 この先に進めば天井が高くなり、空間が広がってエントランスロビーとなる。そこからわずかに涼しい風が吹き出てきた。

「もうちょっと風が吹くと、少しは気持ちいいんですけどね」

「そうですなぁ」

「あれ、石上さん、もう帰るんですか?」

「え、あっ、これ?」

 石上が、持っていた紙袋をわずかに掲げてみせた。中に水色の物が覗いていた。

「いやぁ、焼肉のタレで汚してしまって。汗もかいたんで、着替えたんですわ」

 さっぱりしました、と笑った。

 生駒と石上が二言三言交わしている間に、香坂は軽く会釈して何も言わずに足早に会場に戻っていった。


「あ、そうだ。生駒先生、ご指摘のあった例の特注の収納扉。色合わせができてますんで、今度来られるときにでも確認していただけますか」

「わかりました。じゃ、来週月曜日に」

 石上と別れ、生駒はロビーに入っていった。

 奥に照明がついている部屋があった。将来は集会室になる大きな部屋。当面は現場事務所として利用される。

 ゼネコンの事務所と生駒らの監理事務所が、プレハブの仮設建物から屋内のこの部屋に越してきたのは昨日のことで、パーティはそれを記念してという意味も込められていた。


 生駒は窓ガラス越しに中を覗いた。

 眩しいくらいに明るい。

 まだ片付けきれていないものが、そこらじゅうに置かれていた。

 鈴木がひとりぽつんと机の隅に腰掛けて、書類を読んでいた。

 電話が鳴った。

 受話器を耳にあてた鈴木の顔がみるまにこわばった。


 目が合った。

 鈴木は乱暴に受話器を戻すと、生駒に向かってやれやれというように大げさに両手を広げてみせると、くるりと背を向けた。

 生駒は事務所には入らず、その場を離れるとロビーを横切っていった。


 トイレはロビーを挟んで事務所とは反対側、管理人室になる小部屋の裏側の廊下を進んだところにある。

 廊下は薄暗かったが、かろうじてトイレの入り口がわかった。

 スイッチを入れるとやわらかな光が灯り、真新しいタイルを貼ったばかりの室内が照らし出された。

 ハッとした。

 小便器の前に人が立っていた。


「や、そこにスイッチがあったんですか。場所がわからなくて」

 織田だった。

 織田は小便器の前で生駒と体を入れ替えながら、照れたようにニヤリとした。

「さーて、次は喫茶店でもしますわ」

 生駒はとっさに声が出なかった。

 この男から、こんなふうに話しかけられたのは初めてのことだった。

「焼きそば屋、ご苦労さまでした」というのがやっとだった。

「あれは暑くて、失敗でしたわ」

と、織田は手を洗い、出て行った。


 織田は本来、このトイレを使ってはいけない立場だ。

 それを見られたことで、あのようにさっくばらんなことを言って、照れ隠しをしたのだろう。

 生駒は、設置されたばかりの清潔な洗面化粧台で火照った顔を洗いながら、そう思った。


 マイクを通した香坂の声が聞こえてきた。

「ここで、ご出席いただいた皆様からお一言……」

 エントランスに向かうと、鈴木が立っていた。

「近隣がうるさいと言ってきていましてね。もうちょっと辛抱してくれたらいいのに。まだ八時なんだから」

「さっきの電話?」

「ええ、まあ」

「予定は何時まで?」

「一応、九時ということで伝えてあるのですが。閉会をちょっと早めた方がいいかもしれません」


 会場では、パーティのためにわざわざ駆けつけてきた各業者の重役連中が、長々とした挨拶を始めていた。

 計画を絶賛し、若槻を初めとするゼネコン所員への美辞麗句。そして紋切り調の決意表明。

 聞いていて、おもしろいものではない。

 生駒は、コンパニオンが運んできた冷たい中華サラダを落ち着いて味わおうと、パイプ椅子に座った。

「先生。ひとついかがですか?」

 織田が立っていた。

 プラスチックの容器をトレーに乗せている。


「シャーベット。甘いものはあきませんか? 私は目がない方でしてね」

 生駒の前にひとつ置くと、そのまま立ち去りかけた。

「ありがとう!」

 あわてて声を掛けると、振り返った織田が乾杯するかのようにシャーベットを掲げて笑った。そして綾にもシャーベットを。

 生駒は気持ちが良かった。

 苦手な男であることはこれからも変わらないのだろうが、なんとなく気持ちが晴れた様な気分がした。

 目の前に置かれたシャーベットには、プラスティックのピンク色のスプーンが突き刺してあった。


 挨拶が次々と際限なく続いている。

 誰彼なしにマイクの前に立ち、もはや挨拶というより歌謡漫才だった。

 香坂がその横で役回りをこなそうとするかのように、にっこりとして律儀に直立している。

 火照った顔がかわいらしかった。


 今朝来たメールに書かれていたことを思い出した。


生駒先生、おはようございます。

今日は、待ちに待った焼肉パーティですね。

何か余興をお願いできませんか?

物まねとか、歌とか、マジックとか。

それとも私とダンス?

ジルバならちょっとだけ習ったことがあります。

冗談で~す!

現場の人は芸人ぞろいなので、先生の出番はないでしょう。

ところで、男の人の気持ちってわかりませんよね。

あれれ、誤解を生みそうな書き方ですね。

夫あるいは父親の気持ちって、ということです。

いまさらこんなことお聞きするのもどうかと思いますが、生駒先生、お子様はおられるのですか?

えっ、プライベートなことを聞くなって?


 綾を連れてきたことで、自分と香坂の間になにかが起こるということでもないが、次に話すときに彼女はどんな反応をするだろうと思うと、自然と笑みがこぼれた。


 元気一杯の男が、マイクの前で歌い始めた。手拍子が湧いた。

 織田が今度はミニケーキの皿を持って歩いていた。

 坂本や石上がそれを見て囃した。織田が手に持った皿を二人に押し付けようとして、怖気づいた二人が逃げ腰になった。

 行武はワゴンカーから、最後の料理が詰まったアルミ製の大きな平箱を引っ張り出そうとしていた。

 舞台の前では、藍原が片手に缶ビール、もう一方の手にフォークを持って仁王立ちしていた。

 その横では、田所や根木らが業者の若い社員のために、一升瓶を持ち上げていた。プラスチックのカップに並々と注がれた酒に、若者達は困惑気味の笑みを浮かべていた。

 生駒は、楽しそうに笑い、大声をあげ、さかんに口を動かしている人たちの間をすり抜けていった。そろそろ、綾を近くにおいておいた方がいい頃合だと感じた。


 突然、マイクがハウリングを起こしていやな音をたてた。

 あわてて田所がカラオケの装置の音量を調節した。

 鈴木が香坂の耳元で何ごとかを告げてから、生駒やゼネコン職員達が集まっているテーブルに近づいてきた。

「若槻所長はどこに行った?」

 川上や田所が知らないと顔を見合わせた。

「困ったな」

 確かに、会場に若槻の姿はない。

「そろそろお開きにしないと、近隣がうるさい」

「事務所の方を探してきまひょか。こんなときに昼寝でもあるまいにぃ」

 鈴木は酔った声の田所に、絶好調だな、と肩をぽんと叩き、腕時計に目をやった。

「事務所にはいない」

「トイレは?」

「いない。うーむ、仕方ないな。所長抜きでお開きにするか」

「ビンゴォ! ビンゴゲエムをしなくちゃぁ!」

「さっさとやってしまえ!」

 香坂がビンゴの司会に、大矢を指名した。


 お開きとなっても、ゼネコンの職員や工事業者の若い社員の尻は重かった。

 根木は設備業者の社員を捕まえてまだ飲んでいたし、そこかしこで、まだお開きには早い、などと言いながら料理をつついたり、一升瓶の中身を確かめたりしている者がいた。

 行武食堂のコンパニオンがそんな彼らに遠慮しながらも、徐々に片付けを始めた。

 紅白幕がはずされ、いつもの殺風景な夜の現場の景観が現れた。

 その只中に取り残されることになっても、いたるところにパーティの余韻に浸りたい者の姿が煌々とした明かりの中にあった。


 生駒はタクシーを呼んだ羽古崎を見送り、事務所に戻って帰り支度を始めた。

 ゼネコンの事務所で電話が鳴り始めた。監理事務所とゼネコンの事務所は簡易なスクリーンで仕切られているだけなので、電話の音はよく聞こえる。女子事務員が出たようで、鈴木は今ここにはいないという声が聞こえた。


 会場では根木と大矢が話し込んでいた。

 その周りを行武が荷物を持ってあたふたと駆け回っていた。

 藍原が生駒になおも缶ビールを押し付けてきた。


 業者の幹部達の車が駐車場から次々と出て行った。

 電車で帰る者も三々五々、生駒らの横を会釈しながら通っていった。

 ようやくゼネコンの職員たちが会場の一角に集まって二次会の相談を始めると、行武食堂の後片付けは一気に進み始め、テーブルクロスが剥ぎ取られ、テーブルの足が折りたたまれ、ライトバンの後ろには、詰め込まれる荷物が順序良く並び始めた。


 藍原がまだ缶ビールを手にしているのを気にした大矢が、酔いの回っただみ声で怒鳴った。

「それにしても所長は、どこに行きよったんや? 世話のかかるおっさんや。探すか?」

 川上が、困ったやつだというような目で大矢を睨みつけ、

「まさか。子供じゃあるまいし」と、吐き捨てた。

 根木が腕時計を確かめた。

「そろそろ、業者連中はみんな帰ったかな?」

 大矢が、いや、と言って、暗がりの中の駐車場にまだ残っている一台の車をあごでしゃくった。

 シルバーのトヨタセルシオ。その高級車に向かって織田がよろける足で歩いていく。ふと気づいたように、織田はこちらに体を向け、黙って頭を下げると運転席に乗り込んだ。

「あいつ、飲んでたか? どうせ、シートベルトもしていないんだろ。ほんとに、いい加減にしないと」


 セルシオは勢いよく発進したが、ものの数メートルも行かないうちに、ガクンと止まった。

「ふん、エンストしてやがる」

「いまどき、どんな車がエンストするんや」

 ゼネコン職員に囃されながら、車はすぐまたさらに勢いよく飛び出し、そのままゲートを走り抜けて現場から出て行った。

「乱暴運転!」

 根木の演説が始まった。

「ああいうのは自己破滅型だな。自分が破滅するだけなら勝手に死にゃあいいけど、、周りはとんでもない災難だ。無事に帰り着けばいいけど、万一のことがあったらどうする? 飲ませた俺たちも罪に問われる時代なんだ」

「縁起でもないこと言わないでください!」

 ゲートまで藍原を見送りに行っていた香坂が、戻って来るなり、根木にくってかかった。


 まあまあ、織田の家はすぐ近く。ものの一分もかからないよと田所がなだめかけたが、根木は収まらない。

「なのになんで、車で来るんだ?」

 飲酒運転撲滅キャンペーン演説を続ける根木を無視して、坂本と石上が、

「失礼します。今日はありがとうございました」

と、連れだって脇を通っていった。

「さ、これで業者は全員帰ったな。まさか、今から残業をしようなんていう物好きはいないな」

 現場事務所から出てきた鈴木に、大矢が、つまらないことを言うなとばかりに睨みつけた。

「今日はご苦労さん」

 鈴木は大矢の目を意に介さず、帰り支度を始めるように促した。

「生駒さん、今日は遅くまでどうもありがとうございました。綾ちゃん、また来てね」

「ハイ! ありがとうございました!」


 生駒は若槻に挨拶をしてから、と思って最後まで残っていたが、ついに若槻は現れなかった。

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