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28 夜の帳

 あっ、と呼びかける間もなく、作業服の男は自転車一台通るのがやっとの路地に入っていった。白髪をがりがりやりながら。

 石上の右手には手提げの紙袋。飲み物や弁当、着替えや替えの靴などを入れているのだろう。現場への往復に、石上はいつもくたびれた紙袋を使っている。

 そして左手にはスーパーの白い袋。食料品のトレイがいくつか透けて見えていた。


 路地の奥には、木造モルタル二階建て、築後四十年は経っていそうな古いアパートがあった。

 壁に赤い塗料で、デカデカと太陽荘と書かれてある。

 木の表札は薄汚れ、開け放した扉も建つけが悪そうにひと目見てわかるほど傾いでいた。

 扉の中はモルタルを引いた薄暗い土間になっていたが、もう何十年も洗われたことがないように黒光りしていて、靴箱の前に敷かれた端っこのちびたスノコの下には砂が溜まっていた。


 各部屋は六畳一間というところだろう。

 生駒は自分が学生時代を過ごした同じようなアパートのひと部屋を思い出した。

 角の取れた人造石のシンクがわずか六畳の部屋の隅に取り付けられていて、ガスコンロは持ち込み。

 各部屋には風呂はもちろんトイレもなく、洗濯物は当時ようやくできはじめたコインランドリーに持っていったものだった。

 部屋の物音は上下左右に筒抜けで、隙間風がいたるところから吹き込んでいつもかすかな音をたてていた。

 裸電球が垂れ下がり、ギシギシと音を立てる階段には、管理人の老婆が飼っていた猫の臭いが染みついていたものだった。


 こういうところに石上はひとり住んでいる。

 両側にベニヤ板の扉が並ぶ廊下の床をきしませて自分のねぐらにもぐり込み、スーパーで買ってきた出来合いのものを暖めて食べるという生活。


 生駒の気分はふさいだ。

 親しくなった石上の寂しい暮らしを垣間見たことだけで感傷的な気分になったのではない。

 住まいという意味では同列に並ぶものだが、自分が設計している建物との落差の大きさを突きつけられたように感じたのだ。

 えてして華美になりがちな数千万円もする分譲マンションを購入する人もいる一方で、こういう雨露をしのげるだけの最低限の空間に住む人もいる。


 生駒は、自分が設計しているものこそが正しく美しくて、人々の暮らしの向上に貢献していると有頂天になることほど、思い上がった考えはないと改めて感じた。

 もっと建築家としての自分に、できることがあるのではないか。

 まだまだ、自分はそういう意味で世の中の役には立っていないのではないか、と思ったのだった。


 生駒はふと我に返った。

 鈴木が話しかけていた。

「いやあ、生駒さん、すみませんね。遅くまで付き合っていただいて」

 生駒は招待を受けた礼を言った。

「生駒さんに現場に来ていただいて大助かりです。ところで例の石碑の件。どんな感じでしょうか?」

 若槻に頼まれたことを忘れていたわけではなかった。

「すみません。再整備するのは外構工事のときでしょう。まだまだ先のことですよね」

「ええ。でも申し訳ありませんが、地元にどんなふうに整備すると言っておきたいので」

「わかりました。じゃ、現時点のもので結構ですから、外構の詳細図をいただけますか」

「あ、そうですね。すぐにお手元に届くように手配します」

 若槻が話題に入ってきた。

「頼みますよ。気が進まないかもしれませんが、生駒さんにも思い出があることだし」

 鈴木が、なにか取ってきましょう、と席をはずした。軽快なフットワークでそつのない接待役を務めている。

 若槻が来たことで、席をはずそうとしたのかもしれないが。


 若槻が生駒に体を寄せてきた。

 そして、内緒話をするように、「俺に何か郵送してきた?」と、聞いてきた。

「いいえ」

「そう。じゃ、行武かな?」

「なんですか?」

「後でちょっと見てくれる?」

 若槻と入れ違いに、鈴木が戻ってきて、缶ビールをテーブルの上に並べた。

 これはなかなかいけますよと、イカやエビの塩焼きを山盛りにした紙皿を勧めたが、追いかけるようにしてついてきた設備業者が挨拶を始めたので、賑やかな中央のテーブルに戻っていってしまった。


 ひとりになった生駒は、藍原や他の業者が集まっている隣のテーブルに移動した。

 早速、藍原が話しかけてきた。

「今日の料理は飲み物別で、一人三千円だそうですよ。まあまあですね。行武食堂もぽつんぽつんと昼の弁当を配っているより、これ専門でやった方がよほど儲かるだろうに」

「確かにね。こんな宴会はいつもあるわけじゃないでしょうけど」

「行武さん、今日は奮発したのかもしれません。前にやったときより豪勢だ」

 生駒は宴会料理の質にたいして興味はない。しかし、藍原は何かを伝えたいかのように、声をひそめた。


「一昨日の昼の弁当を食べましたか?」

「いえ」

「行武食堂の弁当じゃなかったんですよ。別の業者の」

「そうだったんですか」

「最近、そこの弁当をとることも多くなってきました。特に、ハルシカ建設の幹部連中が現場に来る日は」

 行武が先ほど見せた不機嫌の原因は、これなのだ。


「今日のパーティは以前から予約をしていたので行武食堂がデリバリーしましたが、これからはよほど営業をかけないと、取って代わられるかもしれません」

 大の大人が弁当のことをこれほどとやかく言うこともないだろう。

 藍原はかなり酔っているらしくて、顔面真っ赤でろれつも少し怪しい。

「時々は代えて競争させないと、業者が甘えてしまいますからね。しかし、最近の職人はコンビニの弁当を買ってくる人が多くなって、行武さんのところみたいな零細な弁当屋は大変でしょうね」

 藍原が行武の動きを、ちらちらと目で追っている。

「それに、生駒さんのご友人のことですから言いにくいんですが、正直言って旨いというものではないでしょ。若い人にはあれで良くても、僕らみたいな年齢のものにとっては、毎日はちょっとね。脂っこすぎて」

 そういいながら、塩焼きのイカに大胆にかぶりついた。


 羽古崎が話に加わってきて、ようやく弁当の話から開放された。

「今日のパーティは静かですね」

「前回はいつだったかな、半年くらい前かな。あの時はもっと人数はいたし、おたくの女性社員も来ていて賑やかでしたねぇ」

 藍原が、さあさあと目の前の料理を羽古崎に勧めながら同調した。

 おしゃべりすぎて、そばにいて、どうにも落ち着かない。酒が入るととたんに声のトーンもボリュームも、上がりっぱなしになるタイプだ。

「でも女性社員の代わりと言っちゃなんですが、生駒さんがかわいいお嬢ちゃんを連れて来てくれましたよ」

「ですよね!」

 と、藍原が元気一杯に応えたものの、羽古崎は口調は愚痴っぽくなった。

「今日はおとなしいというか、淡々と食って飲んで、という感じですねぇ。こういうのも、ゆっくり話ができていいですけど」

「私はこれくらいのしっとりした雰囲気が好きですよ。焼肉の煙で、ただでさえ近隣に迷惑がかかっているんですし」

 生駒は今日のパーティーは成功だということにしたかった。

 若槻にしろ行武にしろ、声援を送りたい気分だった。

 羽古崎や藍原のやんわりとした非難を、自分なりに押し返しておきたかった。


 羽古崎の視線の先には、大声をあげている中央のテーブル。

 その集団の中心人物は鈴木。根木をからかっているようで、ふたりのやり取りのたびに周りがどっと沸いていた。

 藍原がエビの尻尾を口から出したまま言った。

「ですよね。生駒さんに同感です! きちんとしたことの好きな若槻さんの人柄もあるし、最近の現場の状況を考えると、あまり浮かれすぎる気分にはならないんでしょう。ねぇ、羽古崎課長」

 羽古崎がはっとして、藍原に向き直った。


「現場の状況?」

「お耳に入っていると思いますが、最近、若槻所長と各業者の間で揉めごとが多いでしょう。表立ったことはたいしてありませんが」

「ええ、聞いています」

「現場で監理をしていると、ギクシャクしているなって感じることがあるんですよ。ここは、うまく回り始めるのに、もう少し時間がかかるんでしょう。どういうわけで、現場のメンバーが交替になったのか知りませんが」

 生駒もそれは知りたかった。

 羽古崎は知っているはずだ。

 しかし羽古崎は、そろそろ蛍の季節ですね、と夜空を見上げた。

 その手の話には関心はないというポーズなのだろう。

 藍原もつられて空を見上げたが、すぐに羽古崎に視線を戻し、

「さっきの話ですが」と、食い下がった。

 羽古崎がうんざりしたように手を振った。

「現場の人間関係に興味はありません。滞りなく竣工してくれればいいんです」


 現場所員の交替の理由を聞きそびれた。

 ただ、前の所長の顔も知らない生駒にとっては、どうでもいいことだった。

「羽古崎課長はどう思われます? ギクシャクしているのは黒井さんの事故も関係しているからじゃないですかねぇ。若槻さんは、秘密裏にあの事故の原因を追究しているのかも。業者の誰が事故原因を作ったのかと」

 藍原は、生駒が事故の直前にあの足場を通ったはずだと言ったときの自分の反応を忘れたかのように、事故のことをほじくり返していた。

「若槻さんとしても、あの事故をそのままにはしておけないんでしょう」

 下請け業者と若槻の間の軋轢と転落事故とを、どうしても結び付けたいようだ。

 そんな話を楽しんでしているようだった。


 羽古崎はいつのまにか、するりと席をはずしてしまった。

 生駒は夜風に吹かれて、ゆっくりとした気持ちで食事を楽しみたくなった。

「ちょっと失礼。トイレ」

 生駒は藍原と離れ、会場を離れた。

 屋外にある工事用の仮設トイレは会場のすぐ近くにあったが、あえて遠くのトイレを選んだ。

 工事中のマンション一階にあるトイレの方が、本設のもので清潔なのだ。引き渡し時には機器類を取り替えるので、作業員以外なら誰が使ってもいいことになっていた。

 会場から遠ざかるにしたがって、焼肉や炭火の臭いは急速に薄れ、奈良の空気の新鮮さを実感できた。


 振り返ると、夜の工事現場特有の荒涼とした静けさの中で、人々が紅白幕に影絵となってパントマイムを演じていた。

 たち昇っている盛大な煙がライトに照らされて、触れることができるほどの質感を持って夜空に揺らめいていた。

 砂漠を移動する旅芸人一座の宿営地のように。


 会場となった広場の左右には駐車場があり、平屋建ての各業者の現場事務所が建っている。それらの隙間を共同の仮設トイレ、資材置き場、ゴミ置き場、洗車場などが埋めている。

 会場はこうこうと照らしだされ、ゲートや事務所やトイレにも照明が灯っていたが、駐車場や資材置き場には夜のとばりが降り、駐車した車列や、角材に敷き並べられたコンパネの上に積み重ねられたタイルの箱が、さらに濃い陰を作って静まり返っていた。

 マンションの上層部から見下ろせば、暗い荒れた大地に穿たれた光溢れる地下国への入り口から、予期せず膨大な水蒸気がたち昇っているように見えたかもしれない。

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